一昨日の水曜日、俺と亜子が訪問診療から戻ると19時近かった。

ミラと神々、そして武勇伝を残した?中嶋のオバちゃんらの帰宅と重なった。

 

「さながらヒール役を演じたような、エピソード満載、ガイウス…皇帝カリグラを受け入れてくれて、本当にありがとう」
 
ミラは俺たちを、ギュッとハグしてくれた。
 
「ローマ皇帝の言動がニュースになると、尾ひれがつきものだったそうですね。光と影を極端に味わったガイウスは、尚更だったでしょう。現代に生きる僕らも、小さなスケールですが、似た様な経験をしますよ」

「ガイウスは間もなく術後一週間、順調に回復している様ですね。市民病院へ搬送した私たちも、安堵しています」
 
賢一郎先生が、ガイウスの経過をミラに説明していた。
 
「トイレや洗面所まで歩く…健康ならば、普通に出来て当たり前よね。負傷していると、それも困難になる。でも体は治癒力を持つ、徐々に回復を体感できるでしょう。ガイウスの状態も我が身に置き換えて、想像しているの」
 
剣闘士だったミラは、怪我や故障の絶えない現役時代の経験から、胃石除去手術後の経過を掴んでいた。彼女はアスリートだったわけだから、なるほど合点がいった。
 
剣闘士競技に関して、エピソードは盛りだくさんだ。帝国の最盛期や衰退が絡んだ、政治的な背景とかさ。

ファイターになった様々な人々の、様々な事情。
アマチュア選手は人の道を外した者が、大半を占めたとか。プロファイターの中には、帝国を守る兵士の訓練を実地した者もいたとか…。

彼らの医師を務めたガレノスをはじめ、剣闘士は医学の発展にも貢献した。医者は実地で、学んだわけね…。

「ちょっと待って、でもさ…」
一言、物申したくなるのが、この競技に対する、反応の一つかもしれない。

俺の前世の一つは、クレオパトラに仕えた踊り子だ、剣闘士は何処かで眺めたろう。
女王はカエサル、アントニウスと結婚した。彼らも何度か、競技を主催したからね。

現世は平成の世に生きる、だからこそ多角的な視点を持ちたい。
自分にそう言い聞かせている。

そうするとシャドーだけでなく、光りを見出せるでしょう。一番大事な事、選手や熱狂した人々…全てに対して、鎮魂の気持ちを忘れずに済むからね。

「現代に生きる私は、剣闘士について、そんな受け止め方をしています」

別れ際、つい熱く語りそうになった俺の代わりに、亜子がやんわり切り上げてくれた。
 
「あなた達と出会えて、ガイウスと私は幸せよ」
ミラは、もう一度ハグしてくれた。

例え病気の影響で幾らかふくよかになったとしても、女性剣闘士の心と体は、心地よく引き締まっていた。
 
 
さて本日は、金曜日。
電子カルテの右隅に表示される時刻は、午後12時をまわった。
 
10分前に、賢一郎先生と岸田主任は「神々のヴィラ(別荘)」、真紀子さんの自宅に到着したはずだから。
 
検査開始時刻の12時きっかり、ミラは補液と採血もろもろ、戦いの神アレスは24時間ホルダー心電図を、それぞれスタートしただろう。
 
ミラは低血糖発作の原因探索のために、絶食検査に取り組む。

ええっ、そんなキツイ検査を、受けなきゃいけないの?と…思ったそこのアナタ、ホントです。

俺がまだ青二才、消化器外科医時代だ。この検査の最中に大部屋の出入り口付近で、ユラユラ前方に倒れかけた、男性患者さんを発見した。

あっ重度の低血糖だ、危ない!
俺はギリギリセーフ、患者さまの体を支えた。同時に他の患者様に、ナースコールを頼んだ。

やれやれ…ホッと胸を撫で下ろしたのは、束の間だった。
 
「あまりにも空腹でトイレに行くのも、フラフラするんだよっ。しかも点滴のおかげで、しょっちゅうモヨオス。
お兄ちゃん、検査を体験して患者の気持を、味わってみろっ!」
 
