女神ディアナは結界を張ったかのように、行方をくらましていた。
ところが忽然と、彩雲の中に姿を現した。ディアナは、シンボルの鹿に乗っていた。
僕の双子の息子、駿と潤は、この不思議な彩雲に気が付いた。場所は、緑道に続く公園だった。
二人は興奮のあまり、彩雲を追いかけて走り出した。同時にメダイ・コールを通して、事態を神々へ知らせた。
情報は素早く神々へ、キャッチされた。その勢いに乗った息子達は、「女神ディアナ捜索隊」に加わった。二人は二頭のペガサス、ネロとチェトラにまたがり、天空を飛んでってしまった。
ペガサスには酒神バッカスと、元皇帝の侍医ガレノス先生が同乗している。
息子達の安全を守って下さる、全てをゆだねて、貴重な冒険を、存分に味わって欲しいのだが。
絵里さんと僕だって、一刻も早く自宅へ戻りタブレット・ミラーを開きたい。ましてメダイ・コールは息子達が身に付けている。メダイを身につける捜索隊と、会話もできない。
ポツン…僕らだけ、取り残されたみたいだ。居ても立ってもいられない、駆け足で車へ戻った。
幸いその間、絵里さんは亜子ちゃんと通話を続けていた。お陰で女神捜索隊の進捗状況は、把握できた。
亜子ちゃんと倫太郎は、タブレット・ミラーの「ライブ配信」から目を離さないでいた。
ペガサス一向は、ここから西へ20キロ以上離れた、僕の実家、音龍寺の上空へ数分もしない内に近づいていた。
さらに亜子ちゃんから、新たな情報が3つ入った。情報は飛行中のガレノス先生、酒神バッカスから届いたそうだ。
1.「焔の鷲」が、女神ディアナの潜む場所を、最初に発見した。
2.彩雲にディアナと鹿を映し出したのは、焔の鷲だった。
3.女神捜索隊は、彩雲を目印に、現地へ向かっている。
僕らが目撃した彩雲は、焔の鷲が映し出した物かもしれないぞ…。
車を発進、公園を後にした時点で、南の空に現れていた彩雲は消えていた。
太陽が燦々と降り注ぐ、ドライブにはもってこい、人間界では行楽日和だ。
かたや神々の世界では、奇想天外な事態が、加速度を付けて展開している。例え見えてなくても、ほぼ確実だろう。
だから僕も興奮と勢いに乗っかって、ついアクセルを踏み込む可能性もある。
まして怒涛の当直明けだ、思考のカオスに陥りやすい。息子達を乗せたペガサスが飛んで行ったシーンを回想して、自然と速度超過…。
気が付いたら、スピードが…うわっ…インターチェンジ効果!
なんて慌ただしい事態は、避けたい。
安全運転を肝に銘じた、その時だ。
「ひゃーっ!ペガサスは音の泉へダイブした。一瞬で通過しちゃったよっ!」
絵里さんが右手に握っていたスマホから、大声が上がった、倫太郎だ。
「ちょっ、ちょっと倫太郎君。肝心なその先、泉を、水中を通り抜けた出口!肝心な出口は、どこに繋がっているの?!」
珍しく絵里さんまで、早口でまくしたてた。
息子達は、水中ゴーグルとキャップを付けていた、果たして役に立ったろうか?
