VF(心室細動)、VT(心房細動)も心停止。こちらは心臓がブルブル震えてる状態。アドレナリンと胸骨圧迫、更に除細動器やAEDの電気刺激で心臓を正常な動きに戻す。
「ハアッ。石川から聞いてたけど。ミラさん元ファイターでしょ、ガタイいいっ…」
もっか圧迫中、吉村君は息も絶え絶え。彼はギリ20代、ウチの石川君と同期。
PEAの引き金、原因は多岐に渡る。ミラの場合、主な原因は呼吸不全。
だから人工呼吸器は「強制換気モード」、呼吸の全てをサポート中。
(※強制換気モード…自発呼吸が無い場合に用いる設定)
肺のガス交換、酸素を確保できているから。それを今僕は、ミラの全身…臓器へ、特に「脳」へ血液を、酸素と二酸化炭素を巡らせているんだ…。
「一太君。原疾患の方、BS(血糖)はブドウ糖の持続投与とアドレナリンも奏功して、維持できてるわ」
「リズムチェックまで、あと1分30秒です」
(※リズムチェック…2分ごとに心電図モニターの波形を確認して、次の行動・治療を決める)
救急カートの背後に立つ看護師相澤君が、看護記録担当とタイムキーパーだ。彼も救命救急科の所属。
「アドレナリン1Mg準備して下さい」
「木山先生、了解。相沢さん、薬液のダブルチェック、お願いします」
あっ今、気が付いた。
山崎さん左右の眉毛が無い、目の周りも真っ黒だ、アップした髪もほつれてる。
誤嚥窒息したミラの対応に、どれほど格闘したか物語ってる。
医師の指示受けに、まわるわけだよ。
しかしミラに投与するアドレナリンは、トータル3アンプルになる、これで改善するだろうか。
心電図の一直線が、チラッと脳裏をよぎる。
「山野先生、耳だけ貸して。
10:00 女神ウェヌスからナース・コール。食事に持参したパンを、ミラが食べてしまった。
硬いパンを喉に詰まらせたようだ、苦しんでいる」
相沢君がミラの経過、急変時の継時記録を読み上げる。
ミラは呼びかけに開眼、返答はない。
医師中林、口腔内のパン片及びドライリンゴ・イチジク片、ナッツ類を除去。
呼吸停止、心肺蘇生開始。
ビデオ口頭鏡を用いて気管内挿管、同時に咽頭と気管に詰まったパン片をマギール鉗子で除去。
吉村医師は挿管後の呼吸音で、気管支の残存を判断した。それらを取り除き、両肺でガス交換できるまで回復させたい。
気管の先、左右に別れる気管支に異物が詰まった場合、通常は気管支鏡で除去する。
右気管支は、左気管支に比べ太くて短いうえ、ほぼ垂直だ。ご高齢者や小児に多い、豆類や歯の被せ物、小さな玩具などは右気管支へ詰まりやすい。
ピピピピ…。
「時間ですッ!」
つい弱気になりかけた。
タイマーが三回目、リズムチェックを告げた。
腕時計は10時37分、相澤君がタイマーを僕は胸骨圧迫を止めた。
皆の視線はベッドサイド左斜め前に置かれた、モニター波形に注がれる。
心電図波形が、徐々に整っていく…同時に時空の歪みを感じた。
西暦170年8月30日
私はカルヌントゥム剣闘士養成所の、ラニスタ(オーナー)だ。
デミルは一大事の割に、淡々としている。感情表現の少ない青年は、正直で賢い。カッカしやすい私と正反対のタイプ。
だから、バランスが取れている。
デミルは私の右手首、アザを避けて掴んだ。引っ張てもらいながら、出口へ急ぐ。
それでも第一発見者たちが、手分けしてミラの救護に動いていた、有難い。
いくらかホッとして、歩みを緩めた。
傾斜の急な、階段を降りる。
定期の往診中だったフェリクス医師と看護師ルカ、その場に居合わせた秘書のデミルに知らせた。診察室から担架を持ち出して、彼女の元へ戻った。
試合前は様々なショーで、観客を湧かせる。クライマックスに向けて興奮、熱狂させる事前準備だ。
引退後初のセレモニーは、彼女の新たな門出を祝う意味も含まれていた。だから私は彼女の両親を、本人には内緒で招いていた。
騎馬闘士のコスチューム、総重量は10キロから12キロに及ぶ。青銅製フルフェイスマスクを被り、騎乗から槍と盾を巧みに操った。
カリスマ的な人気を誇ったエレンだが、トレーナーに就任はしない。
「皇帝は戦車競技と剣闘士競技を、一般人の目線に立って熱狂するでしょ?少しでも彼の創造力に近づきたい、体感したかった。ハードルの高い騎馬闘士を選んだんだ」
「騎馬闘士の試合って、スピード感がある。フルフェイスマスクとかコスチューム全部が、すっごくかっこいい。ガイウスも騎馬闘士ファンよ」
3人は馬が合う…って、しまった!