半ばプチッとキレられてしまったが、ごもっともだ…俺は素直にハイと返事をしてしまった。
 
患者さまは駆け付けたナースが車椅子に乗せて、無事に用を足した。
トイレ、いいや排泄は治療の要だ…青二才、真面目だった?俺は、改めて肝に銘じたね。
 
まっ、余談はこの位にしておいて。
糖代謝に関与する病気は糖尿病だけとは、限らない。
鑑別や確定診断のために、絶食検査を行う。

敢えて低血糖を起こし、随伴症状を確認する。同時に採血を取り、血糖値やインスリン濃度などを、正確に測定する。

本来この絶食検査は、入院して24時間から72時間かけて行う。だからミラのケースは、稀ね。

彼女を最初に診察した賢一郎先生と、相談を受けた消化器外科医師、直人さんの判断とアイデアで、訪問診療での実地に踏み切った。
 
神々もサポートしてくれる。ましてミラは現代医療は未経験だ、在宅の方が安心、安全だろう。彼女もそれを望んだ。

 

「訪問診療では、初の試みたい。オイもドキドキすると」

「フフフッ。食事前、定刻時だけの診療を願うとね」

 

さて中嶋のオバちゃんを真似て、かなり頭を緩めた。午前中最後の、診察を始めよう。

 

亜子が初診の患者さまを呼び入れる間、再び問診表に目を通す。


しかし偶然って、重なるもんだなあ…。

47歳、既往歴のない杉山明子さんの主訴は、二週間前、「たまたま発覚した高血糖」だ。

ミラは低血糖だから、逆の状態。


しかし杉山さんの全身状態は、何か変だ。

高血糖の発覚と同時期に、様々な症状を併発していた。


だから俺と亜子は、ユーモラスな中嶋のオバちゃんパワーを借りて、思考を柔軟にした。


来院時の体温は37.7分、脈拍128回/分で頻脈、動悸を訴えていた。


上気道炎と思しき症状は、37度から38度代の発熱が続き、咽頭痛と咳嗽を伴う。

市販の風邪薬や、NSAIDs(鎮痛解熱剤)を内服したものの、症状は一進一退を繰り返した。


他の随伴症状は、消化管機能の亢進だ…食欲の増進、排便過多と体重減少(二週間でマイナス3キロ)。


持参された、春の健康診断結果では、HbA1cと血糖値も正常だ。


二週間前から記録した血糖値と、食事内容、排泄回数(大小含む)、体重を記録したノートも参考になった。

このお陰で、全身状態を短時間で把握できた。

 

自己測定した血糖値は、昨年亡くなった義理のお母さんが糖尿病で、インスリン治療をしていた。血糖測定器やチップ・針などが残っていた、こちらを使った。

 

血糖を測定したきっかけは、些細な事だった。

ママさんバレーボールのチームメイトと練習後に、夕食を共にした。30代から50代まで、幅広い年齢層が揃った。


そこで介護やら、女性に多い病気や更年期、メタボリックシンドロームなど、気になる話題で盛り上がった。

 

実のところ杉山さんは、この時すでに倦怠感や軽度の咽頭痛、体調不良を自覚していた。

バレーボールの練習も、食事もやめておけば良かったかな…。


帰宅してから、何気なく血糖値を測定した。


「ええっ!あれほど運動もしたのに、嘘でしょう!?」


食後2時間は、経過してない。

しかし200代の高値だった。運動の後で、つい夕食を食べ過ぎた影響だろうか?もしくわ、測定器が壊れているのではないか。


だって週2回、バレーボールの練習で汗を流している、運動量は十分なはずだ。

 

では倦怠感や軽度の咽頭痛は、単なる風邪だろうか?不可解なのは風邪であるにも関わらず、食欲は増進して、便秘も解消していた。その影響か、自然と体重は減っていた。

 

最近は昼食の弁当も、夫と同じ量に増やしていた。杉山さんの職業はトリマーだ、仕事柄ずいぶん便秘に悩んできた。

 

なんだか自分の体では、ないような気がする。


念のため仕事以外は、食後2時間の血糖値を測定した。

しかし食欲が、増しているからか?

