「人ひとりが死んでいるんだから」この采配なのだそうだ。


「人の命の重さを考えたら」当然なのだそうだ。


では、まだ今、生きて歯を食いしばってる子どもの命の重さはどうなのだ。

死んだら人の命は重くなるのか。


私が言ってるのは屁理屈だろうか。



自殺者を物差しにしてはいけないと言いたいのだ。


前記事でぐだぐだ言ったけど


http://ameblo.jp/ducati-400ss/page-4.html


http://ameblo.jp/ducati-400ss/entry-11450438626.html


今、何となく自分が引っかかるのがどこなのかさらにわかってきた。



この事件に呼応するように、すでに東京の中高一貫校での体罰によって

転校を余儀なくされた生徒が訴訟を起こしている。



彼女の命と、死んだ彼の命の重さは同じだ。



「死んで訴えなければ、大人は何もわかってくれない」

などという悲しいメッセージを子どもたちに示してはいけない。



今回の一連の動きを子どもたちがそのように受け取ってしまわないか心配だ。

大人の過剰反応は、子供にとってはとてもショッキングだ。


もっと粛々と地道にやっていただきたかったのはそういう理由だ。



体罰という名の暴力行為はこの高校だけで行われている訳ではない。

彼の自殺は、図らずもそれらを世に顕す警鐘にはなったろう。


だったらまずは、市長の権限の届く限りの教育機関を全て洗い直して

公平な措置をとるべきではないのか。

この一校だけに、拙速な対策をとるのは、何か火消し的な焦りを感じてしまう。


「受け入れ態勢(改善された受け入れ方のことだろう)ができているとは思えない」

というが、他校の実情も把握せずに、ここの教師だけを分散させても

ここの見た目が変わるだけで、全体としての改善に結びつくとも思えない。



言い方が悪いが、暴力団を解体すると、

肩書きでも見た目でも判断できない非社会的市民がばらまかれてしまうのと同じことだ。


ひとまとめにしておけば、指導や処罰の仕方があるものを、

わざわざ撒き散らせば、いらぬ感染を引き起こす恐れがあるのではないかと思う。

かといって全員免職という訳にもいかないだろうし。



前提として、私たちの頃とは、教員の質が絶望的に違うらしい。

私が味わった体罰とは、主に、約束を破ったから、取り決め通りの制裁として


「足 肩幅にひらけ! 手 後ろで組め! 目 閉じて 歯 食いしばれ!」

で、ばしーんと、音ばかりハデなビンタ。

そして、親に報告するかわりに、教師の名前と日付入りのハンコをほっぺたに押印されたものだ。


当然、家で「何やったの?」と聞かれてもう一度お説教を喰らうことになる。


グランド周回させられるとか、水の入ったバケツもって廊下に立たせるとか

正々堂々とした体罰だった。


あれらを体罰として禁止してからじゃないのか、こんなふうになったの。


あとは、バレー部で、ボールに混じって時々スリッパが飛んで来るという類。

まあ、たまにはあったけど、日常的に手を上げる教師というのはいなかった。


叱ると、怒るの違いだな。


あ、話がそれた。



彼の死を契機に様々な改正が行われるのはよいだろうが、

死者が出たか、出なかったかを尺度にするべきではない。


体罰が直接、生死に関わったなら今回の措置は妥当だが、そうではないのだ。


自殺と、体罰を同じ袋にまとめて話し合うのは間違っている。

死の原因をすべて体罰に求めるのは間違いだ。


彼は、兄に勧められて、顧問に宛てた抗議文を書いている。

もしも顧問の体罰から逃れることだけが自殺の目的なら

これを書いたことで、ある程度のカタルシスは得られたはずだ。


だが、彼はこれを顧問に渡すことなく、死を選んだ。

抗議の先にあるものを、死よりも恐れ、絶望したということだろう。


それが何だったのかは、彼のそれまでの行動が示しているのではないか。


それも、揺れ動きやすい思春期の自殺に

明確な理由というものが存在すると前提すればの話だが。




体罰を撲滅させるのはもちろん結構だ。


だが、体罰などというわかりやすいことがこの事件の本質とは思えない。

本当の根っこは、もっと暗いところにある。

もっと重大な責任が、大人にはある と私は考える。



「体罰」は、それから衆目をそらすためのスケープゴート

と、私には見えるのだ。


橋下市長はその執行人に過ぎない。