日曜日の朝だ。
ミラの絶食検査を終了した、この翌日である事は、間違いないな。
うんパジャマ代わりのTシャツと、短パンスタイルだもの、日曜日でしょ。
ガチャンッ…。ゴーン、ゴーン。
俺は電子レンジの扉を閉めて、作動した。
ターンテーブルの上で、2本のタオルが回転してる。当たり前の光景だけど。
俺たちの魂は、こうしてグルーンと回転しながら成長して。
生まれ変りを、続けているのだろうか?
そして現在は、本当に2016年8月28日で。
場所は東京郊外?いやローマかドイツ、はたまたウィーンではなかろうか。
時間や場所も交錯している、こんな感覚から抜け出せないでいる。
事の発端は昨日、土曜日の午後だ。
ケンイチさんから届いたメールは、ヨナス、さらにプルートへ続いた。
勿論、女性剣闘士ミラに関する資料だ。
でも奇想天外な内容に、感情は揺れ動いたままなんだよなあ…。
ガチャン。
「うわっ、アチッ!」
電子レンジから蒸しタオルを取り出した。
熱しすぎていた。
仕方ない。
箸で摘んで、トレーに乗せた。
ぼーっとして、何分加熱したのか、さっぱり覚えてないわ…。
奥のリビングへ戻る。
亜子はソファの上で、体育座りしたままだ。
顔を膝に密着している、表情は分からない。
彼女は寒がりだ。オールシーズン、タオル生地のパジャマを着ている。
生成色…アイボリーと言ったかな?
もっか亜子の脳裏では。
過去の世界へ、イメージとピッタリな「音楽」が浮かんで、鳴り響いているのだろうなあ。
先に音楽があって、世界がある…亜子が持つ独特な感性だ。
俺は蒸しタオルを並べたトレーを、テーブルへ置く。触ると、タオルはまだ熱かった。
少し冷ました方がいいな。
それまで亜子も、そっとしておこう。
俺もソファへ深く腰掛けた。
寄りかかって、目を閉じる。
ここまでを、振り返ろう。
昨日、土曜日の午後だ。
クリニックの診療と往診を終えた頃、ケンイチさんから、急ぎのメールが届いた。
ミラに関しての資料は、ある医師の診察記録を元に作成していた。
勿論ケンイチさんは、至急のメールを仲間へ送信した。
美月クリニックと、市民病院に勤務する、消化器外科医師、山野一太宛だ。
それまでケンイチさんとヨナス、そしてプルートは、バリーニ家の資料保管室に篭っていた。
ミラに纏わる資料を探すにあたり、手掛かりは掴んでいた。
まず彼女が、剣闘士として活躍した時代だ。
紀元160年から、170年前後にかけて。既にガレノスは剣闘士の医師を辞めて、皇帝の侍医へ就いていた。
一方ミラとガイウスは、ウィーンカルヌントゥムトゥムで、出逢っていた。
これらを、ヒントにした。
やがてヒントにマッチする、人物が発覚した。
それがバリーニ家の前身、アエミリアス一族出身の医師だった。
彼が残した古書の中から、詳細が判明した。
写本だからこそ、バリーニ家にとっても重要な物に違いない。代々、受け継いできたものだ。
三人は手分けして、医師が記述した、数冊の診療記録へ、目を通した。
その中でミラに関係する、記述を発見した。
「倫太郎さん、蒸しタオルをありがとう。温度も、ちょうど良いよ」
亜子が体育座りから、体を起こした。
タオルを取り、渡してくれた。
「どういたしまして。充血した目を休ませながら、頭の中を整理しようか」
「そうだね、自分がどの時代に生きてるのか、分からない。時代を行き来しているみたい」
亜子と俺は、蒸しタオルを両目に当てた。
再びソファに寄りかかり、楽な姿勢で目を閉じた。
「月曜日、ミラは検査を控えてますね。美月クリニックでエコーと、エコー下内視鏡。
こちらに、影響はないかもしれませんが。
今後、市民病院で造影検査など控えている。
薬剤アレルギーなどの、可能性を踏まえて。
取り急ぎ、ミラの既往歴を伝えます」
フェリクス医師は、カルヌントゥムで開業していた。地域の人々や剣闘士らも、フォローしていた。
「記録によると。現役時代のミラは、確かに傷や捻挫など、故障は多かった。それでも男性選手ほどの、傷や怪我は回避できた。
こちらは本人の記憶と同様ですね」
女性剣闘士は花を添えるような、意味合いがあったそうだ。
