傷めた壁の色塗りから 学ぶ。
私たちはどうしても、
現状の自分に決別することを決め、心理の世界へ足を突っ込んだら(言い方w)
「いつ変われるだろう」「どれぐらいかかるだろう」って考えるし、
「じゃあ、私もあなたがかかったそのぐらいの時間が経てば、その時にはあなたのようになっていますか?」
よくそんな事を聞かれたりもする。
削れた補修して色を塗った時、色をどんなに合わせても、どうしてもそこだけ浮いてしまう。
人間が変わりたいと思い、変わっていく時も、時間をかけて変わった人は、きっと全体を見た時にも全体の調和がとれているのだと思う。
外から採り入れ付け合せたものは、やはり不自然なもの
"過ぎたことを悔やんでも仕方がない"の実践なんかは皆、多かれ少なかれあると思うけど、なかなか上手くいかないものでしょ?
"人に優しく"もそうかも知れない。
それが本当にいいのだ、そうして生きていこう!と思い立ち、いつものその相手の前で女神のように変身しても、ものの10分でもとの自分に引き戻される。いや、もっと酷くてなんなら、その分溜まったモノを噴射してしまったりもしている笑
やらなかった方がお互いマシだった。
みたいなね笑
そこにどんなに色を合わせた筆を当てても、塗ってみればなんか違う。
そこには"時間"や"歴史"という色が存在するのだ。
人にも。壁にも。
白に寄ったクリーム色の壁。
そこには目に見えないような凹凸や、付着物、あるいは掠れ。コケだったり、ホコリや砂の汚れだったり…
そして、その"時間"や"歴史"を細かい単位で見てみようとしたならば、空気中を通る雨や風や…
もうそれと全く同じというものは
どこにも、何にも存在しない。
同じに見えても。
あの日あの時の雨と全く同じ成分はきっと微細に違うのだ。
その積み重ねの結果の今の壁の色味という全体。
誰かとの間での単位でも、
その歳の時という単位でも、
仕事という単位でも、
恋という単位でも、
親の自分という単位でも、
子どもとしての自分という単位でも
無数にカテゴライズされる「経験」が、その人を思考的にも感覚的にも無数に変わってきたはずだから
その総体が「私」なのですよ。
誰かみたいになろうとしなくていいし、
また、なれないし。
急に変わらなくてもいいし、変われないし。
でも、その不自然さえも、続いていけば
自然の一部になる。
どのようなあなたでも、
あなたはあなただけの「私」が在る。
だから、
安心して、いい🙃