ミラはハード系のパンで誤嚥窒息した、呼吸停止だ。
 
…ピエタ、ピエタ…
 
僕は胸の内で呟きながら、予備室のドアを開けた。その途端、目に飛び込んだのは北側の出入り口を塞ぐ、出番待ちの除細動器。
 
「しまった、PEA(無脈性電気活動)かっ!」
PEAは心停止の一つ、その先は心静止。

院内RRS(Rapido System.院内救急対応システム)も発動していた。
 
ミラのCPR(心肺蘇生)は待ったなし、勇気と体力勝負だ。

心停止PEAの場合、除細動・AEDの電気刺激ショックは有効でない。心臓のポンプ機能を担う心筋が、大元の電気信号に反応しない。
 
「一太君、そうPEA。初回と1回目のアドレナリン投与した」
「PEA回復せず。だっ…からッ、粘ってます」
 
救急救命科、木山先生はウエアが一部、絞れそうだ。病棟看護師山崎さん、したたり落ちる額の汗を、余ったガーゼで拭った。
 
PEAの対処は3-5分単位で、血管収縮薬アドレナリンの投与と、ひたすら2分間の全力胸骨圧迫。

アドレナリンで心臓の機能を戻す、正常な心拍の回復、血液循環と血圧の上昇をはかって。同時に胸骨圧迫で心臓の代わりに、全身へ血液を届ける。

 VF(心室細動)、VT(心房細動)も心停止。こちらは心臓がブルブル震えてる状態。アドレナリンと胸骨圧迫、更に除細動器やAEDの電気刺激で心臓を正常な動きに戻す。


「ハアッ。石川から聞いてたけど。ミラさん元ファイターでしょ、ガタイいいっ…」

もっか圧迫中、吉村君は息も絶え絶え。彼はギリ20代、ウチの石川君と同期。

 
「代わるよ、吉村先生ありがと」
「一太さん…お願いしま…ハアッ」
吉村君馬両腕をブラんとしたまま、ベッドサイドを離れた。

効果的な胸骨圧迫は普通、1,2分が限度だ。スムーズな交代が、血液循環に有効。

でも、トライして実感…。
ミラって、胸周りもガタイ良いな…筋肉と体を守った脂肪は厚い…。

かつインスリノーマの影響で、70キロ近くまで体重が増えてしまった。

圧迫の力加減は、左右の胸の真ん中、5センチ凹むくらいって…普通でも結構なパワーが必要だ。
もはや自分の限界を超える勢いだ。
 

PEAの引き金、原因は多岐に渡る。ミラの場合、主な原因は呼吸不全。

だから人工呼吸器は「強制換気モード」、呼吸の全てをサポート中。

(※強制換気モード…自発呼吸が無い場合に用いる設定)

 

肺のガス交換、酸素を確保できているから。それを今僕は、ミラの全身…臓器へ、特に「脳」へ血液を、酸素と二酸化炭素を巡らせているんだ…。


呼吸停止から数分で、心停止に至るが。
脳の酸素不足、タイムリミットはもっと速い3、4分だ。脳は全身で一番、酸素と血液が必要だ。ミラもあっという間に、意識消失を来しただろう。
 

「一太君。原疾患の方、BS(血糖)はブドウ糖の持続投与とアドレナリンも奏功して、維持できてるわ」

僕は頷いた。
木山先生、原疾患の変化もチェック済み、有難い。
 
点滴スタンドにはメインの高カロリー輸液やブドウ糖液、半量ほと滴下した鉄剤フェジンが投与中。この他にも循環不全改善の目的で、輸液が追加されていた。
 
しかし昨日、インスリノーマの治療計画を説明したばかり。その翌日に誤嚥窒息、さすがにショック。
確かにここ最近のミラは、補食が増えていた。
かつ咀嚼回数も少なく、ムセていた。誤嚥予防は、看護計画にも上がっていたんだ。
 

「リズムチェックまで、あと1分30秒です」

(※リズムチェック…2分ごとに心電図モニターの波形を確認して、次の行動・治療を決める)

 

救急カートの背後に立つ看護師相澤君が、看護記録担当とタイムキーパーだ。彼も救命救急科の所属。

 