もちろん温泉やマッサージ、治療も欠かさず、男性選手同様、大切に心身をメンテナンスをした。
怪我や故障は起きたものの、ミラは無事に引退した。そのままカルヌントゥムの養成所で、女性剣闘士の訓練士に就いた。
しかし二ヶ月後。
なんとミラは、急逝してしまった。
「ミラは練習中に、蜂が蜘蛛か?虫に刺されたようです」
もと剣闘士が旅立った理由は、怪我や病気でもなかった。
「30分も経過しない内に、心臓は止まっていた。医師フェリクスが駆けつけた時には、その状態だった様です。フェリクスの確認によると、特に左足首の内側が腫れていた。
小さな咬傷痕があった、記述しています」
アレルゲンは不明だが。
まさかミラが急性、しかも重度のアナフィラキシー・ショックを起こしていたなんて…。
いやはや、想定外だった。
しかし、抗毒素など無い時代だからなあ…例えば、破傷風トキソイドなどね。
鍛えた剣闘士でなくても、誰にでも起こり得る事態だったろう。
さてミラ本人は旅立った原因は、「急性の感染症」、患者さま情報用紙に、こう記載していた。
「突然の出来事でした。本人は記憶も曖昧、勘違いではないでしょうか?」
ケンイチさんの報告は、ここで終わった。
俺たち医師も、「勘違い」この意見は一致した。
症状も一部は若干、似ているからね。
何より情報は、とても有難い。
おそらく明日のエコー下内視鏡の結果で、オペ方向になるだろうから。
アナフィラキシーショックの既往、薬剤アレルギーの可能性も含めて、精密検査を進める必要がある。しかし事前に対処は、可能だ。
ミラに説明すれば、納得して頂けるだろう。
さて、自宅に戻った頃だ。
続いてヨナスから届いたメールにも、感情が揺れた。
フェリクス医師は現代風に、カルテや看護記録に記載する情報まで、必要時は記録していた。
ヨナスはこれを元に、ミラの家族関係や、生活背景などをまとめてくれた。
「ミラの出身地は、ゲルマニア地方でした。クサンテンから、ライン河の国境を超えたエリア。この付近を中心に、暮らしていた民族でした」
ミラの一族は比較的、裕福なポジションだったようだ。よくある上層階の、覇権争いね…ドタバタに巻き込まれてしまった。
一族は、再起をかけた。
紀元150年代に、ライン河国境を超えた。
ローマ帝国内で生きる、第二の人生を選んだ。
「ミラの一族のようなケースは。ライン・ドナウ河の国境線では、多い出来事だったようです」
だから国境の守り、特にカエサルがラインを敷いたこのエリアは重要だった。
時代背景を把握しやすいように、ヨナスはこう添えてくれた。
さてミラの一族を助け、受け入れたのは。
クサンテン駐屯地で暮らすローマ人だった。
現役、退役した軍関係の人々や。
代々、この地で暮らしてきた人々だった。
ミラと家族は、ある貴族の屋敷へ勤めた。
こちらの主人が、剣闘士一座のスポンサーだった。それが縁で、ミラは女性剣闘士の道へ進んだ。自らの、決断だった。
「ミラが、剣闘士を選んだ動機ですが。
家族の未来を考え、解放税を視野に入れたようです。
剣闘士で成功すれば、資金の一部もしくわ全額を提供できるかもしれません。
フェリクス医師へ、こう明かしていました」
古代ローマでは「解放税」が、法律で整えられていた。これは雇い主が、支払う。
ミラの家族が勤めた、貴族の主人が該当する。
ミラは解放税に、家族の未来を託した。そうなれば、「自由な暮らし」が待っている。
歴史の教科書に、必ずといって良い「スパルタクス」が登場するけれど。お互い、別れ道を選んでしまったのだろうなあ。
でも見方を変えれば、どちらも「解放」。見送り見送られる関係は、キラリと眩しい。こちらの道へ進んだ多くの人々も、実在したんだよね。
さて、フェリクス医師の記録によると。
剣闘士を目指したミラに、転機が訪れた。
「ミラが所属した剣闘士一座は、ウィーンのカルヌントゥムを拠点にしていたようです。彼女もこちらでの生活が、中心になりました」
剣闘士一座は、帝国内を興行して廻っていた。
ミラの所属した一座も、同じようなスタイルだったろう。