高値が続いてしまった。やはり100代後半から、200代以上の値だった。

 

母親の治療を目の当たりにしたから、原因を知るのは、怖いだろう。でもこのままでは、解決しない。旦那さんに背中を押され、徒歩圏内の当院を受診した。

 

「ゴボッ…あの日以来、さすがにバレーは休んでます。仕事は私を指名して下さるお客様が多いので、予約状況に合わせて」

 

ベリーショートが似合う杉山さんは、身長160センチ、スラットした外見はまさに、バレーボーラー。

小柄に見えてしまう亜子の肩につかまりながら、ヨロヨロ歩き、緩慢な動作で椅子に腰かけた。


ワンピースがダブダブになってしまった、彼女は腰部付近にたるんだ、ブルーの布地を引っ張ってみせた。


「人気のトリマーさんなんですね。負担の大きな状態で、本当にご苦労様です」

正直、俺の労いの言葉よりも、今すぐに楽になりたいだろう。


最近は頻回のトイレも、怠くてツラい。

体動時だけだなく、横になっていても動悸が出現する。彼女は咳き込みながら、ハスキーボイスで呟いた。

 

返事はゼスチャーでも良いと、促したものの。体育会系だし仕事柄、言葉で伝える方が好きだ、彼女は僅かに顎を上げて頬を緩めた。


頸部に腫脹は、なさそうだ。

チラッと視診した。

 

「失礼します、触診しますね。押すと痛いですか?」


頸部を場所を変えながら、触れていく。


「ゴボッ…あっ、そこ…ドンピシャです。押しても痛い場所です。なぜかそこだけ、ずっと痛かった」


一旦、触診をストップした。

自発痛と圧痛をともなう患部は、微細な硬結が触れた。


「食べ物を飲み込むと、ムセルし痛い、本当に厄介なんです。でも悲しいかな、食欲は増しているので食べてしまう。全身の代謝が悪くて、血糖値が高いのでしょうか?」


昨年まで糖尿病の義母をサポートされていた、当時を思い出したのだろうか。彼女はせわしなく、眼球を上下左右に動かした。

 

「既往歴もありませんし、もう少し詳しく調べていきましょうね」


努めて丁寧に返事をしつつ、眼球の動き、下方に遅延の無い事を確認した。


実はこれだけ症状が多いと、逆に糖尿病と鑑別しやすくなる。


下まぶたをチェックする、眼瞼アネミアは軽度(瞼の裏側が白っぽくなる)だ。貧血は原因が判明すれば、治療しなくても改善するだろう。


むしろ両眼球が正常な位置で、動きも問題ない事の方が重要だ。

 

さて、画像検査に進もう。

頸部エコーと胸腹レントゲン、心電図と採血、採尿をオーダーした。


「画像検査の結果で、原因が絞れます。のちほど、ご説明しますね。トイレは自動ドア、万が一のボタン付きですので、ご安心下さい」

 

杉山さんの全身状態が、およそ掴めてきた。

高血糖と感冒症状、さらに随伴症状の原因は、一つに集約できそうだ。

 

「分かりました。アハハッ、羽沢先生はユニークですね、評判と違います。ゴホッ、ゴホッ。奥さん…いいえ看護師さん、案内をすみません」


 おやっ、評判?…どんな?

