私たちは完璧ではないし、神ではない。
だから叶わぬ願いもあれば届かぬ想いもある。
努力や手段では決して届かない、掴めないものもある。それが現実。
そんな台詞をどこかで聞いたことがある。
諦めることは悪いこと、逃げることは弱いこと。
そんなイメージがあるせいか、心のどこかでまだ大丈夫、なんとかなるって自分に言い聞かせる。
けれど、いつしか気づき始める。
先天的な差や絶対に自分の力では変えられないものがこの世にはあるってことに。
自分という存在は自分にとって唯一無二の存在だ。だから、誰しもが自分のことを最も優先するし、誰しもが自分を自分の人生の主人公に設定して進めていく。
だから人はこうしたい、ああしたい、ああなりたいって感情や欲望、本能を達成して満たすために行動し、発言する。
どんな綺麗事もどんな美談もどんな言葉も、根本的には人のエゴの上に成り立つ。
分かっていたはずだった。当たり前のことのはずだった。
それなのに、人は感動や正義や優しさ、勇気、愛情、友情、絆、祈り、希望、温もり、そういった心地良い言葉に気づけば追いすがり、求め崇める。
自分が悪いと責めても、あいつが悪いと責めても所詮口だけ。
何か代償を支払うのか?何か代償を払わすのか?
実際はそんな覚悟はないし、責任を負うことも出来やしない。
それなのに、人は自分を傷つけ他者を傷つける。
誰も傷つけない、誰にも迷惑をかけず生きている人間などどこにもいやしない。
心地良い言葉や行為を推奨するわりには人間はあまりにも矮小な思考、欲望、そして行為に至る。
それが現実なのだ。それが人間の、生きることの本質なのだ。
さらに、その本質に逆らう人を人は偽善者と中傷する。
いつも同じだ。
周りに流され、自分で物事の善悪を判断することを放棄し、自分の行為の責任を誰かや何かに転嫁して大衆化していく。
それでも許されるから。あまりにも便利な世の中で平和で、自由が約束されている環境下にいるから。
だから、自分の愚かさも未熟さも弱さも否定し、目を逸らし、無自覚、無責任な行為を繰り返すのか?
俺は自分が卑しい人間だとわかっている。
間違ったことを沢山してきた。何の覚悟ももたずに人を非難したり、裏切ったりしてきた。都合のいいその場しのぎの言葉で相手を欺き傷つけてきた。悪いと分かっていて何度も恥じたけど気づけばまた繰り返してきた。
人間は未熟でよわいから、だから仕方ないんだ。なんて言い訳をするつもりはないし、傷つけた人、傷つけた言葉、過ちの行為、どれも全て忘れないで覚えてる。
何度も心の中で謝って何度も自分を罵倒して、俺に出来ることはそれらを忘れないことだと思っていつも自分を戒めて生きている。
だからって偉くないし、多分今も過ちを犯してしまっているのかもしれない。
過去は変わらないし、放った言葉、行った行為は二度となかったことにはできない。
だから、慎重にしなければならないはずなのだ。
放つ言葉、行う行為。
人間は脆いし、弱い。
群れてなければ自分の存在意義を見いだせない者もいるほど、今や誰かに依存して生きている生き物だ。
アメーバも、このブログもそういった人間の性質があるがゆえの産物だ。
理解しているはずなのだ。本当は誰しもが。
それでも変えられない。
与える痛みはいつも同じ。
与えられる痛みはいつも同じ。
知らなくていい真実、知りたくない真実ほど容易に知ってしまうことも同じ。
どんなに努力しても、どんなに試行錯誤してもいつも同じジレンマや矛盾にぶつかる。
そしてその全てが人間の本質的な悪意、愚かさで説明できてしまう。
届かないと分かっているのに届けたいと願ってしまう想い。
叶わぬと分かっているのに叶えたいと願ってしまう願い。
神に祈っても通じるかどうかなんて分からない。
人がすがる、それらの心地良い言葉や行為があまりにも脆く、危ういものなのだと実感せざる得ない。
それでも繰り返すのが人間なのだ。
裏切られるかもしれないのに信じてしまう。
離れていくかもしれないのに愛してしまう。
その、自分にとって都合の良い言葉や行為が果たして本物なのか否か、本当は不安になったり、疑心暗鬼なのにそういった感情に背を向け必死に信じたい目の前の光景に追いすがるという行為。
それらを愚行と言い捨てられぬほど、それが人間らしさなのだと痛感する。
ネットを通して色々な人と接し、話し、見聞きし、現実の世界で実際に人と交流するといつも思ってしまう。
人間とは本当に難しく、単純な生き物なんだと。
矛盾した表現にみえるが他に言いようがない。
最近は本当に身に染みて感じる。
前にこんなアドバイスをしてくれたおばあさんがいた。
『幸福で在る秘訣はね。決して相手に期待しないことだよ。与えても求めちゃいけない。求めちゃうから辛かったり苦しかったりするんだからね。恩は返してもらわないって思うぐらいが丁度良いんだよ。』
本当の幸福は他者から与えられるものではない。
他者から与えられる幸福を信じてはならない。
確かにその通りだ。
しかし、そのことを本当に理解するには経験と時間が必要なのだ。
生きることに痛みはつきものだ。
しかし痛みから学べることもある。
それに気づけるかどうか、活かせるかどうか。
人生を楽しく笑って過ごすためには必要なことなのかもしれない。
だって、よく言うでしょ?
笑っている人ほど悲しんでるって。
言葉は強力だけれど、想いや願い同様相手に必ずしも届くものではない。
大切なのは、届くかどうかでも、伝わるかどうかでもない。
自分が相手に伝えたかどうか。
それで伝えたことに満足さえすれば、相手に無駄に期待せず、執着もしないですむ。
恋愛においてもそう。
俺はわりと重くなりがちだから、いつも次の3つの、パートナーと良好な関係を築き続ける方法を心の中で思い出している。
①相手を常に思いやること。
②何があっても相手を信じ抜くこと。
そして、③
決して相手を愛しすぎないこと。
自分が尽くす分を相手に求めてはいけない。
人は完璧ではないし、神でもないのだから。
人間の弱さも愚かさも知っていて、傷つく勇気もあるのなら、相手に要求してはいけない。
自分が適度に相手に寄り添えばいいのだ。
愛は犠牲というけれど、犠牲を支払っていると感じるのは、対価を求めるから。
ただ与えればいい。伝えればいい。
たとえ返してもらえなくとも。
たとえその想いが、言葉が、届かずとも。