僕は時空トンネルの出口もさることながら、興奮しているだろう息子達の様子を想像してしまう。心臓はドキドキ、早鐘を打つ。
「絵里ちゃん。出口はどこっ?って言われても、分からんっ!俺に見える景色は母校、大学病院の個室に立ってる俺だ!しかも同じタブレット・ミラーを使ってるのに、亜子は他の景色が見えている、なんてこったい!」
「ええっ、倫太郎マジで?時空トンネルは、一体どうなっているんだ!」
倫太郎の声が更にうわずった、明らかに動転している、思わず僕も叫んでしまった。
同時にカーブで対向車とすれ違っていた。やれやれ、ハンドルがブレなくて良かった。
緑道に沿った裏道を走行中だ、細道の急カーブ、すれ違いには注意。
裏道といえど、日曜日はショッピングに向かう車が、多く通行する。目指すは、最近流行りの大型スーパーだろう。周辺の道路は、開店時間前から渋滞しやすい。くれぐれも安全運転…僕はもう一度、胸の内で呟いた。
「ああっ、俺は立花先生のI.Cに同席している。膵臓癌、膵頭十二指腸切除術後の患者さまと、長女さん家族へ、NO CPR(心肺蘇生を行わない)を確認した。お孫さんは女の子、小学校一年生だ」
さあて…倫太郎が眺めている過去の景色、登場人物は心当たりがある。
夕べ過換気発作を起こしてしまった、松本久美子さんとお父さん、ご家族じゃないか。
お父さん久さんと、久美子さんは、家族性膵臓癌を発症してしまった。久の弟さんも、同じ病気だった。
松本久さんは糖尿病や高血圧、不整脈を始め、既往歴を幾つか抱えていた。侵襲の大きな手術は、術後合併症のリスクが高った。
「私は大学病院の勤務時代、夜勤明けのワンシーンが、ミラーに見えています。当直の一太君へ、松本久さんが熱発した、ドレーンの性状も淡々血性から、白濁した膿性に変わってきた、焦って報告しているシーンです」
倫太郎に続いて、亜子ちゃんが見えている景色を伝えてくれた。
「久さんは、膵臓体部と空腸のリーク(縫合不全)による膵液漏れ、術後の急性膵炎を起こしてしまったんだ」
「現在、娘さん…久美子さんの主治医は、石川先生だものね」
石川君は、久さんを治療していた当時の、僕らの年齢に近い。
時間の経過って、あっと言う間だ。
「ナルキッソス。タブレット・ミラーの不思議な機能、これは一体どうなっているのですか?」
ほろ苦い懐かしさに浸ったのは束の間、亜子ちゃんが核心を突いた。
メダイ・コールとタブレット・ミラーの制作者、魔術の貴公子へ、確認してくれた。
メダイとミラーは、繋がっている。
メダイを身に付けている者同士、通話が可能だし、行動はミラーに映る。
だから泉を通過するまではペガサス一行と、他の探索メンバー…ガイウスとマルス、メルクリウスの様子も、ミラーに配信されていた。
皇帝と建国の神は、タクシー・バタフライに乗って、伝来の神は自らの翼で飛んでいる。
ライブ配信を眺めていた、倫太郎と亜子ちゃんは捜索隊の様子を伝えてくれた。
「お待たせしました、不思議な状況が、理解出来ました。まずメダイ・コールについてですが。身に付ける者は、その時に必要な能力を、普段以上に、発動する力を宿してるそうです」
ナルキッソスに確認を取ってくれた亜子ちゃんが、説明を始めた。
「今回はメダイの力で、過去の記憶が甦った。記憶か時空トンネル、もしくわ連携しているタブレット・ミラーに現れる。個人の脳に保管された記憶なので、本人以外は見えない。フフッ、そこは守秘義務…を配慮したそうですが。
駿君と潤君も、それぞれ眺めているはずです」
なーるほど!
合点がいった、臨時体験に近い状態だろう。
しかしナルキッソスって、本当に細かい部分まで気が付いてくれる、さすが貴公子。
「ところで絵里さん、鏡は持ってますか?メイク用でも何でも構いません。自宅へ戻るまでの間、ナルキッソスが、一部を配信してくれるそうです。準備できたら鏡に向かって、これから伝えるパスワードを唱えて下さい」
「持ってます。ナルキッソス、ぜひお願いします。ちょっと待って下さい」
「魔術の貴公子、ありがとうございます」
気転を利かせたナルキッソスは、絵里さんの手鏡に、ひとまずペガサス一行の様子だけ、「ライブ配信」してくれるそうだ。
小さな鏡には、ちょうど良い容量だ。
おっと、その前に準備がある。
神々へ捧げる、「誓いのパスワード」が必要だ。僕は車を、路肩に駐車した。
『古代ローマの神々へ、全てをゆだねます』
色んな意味が含まれるだろうパスワードを、夫婦揃って述べた。その途端、手のひらサイズ楕円形の鏡には、不思議な空間が現れた。
「うわあっ…こんな空間、生まれて初めて見る。広大な無の空間を、二頭のペガサスが並んで飛んでいる」
「空間には、光が差し込んでいるだけだ。前方に見えても良いはず、目印の彩雲も見えないな」
絵里さんと僕はメダイ・コールを身に付けてない。だから、過去の景色は見えない。時空トンネルそのものを、目撃しているのだろう。
シートベルトを付けた駿と潤の体は、背後からガレノス先生とバッカスが、がっちり両腕を回して、体を固定している。
息子たちはスイミング用のリュックを、体の前面に回して、応用の効く水中ゴーグルとキャップを被っている。公園で見送った時と、ほぼ変わらない。
ペガサスは相当な速度で、時空トンネルを通過しているのだろう。
ビュンビュン、風を切った音が聞こえてくる。
さて女神捜索隊の状況把握は、絵里さんに任せよう。僕は再び、アクセルを踏んだ。
住宅街の奥へ進むうちに、気持ちも緩んできた。間も無く、我が家の青い屋根が見えてくる。
すると今まで脳内でストップを掛けていた疑問が、コンコンと湧き上がってきた。
なぜ焔の鷲は、女神ディアナの潜む場所を発見できたのだろう?
