うなぎにまつわる有名な逸話として「『夏の土用の丑の日にうなぎを食べる』という習慣は、平賀源内が発案した」というものがあります。

 一方でウナギ文化に多少詳しい人なら「平賀源内がウナギと土用の丑の日を結び付けたという確実な資料はない」という話を聞いたことがあるのではないでしょうか?

  存在しないことの証明はなかなか困難ですが、現時点では見つかっていません。土用の丑の日にウナギを食べる習慣がひろまったのと同じ時期の有名な文筆家である平賀源内に、その起源が結びつけられらのではないかと現時点では考えられます。

 

 では平賀源内の著作にはうなぎについての記述が全くないのでしょうか?いろいろ探している中でひとつの書物を見つけました。

 

それが、風来山人・著『里のをだ巻評』(安政3年(1856年)7月 翻刻は2011『江戸吉原叢刊』第5巻に所収)です。

 

本書は平賀源内が風来山人という戯号(ペンネーム)で書いた洒落本です。

内容は男性3人が吉原の案内図「里の緒環」をタネに、吉原や他の遊里の評判や優劣を論じあうというものです。

うなぎはもちろん、食に関する書物でもないのですが、文中に2か所うなぎに関する記述がみられます。

 

1:「・・・吉原へ行、岡場所へ行も、皆夫〃の因縁づく。能も有、悪いもあり。江戸前うなぎと旅うなぎ程旨味も違はず、下り酒と地酒ほど水の違もあらざれば、・・・」

 

 「吉原は遊女の質が高く、吉原で目立たなくても外では大評判になる」という意見に対して、「吉原にも他の遊里にも、美女もいれば不細工もいる。全体で見れば吉原とほかの遊里に大差はない」と反論するくだりです。

 そこで「江戸前うなぎと旅うなぎ程、旨味も違はず」と引き合いに出しています。

「江戸前うなぎ」とは江戸前(現在の東京湾のうち江戸に近い当たり、あるいはそこに流れ込む河川)で獲れるウナギで、「旅うなぎ」は江戸から離れた地域から運ばれてくるウナギのことです。

輸送手段が限られ、冷蔵冷凍技術もない江戸時代において、江戸に限らず鮮魚は海沿い川沿いでないと手に入らず、離れた場所に輸送するには干物や漬物など加工食品にするしかありませんでした。ところがウナギは少量の水があれば皮膚呼吸ができ、生命力も強かったので、現在ほどではないですが江戸の周辺地域から持ち込まれることも多かったようです。そうした他所のうなぎを当時は「旅うなぎ」と呼んでいました。

ただ、「旅うなぎ」は「江戸前うなぎ」に劣るものとされていたようです。江戸時代の絵草紙の中でうなぎ屋が「うちのウナギは旅うなぎじゃございません」と言う描写が見られますし、浮世絵などでうなぎ屋の店頭にかかげられた看板に「江戸前 大蒲焼」と書かれているのは「当店では江戸前うなぎを使っていますよ」という品質のアピールだったと思われます。

 『里のをだ巻評』では大差がないことの例えとして「江戸前うなぎと旅うなぎ程旨味も違はず」と言っています。言い換えれば江戸前うなぎと旅うなぎはそれぐらい味に差があるものだとされていたのでしょう。

 

ちなみに、うなぎにつづく「下り酒と地酒ほど」の「下り酒」とは、上方(関西)から運ばれてきた酒のことです。灘や伏見の酒がこれにあたるでしょうか。上方で造られ江戸に運ばれたものは「下りもの」といって高級品として珍重されたそうです。なので「下り酒」とは高価で上等な酒のことを指します。上方で造られたものでも輸送費をかけて江戸に運ぶほどでもない質の劣るものは地元で消費されたそうで、「くだらない」という言葉はこれに由来するといわれています。

 

2:「・・・深川の地は陽気にして偏らず、船の通路自由にて、牡蠣店の牡蠣、文蛤町の文蛤(はまぐり)、鰻鱺(うなぎ)は黒江丁に名高く、雁金焼は万年丁にかくれなし。・・・」

 

 先述の江戸前うなぎと旅うなぎの例えに続いて、「吉原は江戸市中から遠くて、わざわざ行こうと思わなければ行かないが、深川にはカキ、ハマグリ、ウナギなど美味いものや、遊興の場も多く賑わっている」と深川を持ち上げ、吉原をおとしめるくだりです。

 

 当時の吉原は明暦2年(1656)に幕府によって日本堤(台東区日本堤)へ移転を命ぜられたいわゆる「新吉原」で、浅草の浅草寺や上野の寛永寺などからも徒歩で行くにはまあまあの距離だったと思われます。

 それに比べれば深川は「天下の日本橋」から徒歩30分に位置しており、隅田川河口に近い海沿いで水路も多く、交通の便が良かったことがうかがわれます。賑わっていたことも想像に難くありません。

 町名として登場する蛤町、黒江町、万年町はいずれも現在の門前仲町周辺にあった町名です。牡蠣店はわかりませんでしたが、もしかしたら近くの日本橋蠣殻町のことかもしれません。

 万年町の雁金焼は米粉を溶いて焼いた焼き餅状の菓子だそうです。

 深川の遊里は洲崎(現在の江東区東陽町あたり)にありました。洲崎は上記の黒江町や蛤町などからはやや離れていますが水運はよかったようですし、富岡八幡宮の門前(門前仲町)で遊んだあと足をのばす、といったこともできたかもしれません。

 

 吉原と深川のどちらの質が高かったのか?遊里についてちゃんと調べていないのでここでは論じませんが、

 平賀源内が「江戸前うなぎと旅うなぎでは味が違う」こと、「深川黒江町では鰻料理が名高い」ことを記しているのは興味深いと思いました。