その成長は、体だけでなく、心、すなわち精神面でも急激に行われます。
小学校にはいると、言葉や文字の学習によって経験の範囲が非常に広がり、思考能力も発達します。また親から離れ、同年代の少年と過ごす時間(学校や遊びなど)が増えるので、仲間と協調しながら物事を進める能力も急激に伸びます。
体の面では、毎年コンスタントに大きくなりますが、神経系統と一般型(骨格、筋力)とでは成長のカーブが違い、そのことをよく理解して指導に当たらなければなりません。
最近、サッカースクールやサッカーチームにはいってくる少年たちを見ると、何か「教えてもらう」という受動的な姿勢ばかりが目立ちます。学習塾やピアノ教室と同じような感覚ではいってくるのでしょう。
たしかに、「横浜マリノスサッカースクール」という名称になっていますが、私たちはこれは「学校」ではなく、「遊び場」のひとつと考えています。
「遊び」は子供の特権です。
「遊び」とは、本来的に自由で主体的な活動です。子供たちは「遊び」のなかから楽しさを見いだします。すなわち、「内発的動機づけ」を行うことができます。そして楽しいことにはすばらしい集中力を発揮し、いつまでもあきることなく続けます。そして楽しくなくなったら遊びをやめるのが、子供の自然な姿です。
現代の日本では、子供たちの「遊び」というものが大きく変化してきています。遊びに使う時間も大幅に減少しています。
外で体を使って遊んでいたのが、テレビゲームなど室内での遊びにとって代わられ、ガキ大将を中心に大人数で遊んでいたのが少人数あるいはひとりの遊びになってきています。またかつては年齢的に幅をもった「タテ関係」の遊び集団だったのが、同年代の子だけの「ヨコ関係」が中心になりました。
これは「遊び」にとっては大きな危機ということができるでしょう。子供が成長の過程で経験しておかなければならないことがフルに盛り込まれた「遊び」が危機に瀕しているということは、すなわち子供たちにとって重大な危機であるということです。
サッカーというゲームの魅力は、「自由で主体的な表現」ができるという点にあります。すなわち、「遊び」なのです。たくさんの少年たちがサッカーに引きつけられるのは、カツコいいとか、プロになれるかもしれないということより、そうしたサッカーの根源的な魅力を感じているからにほかなりません。
サッカーを始めた少年が、もし自発的に途中でやめたくなるなら、それはサッカーの「遊び」という本質を与えることができなかったコーチの責任ということができます。けっしてその少年の「適性」の問題ではありません。なぜなら、楽しい遊びであれば、少年はけっして投げ出すことなどないからです。
「大人(コーチ)が過剰な管理や干渉で子供(少年)にサッカーをやらせる」という形になったら、子供の主体性が失われ、「遊び」としての魅力はまったく感じられなくなってしまうのです。