最高神ユピテルも、ディアナの行方を掴めなかった。そこで古代ローマ帝国の守護神、女神ウェスタが動いた。
ウェスタの化身、焔から鷲を誕生させた。
かつ鷲は、ユピテルの化身だ。
最高神と守護神が、タッグを組んだも同然だ。
もはや焔の鷲が持つ能力は、人間の僕には、計り知れない。
鷲は能力の一つを使って、おそらくディアナと鹿を彩雲に映し出した。
更に時空トンネルを通過中のペガサスとタクシー・バタフライ、そして伝来の神の視覚には、目印の彩雲を見失わない様、映しているはずだ。
「彩雲の中に、女神ディアナと鹿を映し出すには、どんな技を使うんですか!仕事柄、守秘義務は完璧に身に付いてます、どうかコソッと教えて下さいっ!」
ローマ帝国を愛してやまない倫太郎は、焔の鷲へ懇願しそうだ、いや僕も聞きたい。
くれぐれも「十字架」とか、間違えて切っちゃいかんね。その辺りは、ローマ史でも繊細な箇所だもの。
いけない、ちょいと脱線し過ぎた。
「焔」とくれば、連想するのは「水」だな。
なぜ音の泉に、時空トンネルが開通していたのだろう?
そもそも焔と水は、人間の暮らしには無くてはならないものだ。ローマ帝国だって、立派な水道橋を建設して、広大な国土に命の糧、水を届けた。
実家、音龍寺の裏山に湧く泉は、ローマ帝国の水道橋比べたら、規模ははるかに小さいけれども。
ローマの水道橋と同じ様に、昔から動植物、近隣に住む人々へ、命の糧を供給してきた。湧水は、干ばつなどが起きても、枯れる事はなかった。
「音の泉」名前の由来は、湧水の発見時に遡る。
それは幕末だ。
天保の飢饉から、コロリ…コレラの流行がダブルで襲った。現代に置き換えると、途上国の様な状態をもたらした。
当時コレラが、パンデミックを起こした。当然、日本にも上陸したわけだ。
被災地のライフラインは、完全にストップ。
相模の国の東部から、とある集落の人々が水を探し求め、北西方面、人里離れた山間部までやってきた。後の音龍寺周辺だ。
人々は当初の計画では、多摩川の源流を目指していた。ところが、なんせ栄養不足、体力も限界だ。道を間違えて、「裏山」へ迷い込んだ。
しかし極限状態の人々は、道を間違えた事すら、気が付かないでいた。
しばらく進むと、茂みの中から、「ガサゴソ…」音がした。
源流は直ぐそこだ…人々は最後の力を振り絞り、草木をかき分けて、音の方向へ進んだ。
すると周囲を灌木に囲まれた泉で、狸や犬猫…動物たちが水を飲んでいた。近づいてみると、濁りのない水が、水底からコンコンと湧いていた。
もちろん、人々は湧水に救われた。裏山の周辺に、新たな集落を築いた。
やがて村には灯りがともり、囲炉裏の焔で暖を取った。
村のお祭りには、湧水を氏神さまへ捧げた。
数年後、旅の僧侶が音龍寺を開山した。初代住職は村人から、泉を発見したエピソードを聞いて、「音の泉」と名付けた。
実家の記録には、確かこんな風に残っていた。
音の泉は、名前こそ「聖なる泉」っぽい。でも、なかなかシビアな背景が、潜んでいる。
車は小さな十字路に、差し掛かった。青信号を確認し、僕はハンドルを右に切った。
チラッと、腕時計が視界に入った。
時刻は、9時45分をまわっている。
様々な事情を抱えた方を受け入れる、音龍寺の日曜日の座禅会は、とっくに終了している。
絵理奈ちゃんは音龍寺境内のどこかで、スケッチしてるだろうかなあ?音の泉も、お気に入りのスケッチポイントだ。
そうそう評判の日曜座禅会も、アンジェルマン症候群を持つ義妹、絵理奈ちゃんの参加がきっかけで、スタートしたんだっけ。
水を求めてやってきた人々は、現代の音龍寺をどんな風に眺めているだろう?