「アドレナリン1Mg準備して下さい」

「木山先生、了解。相沢さん、薬液のダブルチェック、お願いします」

 

あっ今、気が付いた。

山崎さん左右の眉毛が無い、目の周りも真っ黒だ、アップした髪もほつれてる。

誤嚥窒息したミラの対応に、どれほど格闘したか物語ってる。

医師の指示受けに、まわるわけだよ。

 

しかしミラに投与するアドレナリンは、トータル3アンプルになる、これで改善するだろうか。

心電図の一直線が、チラッと脳裏をよぎる。

 

「山野先生、耳だけ貸して。

10:00 女神ウェヌスからナース・コール。食事に持参したパンを、ミラが食べてしまった。

硬いパンを喉に詰まらせたようだ、苦しんでいる」

 

相沢君がミラの経過、急変時の継時記録を読み上げる。

 

「病棟主任福田、RRTへコール。
長谷川真紀子さん宅、フォロ・ロマーノ巫女の家へ急変を報告。
 
10:03 看護師山崎、医師中林と予備室へ。

ミラは呼びかけに開眼、返答はない。

喉付近を両手で、触れたまま。
JCSⅢ-200(刺激をしても覚醒しない。痛み刺激で少し手足を動かす意識状態)。
 

医師中林、口腔内のパン片及びドライリンゴ・イチジク片、ナッツ類を除去。

呼吸停止、心肺蘇生開始。

ビデオ口頭鏡を用いて気管内挿管、同時に咽頭と気管に詰まったパン片をマギール鉗子で除去。

 

10:10 RRT到着。
人工呼吸器、強制換気モードで開始」
(※マギール鉗子…口腔内や気管内異物を除去する鉗子)
 
「右気管支の呼吸音、減弱あって。ドライフルーツの片、小さなナッツ類が詰まってますよ。右肺の無気肺ハイリスクです、ブロンコ(気管支鏡)で除去したいところですけど…」
手が離せない、頷いて合図した。

吉村医師は挿管後の呼吸音で、気管支の残存を判断した。それらを取り除き、両肺でガス交換できるまで回復させたい。


気管の先、左右に別れる気管支に異物が詰まった場合、通常は気管支鏡で除去する。


右気管支は、左気管支に比べ太くて短いうえ、ほぼ垂直だ。ご高齢者や小児に多い、豆類や歯の被せ物、小さな玩具などは右気管支へ詰まりやすい。

 
「可能なら、ミラさんをICUへ降ろしたい」
木山先生は消化器ICUへ、ベッドをキープしていた。蘇生後脳症と肺野の治療、可能性はゼロじゃない。ただ心肺停止の時間と比例して、それは遠ざかる…。
 

ピピピピ…。

「時間ですッ!」

つい弱気になりかけた。

タイマーが三回目、リズムチェックを告げた。


腕時計は10時37分、相澤君がタイマーを僕は胸骨圧迫を止めた。

 

皆の視線はベッドサイド左斜め前に置かれた、モニター波形に注がれる。

心電図波形が、徐々に整っていく…同時に時空の歪みを感じた。

 

 

西暦170年8月30日

私はカルヌントゥム剣闘士養成所の、ラニスタ(オーナー)だ。

 

来週、円型競技場で催される剣闘士試合の組み合わせを、チェックしている。

四角形の庭を見渡す管理棟は、南東に面している。特に自室は、眺めが良い。
 
訓練用アリーナで練習する選手や、訓練生の様子も見える。練習中の声、木剣の乾いた音、青銅製の装具が、ぶつかり合う音も届く。
 
「ルフスさま。アリーナで休憩していたミラが突然、倒れました。意識も朦朧としています」
突然、秘書のデミルが、駆け込んできた。

「はあっ?!なんだって?」

デミルは一大事の割に、淡々としている。感情表現の少ない青年は、正直で賢い。カッカしやすい私と正反対のタイプ。

だから、バランスが取れている。

 
「剣闘士を無事に引退した選手が、休憩中に倒れるなんて。勝利の女神ニケは、最後に目を逸らしたのかッ!」
 
「ルフスさま。分かる範囲で、状況は説明します。まずは、落ち着いて下さい」
 「分かってるさっ!」

バタンッ!