チームメイトや職場の同僚で、当院を受診された方がいたのかな、まっ、いいか。


フフフッ、杉山さんが予約の多い人気トリマーさんである理由も、何となく掴めてきた。もちろんベテランさんで、お上手なんだろうけど。


実直な人柄に、お客様や職場仲間、チームメートは信頼感を抱き、惹かれるのだと思う。


さて杉山さんが検査を終えるまで、ここまでの経過を入力してしまおう。


パートだけれど、エコーとレントゲン技師さんが入職してくれたので、俺は仕事の負担が減った。とても助かっている。

 

ほどなく杉山さんは検査を終えた、上がってきた画像を読影した。


俺はカルテ画面にエコー画像と、病気の概要を出して、インフォームドコンセントを開始した。

 

「今回は甲状腺の病気、亜急性甲状腺炎のようです。高血糖や感冒症状も含めて、現在出ている症状の原因だと思われます」

 

甲状腺は、蝶の羽を広げた形だ。


左葉上部、画面むかって左側の低エコー(黒っぽく映る)部分を指さす。

「ここが、炎症部分です」


自発痛と圧痛を伴う、硬結部位だ。

 

「私が甲状腺の病気?!嘘じゃないですよね…ゴボッ、ゴボッ…あっ、すみません」


ドスンッ!

ううっ…俺は思わず声を上げていた。


想定外の病気に驚いたのか、勢い余った杉山さんから、左肩をドンと押されてしまった。


そりゃあ自然とアタックも、出るだろう。

だって糖尿病疑いを始め、随伴症状に悩まされた日々だったものね。


亜急性甲状腺炎なんてさ、寝耳に水だろうな。

左横に立つ亜子は、思い悩んだ彼女へ暖かい眼差を向けている。

アタックは仕切り直し、先に進めよう。


「この病気は30代から40代の女性に、多く発症します。原因はウイルス感染だと、言われています」


甲状腺の病気は女性に多い…チームメイトの誰かが話していた、杉山さんは2週間前の食事会を思い出した。



「甲状腺の一部が、炎症を起こして。そこから全身の代謝を促す甲状腺ホルモンが、溢れ出てしまいます」


「決壊しちゃう感じですね」


上手いこと言いますね、思わず口に出して、関心してしまった。


採血では甲状腺ホルモンと、炎症反応の上昇が認められるはずだ。

もちろん同時に、糖尿病やバセドウ病など、類似する病気と鑑別する。


後者も甲状腺ホルモンが過剰に分泌されるが、自己免疫疾患だ。発生するメカニズムが、亜急性甲状腺炎と異なる。


でも杉山さんは、バセドウ病の可能性は低い。

先ほど視診や触診で眼球の状態や、頸部の腫脹がない事を確認した。


「過剰にあふれ出た甲状腺ホルモンの影響で、甲状腺中毒と言う、様々な症状を起こします」


「まさに私は、そのカオスな状態」


カオスかあ…またしてもナイスな例えだなあ。

患者さん側からすれば、分かりやすい表現かもしれない。


「フフッ。そうですね発熱…高血糖や腸蠕動の亢進、動悸や頻脈、倦怠感、体重減少などが起きています」


「なるほど…甲状腺ホルモンは、血糖を下げるインスリンと逆の作用を持つんですね」


杉山さんは介護の経験を活かし、噛み砕いて理解してくれたようだ。


甲状腺は小さな器官だし一見、目立たない存在だけど。実は生命維持に関わるホルモンを分泌する、縁の下の力持ちだ。


彼女の場合は、炎症が強いのだろう。だからNSAIDsでも、効果が無かった。

だから治療は、次の段階になる。

 

「ステロイド剤の内服で、甲状腺を治療します。動悸は頻脈を押さえる薬で、対応しますよ」

 

心電図の洞性(正常な)頻脈は、発熱と過剰な甲状腺ホルモンによるもで、これが動悸として現れた。

因みにこの頻脈は、健康な人にも出現する。


胸腹部のレントゲンも、特に問題はない。

カオスな体の状態に、翻弄されてしまった杉山さんへ、くまなく説明した。


「炎症が治ると、甲状腺ホルモンも正常に戻ります。出現している症状も、徐々に改善していきますよ」

 

「ゴホッ…しんどいトイレ移動からも、解放されますね。羽沢先生に診察して頂いて、体の状態が腑に落ちました」


杉山さんは緊張や不安が、多少緩んだのか、最後に当院をフォロー先に選んだ「決めて」を、明かしてくれた。


職場のトリミングサロンは、ペットショップと動物病院を併設している。

 