「やがてミラは、訓練士の男性と結婚しました。彼は、もと網闘士だったようです」
彼女は既婚者だった、実は予測していた。
これは古代ローマの医療水準や公衆衛生、生活背景などが絡んでくる。
何処も同じかな。
ローマ帝国でも乳幼児の成長、平均寿命の延長が、課題だった。
兵役もあるので、男性は晩婚化する。かつ無事に20年、勤められるか分からないしね。
貴族らには、結婚に関する法律も存在したくらいだ。
先見の明を持っていたカエサルが、医師へローマ市民権を授与した事も、課題の解決へ向けた根拠の一つだったと、個人的には思う。
かつカエサルは、リアルな現場で学んでいた。
緊急時に助かる命は、身分や民族に関係なく、分け隔てなく救うべきだ…特に未来を担う、若者たち。
やや語弊はあるかもしれないけれど。
現代、災害時などの救急医療に置き換えると。カエサルは「トリアージ」の概念を、既に持っていたと思う。
実際カエサルの意志は拡大して、受け継がれた。軍病院は自然と門扉を開けた、法律でも受診枠に規制はなかったからね。
こうした、様々な背景が重なり。
たとえ恋人が彷徨う魂でも、ミラは表面上、独身を通す訳にはいかなかったろう。
「ちなみに、ミラの夫となった網闘士とは。
網と海神ネプトヌゥスの様な三叉を操り、技を魅せるタイプの剣闘士でした」
ミラは戦車闘士、夫と競技が異なる。
彼の補佐を受けたお陰で、短期間で成長できた。
技を魅せ、観衆を大いに沸かした。
「その結果、彼女は引退し成功できた。クサンテンで暮らしていた両親の解放税を、主人に渡す事も出来たようです」
ミラは両親をカルヌントゥムに呼び、新たな暮らしを整えたようだ。兄妹は助けられた貴族の屋敷に残った、相性もよかったようだ。
故郷に近いエリアで、幸せに暮らした。
「ところでミラは。
我々と同様、特異な体質を持っていますね。
彷徨う魂らが視える。
剣闘士の練習を見物する魂…ガイウスに気が付いたのは、結婚前だったようです」
なるほど、結婚前に出逢っていたんだなあ。
ちょっと、切ないね…。
「彷徨う魂、3代目皇帝ガイウスと恋に落ちたミラの相談相手は、医師フェリクスでした。
彼はバリーニ家の前身、アエミリアス一族の出身です。やはり特異な体質を、持っていたんですね。彷徨う魂が視えた」
ヨナスの報告は、ここで終わった。
なんだか、甘酸っぱい思いが込み上げた。
仮に「私には恋人がいる、彷徨う魂なの」同僚へ打ち明けて。
「信じてもらえた」としよう。
それでもローマ帝国が抱えた課題、ミラの抱える状況を踏まえたら。
訓練士との結婚は、そのまま進んだろう。
同じ体質を持っていた医師フェリクスは、彼女の友人でもあった。
深い部分まで、胸の内を明かされただろうし、傾聴したはずだ。
例えば国境を渡った前後、その経過。
ガイウスとの出逢いや、彼が彷徨う理由など。
二人は何かしら、トラウマを抱えていた可能性も高い。
しかし剣闘士であるミラにとって、メンタル面の揺れは、極力避けたい。試合や練習中に怪我や故障を、招いてしまうだろうから。
彼女の精神面に関しては、治療を施した記録は無かった。相談に乗ったり、もしくわ医療以外のことで、解決したのかもしれない。
「医療従事者として。患者さまに対して、失礼な表現になる、申し訳ありません」
ここで亜子は、先に医療者の視点でお詫びを述べた。
そうしてから、再び口を開いた。
「アレルゲンの毒は。まるで神さまが、ミラとガイウスへ授けたみたいね」
「愛の薬かあ…」
返事をする俺は、いつの間にか食器を洗っていた。亜子は皿を拭いていた。
夕食のメニューは納豆と、野菜たっぷりの味噌汁、焼き魚…和食だったはずだ。
好物ですら、心ここにあらずで食べていた。
ケンイチさんのメールから始まり、時空を遡って、古代ローマ時代のカルヌントゥムに生きている、不思議な感覚に陥っていたから。
それでも、なんとか風呂に入って、ひと段落した頃だ。最後にプルートから、フェリクス医師に関するメールが送信された。
医師フェリクスはバリーニ家の前身、アエミリアス一族の出身だ。なのでローマ市民権を持っていた、ローマ市民ね。
俺たちにとって、ご先祖さまにあたる男性だ。