机に両手を突いた勢いで、重たい体を持ち上げた。

デミルは私の右手首、アザを避けて掴んだ。引っ張てもらいながら、出口へ急ぐ。

 
確かに剣闘士は無事に試合を終えても、傷や怪我の後遺症・感染症などが原因で命を落とす場合もある。

しかしミラは幸運だった、なん度も怪我を負ったものの、引退できた。そしてトレーナーに就任する、今後のスケジュールは決まってる。
あらたな挑戦を目前に、異変だと?
信じたくないっ!
 
「周囲の者が、ミラの異変に気が付いた時。苦しそうに喉の辺りを、両手で触っていた様です」
 
部屋を出た、速足で廊下を北へ進む。
デミルによると、異変の第一発見者は訓練生とトレーナー、練習を見学していたスポンサー達だった。
 
「原因は、心臓の発作か?」
はっきりしてない、デミルは首を振ったが。

それでも第一発見者たちが、手分けしてミラの救護に動いていた、有難い。


いくらかホッとして、歩みを緩めた。

傾斜の急な、階段を降りる。

 

定期の往診中だったフェリクス医師と看護師ルカ、その場に居合わせた秘書のデミルに知らせた。診察室から担架を持ち出して、彼女の元へ戻った。

 

「ジャンの元には、エレンが馬を飛ばしました。来週の試合、打ち合わせは、終了しているでしょう?寄り道先は、検討がついてます」

エレンはもと騎馬闘士だ。
馬を飛ばすのは、朝飯前。
 
「ジャンのヤツ、とっくに戻ってもいい時間だ。だからアイツは、信じたくないっ!」

ミラの夫ジャンも、人気を博した網闘士だった。引退後はトレーナーに就いたが。本人の希望で、マネジメントにも一部関わっている。
 
彼は打ち合わせのあと、スポンサーの邸宅に招かれたはずだ。そこは「推し以上の関係」も、待っている。そちら以外、幾つもある。
 
寄り道にかこつけて、行動範囲を広げていたら、行方不明も同然。
エレンだって、行き先は検討がつかない。
 
「しかし弱ったな…ミラがパレードへ出演できないとなれば。急遽代役なり、変更が必要だ」
異変時に、申し訳ない。
今回も、準備に相当な費用が掛かった。
 
なんてったって剣闘士試合や戦車競技は、高額なお金が動く。

試合前は様々なショーで、観客を湧かせる。クライマックスに向けて興奮、熱狂させる事前準備だ。

 
ミラはパレードで勝利の女神ニケに扮して、「勝利・引退宣言」する予定だった。熱狂的ファンの多い選手だっただけに、満席が予想される。
 

引退後初のセレモニーは、彼女の新たな門出を祝う意味も含まれていた。だから私は彼女の両親を、本人には内緒で招いていた。

 

「この際だ、緊急の演出変更はエレンに任せよう。デミル、エレンへ伝えてくれ。明後日までに新企画と、予算の追加を報告してくれ」
 
「畏まりました。緊急事態です、スポンサーも協力して下さるでしょう」
 
エレンは先日ローマ、コロッセオで行われた試合で騎馬闘士を引退した。

騎馬闘士のコスチューム、総重量は10キロから12キロに及ぶ。青銅製フルフェイスマスクを被り、騎乗から槍と盾を巧みに操った。 

 

カリスマ的な人気を誇ったエレンだが、トレーナーに就任はしない。

子供時代から憧れたヒーロー、皇帝カリグラが創造した華麗で大胆な世界を、今度は自らが創り出す。ショー、舞台の演出だ。
 

「皇帝は戦車競技と剣闘士競技を、一般人の目線に立って熱狂するでしょ?少しでも彼の創造力に近づきたい、体感したかった。ハードルの高い騎馬闘士を選んだんだ」


「騎馬闘士の試合って、スピード感がある。フルフェイスマスクとかコスチューム全部が、すっごくかっこいい。ガイウスも騎馬闘士ファンよ」

 

3人は馬が合う…って、しまった!