「お客様が、ウチの店舗でワンちゃんを選んだ友人を、紹介がてら連れてきたんです」

 

ワンちゃんを飼った方の娘さんが、当院の訪問診療を受けていた。

 

「腎臓病や、メタボリックシンドロームが専門の医師も勤務されて、外来診察が始まった。近所なら、風邪くらいの診察は、おススメするわ」


トリミングを予約してくれたお客様の友人は、今度は杉山さんに、当院を紹介してくれた。


 「動物たちと接しているうちに、声や表情、仕草から、気持ちが理解できる様になりました。性格はそれぞれ違いますよ。でも彼らは、生きる事に、凄く正直なんですよね、だから愛しい」


杉山さんは当院のホームページから、俺の目を見て、委ねよう…決めたそうだ。



…美紀のスキルス胃癌は、3ヵ月前に受けた免疫療法の効果が出ています。掴まり歩きでも、再びトイレや洗面所まで行けるようになった。


治療の前に尻もちを突いて、尾骨を骨折しましたが、回復も早いです。治療で癌は治らなくても、より生活の質が上がる。本人と家族が、こちらの治療に希望を託すのは、当然です…


一昨日の水曜日、訪問診療を終えてクリニックへ戻る途中、早川美佳子さん…美紀さんの母親から連絡を受けた。


当院の訪問診療を終了したい、その依頼だった。

 

「ワンワン!」

「ミラちゃん、明日は庭を散歩しようか」

「颯君、私も車椅子に乗って、一緒に散歩する」


通話中は背後から、軽快な「子犬のワルツ」が響いていた。



「ショパンが子犬のワルツを作曲した状況と、遠からず近からずの雰囲気だったかな?」


月曜日の診療時、ミラちゃんは2階でお昼寝中だった。結局、ご対面は叶わなかった。


そうそう、ベッドサイドに飾られた写真立てには、白のトイプードルがつぶらな瞳から、胸キュン・ビームを放っていたっけ…。


「緩和ケアで症状コントロールして、生活の質を維持、高める。免疫療法と併用すれば、さらに広がる可能性がある…その効果がミラちゃんの登場だと思うなあ…。

ご家族と本人も最初は、併用の必要性を理解して下さったのに。ズレてしまったのは、寂しいね」


 渋滞に巻き込まれたので、ハンドルを握る亜子は迂回してくれたが。

気分転換にとてもじゃないが、ピアノ曲は流せなかったし。

俺の冗談も、全く…冴えなかった。


だから女性剣闘士ミラの登場と、ガイウスとのエピソードは尚更、胸が熱くなってしまったのよん。

 

 

時刻は13時、仕事を終えたスタッフは、休憩室に揃った。二人の技師さんはパートだ、午前で帰宅された。


長崎のお茶とカステラで、一息しつつ、ミラの状況を確認した。


俺と亜子は「八角形のメダイ」を、首にぶら下げた。賢一郎先生と岸田主任は、診療時に身に付けていた。


ナルキッソスがヴィアンキ一族の彷徨う魂が昇天する際、神々に用いた「交信の魔術」を、なんと医療用に調整してくれた。


能ある鷹は爪を隠す…。

ナルキッソスって、神々の中で魔術はナンバーワンの腕前ではないのかなあ。


検査中の情報交換はメールや通話、オンラインでも構わないが。

神々は慣れている魔術を使ったほうが、いざって時に慌てなくて済む。


古典的な手段だけど、実際はリアルタイムで状況が届く、超ハイテク?優れモノだ。

 