感慨に耽ってる場合じゃない。
「マズイっ!皇帝はドコ…うわっーあっー!」
「ルフスさま。緊急時、余所見は禁物です」
「すまない。つい、焦ってしまった」
危うく、階段を踏み外しかけた。咄嗟にデミルが、トーガを引っ張ってくれた。
お陰で助かった。
皇帝カリグラは、今でも彷徨っている。
つい辺りを、キョロキョロしてしまう。
ほどなく私とデミルは、数人の門番が待機する、東向きの正門をくぐり庭へ出た。
広い庭は、二つの練習場を完備する。
本番さながら、客席を備えた円型アリーナと、囲いのないもの。
どちらも訓練生、選手達が練習に励んでいる。普段と変わらない光景は、ミラの異変なんて嘘のようだ。
「おやっ?ミラは診察室どころか、倒れた場所から移動してないようですね」
「うむ、担架に麻布がかけてある」
胸騒ぎがする。
アリーナの入口に、担架が置かれているではないか。その周りでは医師と看護師、トーガを来た数人のスポンサーが跪いている。
重たい体で、全力疾走した。
ほどなく、現場へ到着した。
当然彼らも、疑問が沸いた。ミラは練習の賜物、動体視力にも長けている。
夫ジャンによるアイデアで、視野の狭まる兜を被り練習を積んだ効果だ。
練習中ならまだしも、休憩中であればなおさら、小さな虫に気が付いてもよさそうだ。
突然起きた異変は疑問が多すぎて、頭の整理がつかない。
「女神ディアナ、冥界の遣いメルクリウスよ。ミラの魂を導き給え…」
声と全身が震えている。
それでも何とか、ご先祖さまの時代から崇拝する神々へ、祈りを捧げた。
当家のツールは、アナトリア地方だ。遡ると鉄を製造した民族だったらしい。
我が一族には、そんな言われが残る。
それゆえ代々、豊穣の女神アルテミス…女神ディアナを崇拝してきた。
だから当家の男性は、「ルフス」赤を意味する名前を持つ。剣闘士競技に関わった、これも縁だろう。
「ルフス…。ミラを医務室へ運ぼう」
「エレンの事だ。ミラの両親の自宅まで、知らせに行ってるだろう」
「申し訳ない…」
懐の深い古参のスポンサー4人は、担架を担いでくれた。
まだミラの異変を受け入れられない、全身の力が抜けてフラフラした。
「ルフスさま。気をしっかり持って…」
未来のルフスは右腕のアザを避けて、掴んでくれた。担架を運ぶ皆の足音が遠ざかる前に、なんとか後に続いた。頼もしい秘書は、私の長女と婚約してる。赤い名前を継ぐのはデミルだ。
様々な神々と共に、様々な出身地の剣闘士達を「見送る」。これも「ルフス」の、仕事だ。
広大な帝国は、文化も言葉も異なる。それだけ宗教、崇拝する神々も多い。剣闘士の世界もローマ兵同様、国の縮図の様な物、違いは当たり前だ。
だからローマ兵の中にも、昔から十字架を黙認する者はいる。かつて軍病院に所属したフェリクスやルカも、何か切っ掛けがあったのだろう。
さて建物の北側、入り口へ到着した。
ここは医務室をはじめ、温泉やサウナ、暖房を完備した室内練習場が完備されている。
ミラもメンテナンスや練習、数えきれないほど利用したエリアだ。
建物に入る直前、ルカが私に耳打ちした。
「オーナー、ドナウ河のほとりを探してきます」
「ああ、頼みます…」
ルカは素早く十字架を切った。
クサンテン軍病院時代からの親友を探しに、この場を離れて行った。
親友同士の3人がミラと出会ったのは、クサンテン基地付近だった。
その時私は、ジャンやエレンの遠征先、クサンテンへ同行していた。
たまたま現地の知人から、ライン河を命がけで渡ってきた人々の相談を受けた。
ミラと家族だった。
私は、ミラの挑戦を引き受けた。
やがて彼女は、女性剣闘士の中では人気も実力もナンバーワン選手へ上り詰めた。
ピリリリンッ、ピリリリンッ…。
ベッドサイドモニターのアラーム音が、予備室の時空を整えた。
『ああっ…』
視覚化された、ミラの心臓の動きは弱々しい。誰もが溜息をついた。
間隔の開いた波形が一つ現れるのみ、通常は3つだ。心拍数は30代、血圧はエラー、低いため表示されない。全身に必要な血液、酸素が届けられてない。
「左右、大腿動脈触れませんっ…」
「アドレナリン1mg、追加します」
吉村君が、触診結果を告げる。
木山先生が、山崎さんからシリンジを受け取り、点滴ラインから注入した。
「2分後、リズムチェックで再評価、タイマーお願いします」
僕の指示を、今度は山崎さんが記録する。
相沢君が胸骨圧迫を交代してくれた。両腕がジンジンしている。吉村君の様に、しばしブランとさせた。