感慨に耽ってる場合じゃない。

 

「マズイっ!皇帝はドコ…うわっーあっー!」

「ルフスさま。緊急時、余所見は禁物です」

 「すまない。つい、焦ってしまった」


危うく、階段を踏み外しかけた。咄嗟にデミルが、トーガを引っ張ってくれた。

お陰で助かった。


皇帝カリグラは、今でも彷徨っている。

つい辺りを、キョロキョロしてしまう。

 
「皇帝の姿は、私もまだ見かけておりません。本来、ミラの異変を最初に伝える方です。でも今は特殊な事態。夫と家族へ伝える、切ないですが最善です」
落ち着いた所で、デミルは本題へ戻った。
 
「分かってる、筋ってもんだな…」
ミラの夫ジャンは、ローマ人に割と多い死後の世界は「無」と捉えている。
実際、視えないタイプ。彷徨う皇帝の姿なんぞ、全く興味がない、我々の話は信じない。

いつの頃からだろう。
皇帝カリグラは、エレンやミラの試合、練習を眺めるようになった。
私は度々ドナウ河付近の森で、草花を摘む皇帝と遭遇した。
 
ミラと皇帝カリグラ、人間と魂の恋は、視て・見ぬ振りをしてきた。いや、そっとしておきたかったんだ…。

 

ほどなく私とデミルは、数人の門番が待機する、東向きの正門をくぐり庭へ出た。

広い庭は、二つの練習場を完備する。

本番さながら、客席を備えた円型アリーナと、囲いのないもの。

 

どちらも訓練生、選手達が練習に励んでいる。普段と変わらない光景は、ミラの異変なんて嘘のようだ。

 

「おやっ?ミラは診察室どころか、倒れた場所から移動してないようですね」

「うむ、担架に麻布がかけてある」

胸騒ぎがする。

アリーナの入口に、担架が置かれているではないか。その周りでは医師と看護師、トーガを来た数人のスポンサーが跪いている。

 

重たい体で、全力疾走した。

ほどなく、現場へ到着した。

 

「フ…フェリクス、ミラは…」
息切れして、声が出ずらい。
「オーナー、残念ですが。ミラは息を引き取りました」
医師フェリクスは十字架を切った。
そして麻布を、頭部付近だけめくった。
 
おそるおそる、覗き込む。
予期していたものの、あまりにも変わり果てたミラの姿に、言葉を失った。

透き通ったブルーアイをしまった瞼、顔全体は腫れている。ブツブツ赤い発疹は顔、喉から胸元まで広がっている。
 
「発赤疹は、全身に出ています」
今度は看護師ルカが麻布を丁寧に被せ、必要な部分をめくる。両腕、両足に湿疹を認めた。
 
「原因は、蜂か蜘蛛の毒の様です。刺されたと、本人が訴えていた」
 
フェリクス医師は左足首のポッと腫れた、紅斑を差した。訓練生の中に、ミラの訴えを聞いた者がいた。彼女が意識消失する前、僅かな時間だ。
 

当然彼らも、疑問が沸いた。ミラは練習の賜物、動体視力にも長けている。

 夫ジャンによるアイデアで、視野の狭まる兜を被り練習を積んだ効果だ。

 

練習中ならまだしも、休憩中であればなおさら、小さな虫に気が付いてもよさそうだ。

突然起きた異変は疑問が多すぎて、頭の整理がつかない。

 

「女神ディアナ、冥界の遣いメルクリウスよ。ミラの魂を導き給え…」

声と全身が震えている。


それでも何とか、ご先祖さまの時代から崇拝する神々へ、祈りを捧げた。


当家のツールは、アナトリア地方だ。遡ると鉄を製造した民族だったらしい。

我が一族には、そんな言われが残る。

それゆえ代々、豊穣の女神アルテミス…女神ディアナを崇拝してきた。


だから当家の男性は、「ルフス」赤を意味する名前を持つ。剣闘士競技に関わった、これも縁だろう。

 