「彼のフルネームはフェリクス・アエミリアス・プルケル」
プルケル…美男子を意味する苗字で。フェリクス…幸運な人が、名前だ。
あらっ、幸運な美男子だなんて。
吉兆を引き寄せるようなフルネームは、チョイと、羨ましい…。
「彼は医師だったから。
軍医として、兵役についていた。クサンテンの駐屯地だ。こちらの軍病院で、腕の良い外科医だと、評判だった」
軍病院は広い帝国内、駐屯地を中心に、建設された。国境付近の地域は、人口の減少が生活の安全に直結する。
軍病院は当時としては、設備が整っていた。開業医や家庭医の少ない地域の人々は、自然と受診するようになっていた。
剣闘士一座は、帝国を回って興行していた。
一座の主人は、医師フェリクスの評判を、現地で耳にした。
主人はフェリクスが退役後に、開業するつもりである事を知った。軍病院の様に、医療を分け隔てなく人々へ提供したい。
彼は、理想を抱いていた。
大抵は駐屯地の付近に残り、結婚して暮らす。彼もクサンテンの地で、過ごすつもりだった。
この時代、医師に資格はない。知識と技術を持つ者は、やはり貴重な人材だ。
一座の主人は拠点であるカルヌントゥムの地へ、フェリクスをスカウトした。
「彼ならば養成所の選手や、現役選手のフォローも可能だ、先々を考えたのだろう。
大事な選手のメンテナンスは欠かせない、引いては、一座の運営も左右するしさ」
プルートはホテル経営者の視点で、考察した。
フェリクス医師はこんな経過を経て、カルヌントゥムで開業した。
この地でミラや、ガイウスと出逢った。
しかし彼は、もう一つ実現を考えていた、胸に秘めていた物があった。
「理由は残して無いが。
フェリクス医師は、二人と出逢い、再生ネクタルの完成を、強く望むようになった…。
こう記してあるんだ、寝耳に水だよ。
俺たちが、生み出したと思っていた」
バリーニ家当主、プルートだけでない、ヨナスとケンイチさんも、さりげない一行に仰天したそうだ。
もちろん亜子と俺も、驚いた。
そして賢一郎先生や直人さん、裕樹と一太から「神さま、本当ですか?…」。それぞれの表現で、ラインメールが飛び交った。
丁寧に「般若心経」の一部、相応しいと感じた箇所を紹介くれた方は…。
もちろん、お寺の次男坊さんね。
…物や、感覚器官から得る情報も、心に浮かぶ思いも、実態のない変化し続けるものだ…
こんな意味だった。
しかしなぜフェリクスは、再生ネクタルの存在を知っていたのか?疑問は、多々沸いてくる。
彼が詳細を記述を残さなかった、こちらも意味がありそうだ。
なんせ、紀元2世紀の出来事だ。
最高神ユピテルを始め、ネクタルを管理してきたバッカスすら、とうに忘れているかもしれない。
プルートたちは、他の資料を探して、心当たりの神々にも尋ねる予定だ。
かつ俺たちが、この報告書を読んだ後。
「過去生のヒントが浮かんできたら、何でもいい。知らせてくれ」こう綴っていた。
プルートも、頭が整理できないようだった。
メールの文面から、動揺が伝わってきた。
それでも最後はフェリクス医師の、ラテン語で綴られた診療記録を訳して、全文を載せてくれた。
「その日ミラは。
丸い庭に面した、回廊に腰掛けていた。
網闘士の練習を、眺めていた。
夫も加わっていた。
網闘士が巧みに操る網は、空間へパッと広がった。太陽光に反射する網は、眩しかったのだろう。手をかざして、光を遮る様子もみられたそうだ。
ミラは足元に近づく、蜂か蜘蛛、もしくわ他の虫に気が付かないでいた。
周囲の者が、彼女の異変に気が付いた時は。
地面にうずくまり、呼吸は荒かった。
息が苦しく、受け答えは出来なかった。
私が養成所に到着するやいなや、彼女の夫や同僚は、こんな報告をしてくれた。
既にミラの呼吸、心臓は止まっていた。
ふと私は、疑問を感じた。
ミラは剣闘士を引退し、訓練士となったくらいだ。現役時代から、技を磨いてきた。
網闘士の網に関わらず、光の反射を味方につける術は、学んでいただろう。
観客の興奮も高まり、技の魅せ場に、繋がるからだ。だから光の反射は、慣れていたはずだ。
しかし、この疑問は伏せた。