過去ミラと関わった大昔、過去生を垣間見た。現代の時刻10時38分。時空が歪む前と変わらない、正確な時間の流れだ。
赤茶色の鉄剤フェジンは、残り50ML程度。
僕が指示した速度で、滴下が続いている。
投与終了まで約30分、この間にガイウス達は到着できるだろう。
「太古の時代も現在も、急変したミラさんの全身状態を改善するキーアイテムは、アドレナリンだったのね。そして私は過去、貴女を乗せた担架をRRSのメンバーと山崎さん、4人で担いでた」
木山先生はミラの左頬に触れながら、声を掛けた。人工呼吸器に同調するミラは閉眼したまま、反応はない。
重度のアナフィラキシーショックも、アドレナリンの注射で改善を試みる。ミラも過去アナフィラキシーショックによる咽頭や気管の浮腫から、窒息した可能性が高い。
さて過去生では、剣闘士養成所オーナーだった僕を始め、ミラの救護に関わったメンバーが、現代にも集まってCPRを行っている事が判明した。
「養成所のスタッフやスポンサー達が、現代版一次救命の訓練を受けていたら。役割分担して、動いてくれそうっすね…」
吉村君は、出番待ちの除細動器を見つめてる。
古代でも、一次救命の知識が普及していたら。
それこそ、ローマ兵士も訓練を受けただろう。
人工呼吸と胸骨圧迫、救急車を呼ぶ、AEDを取りに行く…素早く分担して動きそうだ。
AED機械の方で電気ショック、除細動が有効か否か判断、心停止の種類を鑑別できる。場合によって、電気刺激は行われない。
救急車、古代なら担架か馬車の到着まで胸骨圧迫と、可能なら人工呼吸の継続、それでオッケーだ。現代ならば、マウスシートもある。
「あれっ?ミラさんの外見、終末期みたい。窒息後、短時間で急激に痩せ始めてますよ」
山崎さんが挿管チューブの固定テープを慎重かつ丁寧に、張り替える。
唇の周りから右頬にかけて固定していたテープは、右頬にたるみが出ていた。
ふっくらしていた頬はコケて、シワが目立つ。
鎖骨や肋骨周辺も、以前にくらべて浮き出ている。腹部の皮膚もぽたっと、たるんでる。
おそらく、直近の体重69.5Kg以下だろう。
普通、終末期のBMI低下は徐々に進行、細胞の新生が減少してゆく。肝腎かなめ心臓や脳…臓器は萎縮・軽くなる。
おそらくミラの体内は、それらも加速している。膵臓と肝臓のインスリノーマは、少ないエネルギーを取り込み、増殖しているかもしれないな…。
「ミラさん…新たな肉体へ生まれ変わって、新たな挑戦をしたいのかな」
アドレナリン3Aだもんな…。
ベテラン看護師山崎さんも、正常な動きの戻らない心臓を前に、感情的になってる。ここにいる誰もが、彼女と似た様な気持ちだろう。皆、黙ったまま俯いてしまった。
トントン…。
「失礼します。お疲れさまです」
ノックと同時に、北向きのドアが開いた。
福田主任だ。
入口を塞いでいた除細動器を少し動かして、室内へ入ってきた。
主任も俯いたまま、スタッフと目を合わせようとしない。ミラの状態をモニター、記録類から素早く確かめた。
「フォロ・ロマーノから、一足早く女神ディアナとミネルヴァが到着したんです。中林先生がエコー室からトンボ返りして。ウェヌスに付き添う二人の女神から、逆に説明を受けてます」
「逆って、どういう意味?」
医療の現場は想定外の事が、余りにも多い。
「一太先生。私も簡単に聞いただけ、分かる範囲で表現すると。要は真紀子さんがおっしゃっていた、ピエタ…ピエタって事なんでしょうね」
主任は涙を隠したまま、ステーションに面した窓のカーテンを開けた。
向こうは解放された空間だ、こちらよりも明るい。白い光がパッと差し込んだ様で、思わず目を逸らした。
お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました
参考図書 他
インター・メディカ 益子邦洋・大塚敏文ER救急ハンドブック
ナース専科編集部 初心者のためのモニター心電図
医歯薬出版 田中美恵子・濱田由紀 精神看護学 第2版
たま出版 リチャード・ヘンリー・ドラモント著・光田秀訳 エドガー・ケイシーのキリストの秘密
新潮社 塩野七生著 ローマ人の物語Ⅶ・Ⅹ
ナショナル ジオグラフィック 日本版(2021年8月号)グラディエーター熱狂の裏舞台
山川出版社 本村凌二 帝国を魅せる剣闘士
永岡書店 西田普著 あなたがお空の上で決めてきたこと
PHP文庫 ブライアン.L.ワイス著 山川紘矢・亜希子訳 前世療法
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