「ルフス…。ミラを医務室へ運ぼう」

「エレンの事だ。ミラの両親の自宅まで、知らせに行ってるだろう」

「申し訳ない…」

懐の深い古参のスポンサー4人は、担架を担いでくれた。

 

まだミラの異変を受け入れられない、全身の力が抜けてフラフラした。

「ルフスさま。気をしっかり持って…」


未来のルフスは右腕のアザを避けて、掴んでくれた。担架を運ぶ皆の足音が遠ざかる前に、なんとか後に続いた。頼もしい秘書は、私の長女と婚約してる。赤い名前を継ぐのはデミルだ。


様々な神々と共に、様々な出身地の剣闘士達を「見送る」。これも「ルフス」の、仕事だ。


 広大な帝国は、文化も言葉も異なる。それだけ宗教、崇拝する神々も多い。剣闘士の世界もローマ兵同様、国の縮図の様な物、違いは当たり前だ。


だからローマ兵の中にも、昔から十字架を黙認する者はいる。かつて軍病院に所属したフェリクスやルカも、何か切っ掛けがあったのだろう。

 

さて建物の北側、入り口へ到着した。

ここは医務室をはじめ、温泉やサウナ、暖房を完備した室内練習場が完備されている。


ミラもメンテナンスや練習、数えきれないほど利用したエリアだ。


建物に入る直前、ルカが私に耳打ちした。

 

「オーナー、ドナウ河のほとりを探してきます」

「ああ、頼みます…」

ルカは素早く十字架を切った。


クサンテン軍病院時代からの親友を探しに、この場を離れて行った。


親友同士の3人がミラと出会ったのは、クサンテン基地付近だった。

その時私は、ジャンやエレンの遠征先、クサンテンへ同行していた。


たまたま現地の知人から、ライン河を命がけで渡ってきた人々の相談を受けた。

ミラと家族だった。


私は、ミラの挑戦を引き受けた。

やがて彼女は、女性剣闘士の中では人気も実力もナンバーワン選手へ上り詰めた。

 

 

ピリリリンッ、ピリリリンッ…。

 

ベッドサイドモニターのアラーム音が、予備室の時空を整えた。

 

 『ああっ…』

視覚化された、ミラの心臓の動きは弱々しい。誰もが溜息をついた。

 

間隔の開いた波形が一つ現れるのみ、通常は3つだ。心拍数は30代、血圧はエラー、低いため表示されない。全身に必要な血液、酸素が届けられてない。

 

「左右、大腿動脈触れませんっ…」

「アドレナリン1mg、追加します」

吉村君が、触診結果を告げる。


木山先生が、山崎さんからシリンジを受け取り、点滴ラインから注入した。

 

「2分後、リズムチェックで再評価、タイマーお願いします」

僕の指示を、今度は山崎さんが記録する。


相沢君が胸骨圧迫を交代してくれた。両腕がジンジンしている。吉村君の様に、しばしブランとさせた。

 

過去ミラと関わった大昔、過去生を垣間見た。現代の時刻10時38分。時空が歪む前と変わらない、正確な時間の流れだ。


赤茶色の鉄剤フェジンは、残り50ML程度。

僕が指示した速度で、滴下が続いている。

投与終了まで約30分、この間にガイウス達は到着できるだろう。

 

「太古の時代も現在も、急変したミラさんの全身状態を改善するキーアイテムは、アドレナリンだったのね。そして私は過去、貴女を乗せた担架をRRSのメンバーと山崎さん、4人で担いでた」

 

木山先生はミラの左頬に触れながら、声を掛けた。人工呼吸器に同調するミラは閉眼したまま、反応はない。

 

重度のアナフィラキシーショックも、アドレナリンの注射で改善を試みる。ミラも過去アナフィラキシーショックによる咽頭や気管の浮腫から、窒息した可能性が高い。


さて過去生では、剣闘士養成所オーナーだった僕を始め、ミラの救護に関わったメンバーが、現代にも集まってCPRを行っている事が判明した。

 

「養成所のスタッフやスポンサー達が、現代版一次救命の訓練を受けていたら。役割分担して、動いてくれそうっすね…」

吉村君は、出番待ちの除細動器を見つめてる。

 

