当時、新聞記者だったテオドール・ヘルツルは、この事件を取材し、「同化でユダヤ教徒への迫害が無くなるというのは幻想であり、真の意味でのユダヤ教徒の解放は、民族国家を創設することでしかあり得ない」という結論に至ります。
1896年に記した『ユダヤ人国家』という著作の中で、彼はそうした自説を展開しています。ヘルツルを中心にする運動は、翌年、スイス・バーゼルにおいて、第一回世界シオニスト会議なるものを開催します。そしてこの会議は、「ユダヤ人のホームランドをパレスチナに建国する」ことがシオニズムであると規定します。シオニズム誕生の瞬間です。
ヘルツルらシオニズム運動の推進者、つまりシオニストと呼ばれる人々は、西欧帝国主義諸国の支援を得やすいように、自らを「アジアに対する欧州の防壁となり、野蛮に対する文明の前哨」と位置付けました。シオニストは「土地無き民に、民無き土地を」というスローガンを掲げます。
他方、それ以前から、ロスチャイルドなどユダヤ系大資本の援助の下で、パレスチナに多数のユダヤ教徒を入植させていくという運動が始まっていました。その際に入植者のユダヤ教徒は、大部分がロシアなど東欧出身の人々であり、入植をバックアップするのは西欧のユダヤ系資本家でした。ユダヤ系資本家にとって、パレスチナへのユダヤ教徒の入植は、帝国主義的発展の道であり、従って己の利益になる一方で、ユダヤ教徒としての立場とも矛盾せず、良心の呵責に苛まれることもなかったのでしょう。
しかし、パレスチナは「民無き土地」ではありません。
千年も前から、そこには人が住み続けてきたのです。そしてユダヤ教徒の入植者は、現地のパレスチナ人――その中にはイスラム教徒や東方正教会に所属するキリスト教徒、そして古くからのユダヤ教徒が含まれていました――を低賃金で雇い、農園経営に利用していきます。つまり、西欧帝国主義諸国の資本家が行ってきたことと同じように、現地のパレスチナ人を搾取していたわけです。少しあとの数字ですが、1922年の段階でアラブ人住民が63万人であったのに対して、元々パレスチナに住んでいたユダヤ教徒に東欧からの入植者を加えても、ユダヤ系住民はわずか6万人にすぎませんでした。
オーストリア出身のユダヤ教徒哲学者マルティン・ブーバーによると、ヘルツルの片腕だったマックス・ノルドーという人は、パレスチナに多数の先住民がいるという事実を知り、ヘルツルに抗議したそうです。「私たちは不正を犯そうとしている!!」と。
こうした一部の疑問や抗議にもかかわらず、シオニスト主導の入植運動は進行していき、その中から「この土地からアラブ人を追い出さねばならない」という歪んだ思想が生まれます。そしてユダヤ入植者の中で、帝国主義的にアラブ人を搾取する入植者=つまり、アラブ人の存在を必要とする者と、パレスチナからアラブ人を追放しようという人々=シオニスト系移民の間で、衝突や流血事件が頻発します。そしてこの争いは、アラブ人を排除し、パレスチナの地をユダヤ系で独占支配しようとするシオニストの勝利に帰します。
さらに、パレスチナの混迷を決定的にしたのは、西欧帝国主義諸国の醜い征服欲の衝突=第一次世界大戦でした。
(続く)

テオドール・ヘルツル
※前回、ドレフュス事件が起きた年を1898年と書きましたが、正しくは1894年です。お詫びして訂正します。