さてこの頃ガイウスは、愛馬を連れて、近所のカルヌントゥム駐屯地から、ドナウ河のほとりに佇んでいた。
ミラは剣闘士と養成所のルールで、なかなか自由に行動できなかった。
彼女に代わり、彼は草花を摘んで持参したり。
時には広大な帝国の様子を、話して聞かせた。
特に駐屯地は、広大な帝国の情報源でもあった。さすが皇帝は、そのような事情に詳しい。
もちろん彼女の故郷も、度々訪れた。
ライン河、国境の向こう、こちらの様子を話して聞かせていた。
資料の少ない皇帝ガイウスの意外な一面、優しい人なのよ。
恋人の話をするときのミラは、いつも満面の笑みを浮かべていた。
さて肉体を離れたミラの魂は、恋人のガイウスと、ドナウ河ほとりで再会した。
私と共にクサンテン基地を満期除隊した、医療班の看護夫が、自身の目で確かめた。
現在彼は、私の医院で勤務している。
私は昔からの仲間を、信頼している。彼がいなければ、私はこの地で開業に踏み切れなかった。
故郷に等しいクサンテンの地で、暮らしていただろう。
ここで彷徨うガイウスやミラ一族と、すれ違っていたはずだから」
三人から届いた、メールを振り返っている内に。
亜子と俺は、蒸しタオルを両目に乗せたまま、眠ってしまった。
現世と過去の出来事が交錯する、不思議な夢を見た。
正装、白いトーガ姿の亜子が「イゾルデ愛の死」、フランツ・リストのパラハーレズ作品を、円形競技場の隅で弾いていた。
亜子は短髪で浅黒い肌、男性だった。
演奏する楽器は「水オルガン」だ、でもピアノの音がする。
太古の楽器、鍵盤楽器のルーツは、鍵盤も88鍵ある。だから「イゾルデ…」を演奏、表現できるのかな?
はて、おかしいな。
亜子は、この曲はまだ弾けない、でもいつか相応しい演奏表現まで辿り着きたい。
出逢った頃から、目標にしていたな。
ああ、そうか。
音楽はクライマックスの剣闘士競技が始まる、この合図だ。神さまから、亜子へ特別なプレゼントかもしれない。
本当は笛や木管楽器、水オルガンなどが序曲…音楽を奏でていたはずだもの。
「歌曲でないピアノ曲は。色んな感情が、良い塩梅で表現されるね。上品な官能さ、儚さ、高貴な雰囲気が、緩やかに漂うよ」
ミラとガイウスが、細長い光に包まれて昇天していくようだなあ。
同時に胸の内に秘めていた、様々なトラウマや感情も、浄化されるようだ。
「そうね。ミラとガイウス…二人の愛の形が、ピアノ曲で表現されるね」
ああ、俺は観客だったのか。
円形競技場の客席、この最前列に、正装で腰掛けていた。白いトーガ姿だ。
直近で水オルガンを演奏する、亜子に話しかけていた。
見渡すとカルヌントゥムの円形競技場は、見物人で満席だった。人々は屋台で買ったのだろう、飲食を楽しみ、お喋りに夢中だ。
でもサイレント映画の様に、歓声や物音は、何一つ聞こえない。
ただピアノの音だけが、広い競技場に響き渡っている。
亜子が演奏を終えた。
ほどなく南側の通路から、四頭の馬が現れた。
戦車の御者は、鎧を付けたガイウスだ。
慣れた手つきで、手綱を操っている。
うわあっ、凛々しいなあ…。
彼の背後には、戦車闘士ミラが立つ。
彼女は兜を付けず、左手に盾を持っている。
一つに束ねた金髪が揺れる。細長く丸い、緑色の冠の様な物を、頭に巻いている。ヘア・バンドみたいな物だ。
彼女は全身から、キリッと引き締まったオーラを放っている。
凄く、カッコいい。
観客は身を乗り出して、お似合いの二人へ声援を送っている。
ミラとガイウスは、ゆっくり競技場を周りながら、声援に答えている。
客席を見渡し、時には手を振ってね。
でも不思議な空間は、物音一つしない。
ひょっとしたら、二人の思い出に残る、ワンシーンなのかもしれないなあ。
お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました
写真 文 AKito
参考図書
新潮社
塩野七生 ローマ人の物語X
山川出出版
本村凌二 著
帝国を魅せる剣闘士
インターメディカ
ER救急ハンドブック
PHP文庫
ブライアン・L・ワイス
山川紘矢・亜紀子 訳
前世療法