もしも僕が、時空トンネルを通過できるのならば。特別に音龍寺の開山までを、映画の様に観せて下さい…焔の鷲へリクエストしたいなあ。
「パパ、黙っているからには、思考はカオスなのでしょう?今の所、時空トンネルの様子に変化はないから。この間に家に戻って、落ち着いて事態を見守りましょう」
「あっ、しまった。思考は収集がつかなくなってたよ。タブレットミラーを開くまで、捜索隊の動きが変わりなくて、良かった。これから貴重な瞬間を目撃するだろうから、見逃したくないもの」
絵里さんの指摘で、思考のカオスから抜け出した。自宅はすぐそこ、青い屋根がはっきり見える。
僕は車を左前へ、ゆっくり進めたあと、自宅の駐車場へ、車庫入れした。
エンジンを切ってから、絵里さんと僕はまず深呼を吸した。これからパスワードを唱えて、手鏡のライブ配信を一旦、終了する。
ところが、手鏡へ意識を集中する寸前だ。
時空トンネルを通過していたペガサス一行に、変化が起きた。
スパーンッ!
コバルトブルーの水しぶきをあげながら、ニ頭のペガサスが、水中から飛び出した。
ペガサスは勢いのまま、大空へ舞い上がった。一瞬、周囲を岩盤に囲まれた、水場が映った。
「僕はゴージャスな船を、ソージューしてたんだあ―ッ!皇帝ガイウスさんの船だぞお―ッ!」
「僕なんか、神聖な焔を燃やし続けた!ウェスタのミコだったあーッ!」
水中ゴーグルを付けスイミングキャップを被った駿と潤は、揃って右手を掲げ、歓喜の雄たけびをあげた。
「あらあ、駿と潤は時空トンネルの中で、前世の一コマを眺めてきたようね、羨ましいな」
「フフフッ。まさか息子たちが前世の仕事で、水と焔に関わっていたなんて。これは古代ローマ、神々の計らいなんだろうか?」
息子達の前世の一つが判明し、なんだか胸が熱くなった。過去の仕事を、誇りに感じてくれた様だ、そりゃ嬉しいよ。
そして間も無く、女神ディアナが潜む場所が判明する。心臓はドキドキ早鐘を打つ。
これは誰にでも起こる、正常な洞性頻脈だ。
でも流行る気持ちを抑えて、絵里さんと僕は、目を閉じた。
『古代ローマの神々へ、全てをゆだねます』
自ら言い聞かせるように、パスワードを唱えた。
目を開けると、普通の手鏡へ戻っていた。
「ナルキッソス、ありがとうございました」
絵里さんは鏡へニコッと微笑んだあと、バッグへしまった。僕も頭を下げた。
ここまでを、きちんと済ませてから。
僕らは急いで車から降りた。
バタバタ、自宅へ駆け込んだ。
後半へ続きます
お時間を割いてお読み下さり、どうもありがとうございました
AKITO
参考図書
光文社新書 田坂広志 著
死は存在しない 最先端量子科学が示す新たな仮説
数研出版 門脇貞二 著
新日本史
宝島社 神野正史 監修
イラスト図解 感染症と世界史
インターメディカ 益子邦洋・大塚敏夫 著
ER救急ハンドブック
メディック メディア
病気が見える VOL.3
新潮社 塩野七生 著
ロ―マ人の物語 Ⅶ