古代でも、一次救命の知識が普及していたら。

それこそ、ローマ兵士も訓練を受けただろう。

人工呼吸と胸骨圧迫、救急車を呼ぶ、AEDを取りに行く…素早く分担して動きそうだ。

 

AED機械の方で電気ショック、除細動が有効か否か判断、心停止の種類を鑑別できる。場合によって、電気刺激は行われない。

救急車、古代なら担架か馬車の到着まで胸骨圧迫と、可能なら人工呼吸の継続、それでオッケーだ。現代ならば、マウスシートもある。

 

「あれっ?ミラさんの外見、終末期みたい。窒息後、短時間で急激に痩せ始めてますよ」


山崎さんが挿管チューブの固定テープを慎重かつ丁寧に、張り替える。

唇の周りから右頬にかけて固定していたテープは、右頬にたるみが出ていた。

 

ふっくらしていた頬はコケて、シワが目立つ。

鎖骨や肋骨周辺も、以前にくらべて浮き出ている。腹部の皮膚もぽたっと、たるんでる。

おそらく、直近の体重69.5Kg以下だろう。

 

普通、終末期のBMI低下は徐々に進行、細胞の新生が減少してゆく。肝腎かなめ心臓や脳…臓器は萎縮・軽くなる。

 

おそらくミラの体内は、それらも加速している。膵臓と肝臓のインスリノーマは、少ないエネルギーを取り込み、増殖しているかもしれないな…。

 

「ミラさん…新たな肉体へ生まれ変わって、新たな挑戦をしたいのかな」

アドレナリン3Aだもんな…。


ベテラン看護師山崎さんも、正常な動きの戻らない心臓を前に、感情的になってる。ここにいる誰もが、彼女と似た様な気持ちだろう。皆、黙ったまま俯いてしまった。


トントン…。


「失礼します。お疲れさまです」


ノックと同時に、北向きのドアが開いた。

福田主任だ。

入口を塞いでいた除細動器を少し動かして、室内へ入ってきた。


主任も俯いたまま、スタッフと目を合わせようとしない。ミラの状態をモニター、記録類から素早く確かめた。

 

「フォロ・ロマーノから、一足早く女神ディアナとミネルヴァが到着したんです。中林先生がエコー室からトンボ返りして。ウェヌスに付き添う二人の女神から、逆に説明を受けてます」

 

「逆って、どういう意味?」

医療の現場は想定外の事が、余りにも多い。


「一太先生。私も簡単に聞いただけ、分かる範囲で表現すると。要は真紀子さんがおっしゃっていた、ピエタ…ピエタって事なんでしょうね」

 

主任は涙を隠したまま、ステーションに面した窓のカーテンを開けた。


向こうは解放された空間だ、こちらよりも明るい。白い光がパッと差し込んだ様で、思わず目を逸らした。

 

お時間を割いてお読み下さり

どうもありがとうございました 

 

 

参考図書 他

インター・メディカ 益子邦洋・大塚敏文ER救急ハンドブック 

ナース専科編集部 初心者のためのモニター心電図

医歯薬出版 田中美恵子・濱田由紀 精神看護学 第2版 

たま出版 リチャード・ヘンリー・ドラモント著・光田秀訳 エドガー・ケイシーのキリストの秘密

新潮社 塩野七生著 ローマ人の物語Ⅶ・Ⅹ

ナショナル ジオグラフィック 日本版(2021年8月号)グラディエーター熱狂の裏舞台

山川出版社 本村凌二 帝国を魅せる剣闘士

永岡書店 西田普著 あなたがお空の上で決めてきたこと

PHP文庫 ブライアン.L.ワイス著 山川紘矢・亜希子訳 前世療法

 

https://blsacls.org>scla-cardiac-arrest ACLSとは|ACLSの要点|Ⅳ、心肺停止

WWW.kango-room.com看護room 心肺停止(PEA)の心電図波形

https://emergency‐nursing.comALS心肺停止のアルゴリズム

www.tyojyu.or.jp 健康長寿ネット 高齢者の身体的特徴・細胞の老化の原因と症状

www7.kmu.ac.jp 関西大学 麻酔科学講座 気道異物の麻酔管理