今回は八角形の手鏡も、各自で持つ。

オンラインに等しいから、ミラの全身状態を、より把握できる。


現在は、リビングの様子が映っている。

点滴中のミラはソファへ横になり、その付近で手を振る女神アテナとアフロディーテ、真紀子さんの姿が見えた。


患者さん側も、みな首にメダイを下げている。サイズアップしているメインの鏡は、ミラを中心に映す一枚だ。


三人は女神の酵素ドリンクで、24時間ダイエットに挑むそうだ。ミラは血糖を左右しない水分のみオッケー、でも全く足りないよね。


空腹を一人で耐えるのは、凄くキツい、三人のトライは心強いだろう。


「点滴中は、トイレの回数が多いのね。賢一郎の忠告通り、低血糖発作がトイレで起こる可能性はある、前兆に注意するわ」

 

さすがのミラも、トイレは厄介のようだ。

しかしリスクに備えているからか、表情も言葉使いも、落ち着いて見える。


「検査のリスクは承知で。やはり彼女は、在宅での実地が、適しているよ」

「そうですね。入院はガイウスのいない、一人ぼっちの自宅と、等しいでしょう」


賢一郎先生と、岸田主任は顔を見合わせ、ようやく笑みを浮かべた。準備をしただけに、より責任を感じているのだろう。

  

「トイレも自動ドアに改良した。転びそうな、もしくわ点滴スタンドが引っかかりそうな段差は、全て解消したよ。

ヘルメス、もう少し待て。カップ麺は、まだアルデンテにもなってない」

 

「低血糖で意識消失しても、ドクターが到着するまでに教えて貰った通り対処する、任せてくれ。ほらみろ、麺は固すぎるだろう?」


 「ショック。俺って、高血圧のアレスより、せっかちだったんだあな…伝令担当だからさあ、無意識に急いているのかもしれない」


フフフッ。

メダイを通した会話の様子から、三人の神さまは、どこかで昼食を摂っているようだ。


ミラは剣闘士時代の、規則正しい生活が体に染み込んで、食事の時間も決まっていた。


だから低血糖の出現時間も、例外はあるが、把握しやすい。一昨日の発作も、多少時間は早かったものの、大差はない。

 

低血糖が出現する前に、俺と賢一郎先生が交代で診療する。症状が出た時点で、検体を採取する。


今日は賢一郎先生、明日は俺が引き受ける。

アレスのホルダー心電図を取り外し、ミラを伴い美月クリニックへ向かう。

ここで、画像検査を行う。

 

フフフッ…そう言えば、青二才だった頃の直人さんも、俺と似たような経験をしていたっけ。

 

「患者さまが夜中にトイレで、意識消失してしまったんだ。ドアノの鍵を壊して、医者とナースが数人で救出した。もう焦ったのなんのって…未だに背筋が寒くなる急変だった」

 

今でこそ病院のトイレは自動ドアだ、直人さんが医師になった当時は違った。


 因みに、その時の意識消失の原因は、排泄後の迷走神経反射だ。異変に気が付いたのは、同室の患者さまだ。スタッフは、ナースコールで事態をキャッチした。


自動ドアになったとしても、密閉空間のハプニングは病院ならでは、本当に油断は禁物だ。

こんなエピソードを聞いたアレスが、ピンと閃いた。


「鍛冶の神さまの、出番だろう。左股関節の術後、リハビリに丁度いいって。しかも入院経験を、活かせる。あとは真紀子さんのゴーサインを、貰うだけだ」

 

ヴィラのDIYは、無事に終了したけれど。想定外の事態は起こるもの。

慎重な姿勢は、崩さない。


と言うのも、美月クリニックでの画像検査は、今後の治療方針を決める、その準備も兼ねている。八角形のメダイと手鏡は、本当、ナイスアイテムだ。


今後の治療方針かあ…。珈琲を啜りながら、一昨日の出来事を振り返る。

 

早川美紀さんの診療は、月曜日が最後になってしまったな。俺の仕事は石川先生宛てに、診療情報提供書を送るのみ。


こちらは都心にある、免疫療法専門、最先端の設備を整えたクリニックだ。

 

29歳の美紀さんは、スキルス胃癌だ。

腰椎と肺転移あり。

メインの疼痛コントロ―ルは、オピオイドのパッチ。次の段階は持続皮下注射だが、そこまでの時間は延長できそうだ。

 

愛車のバイク、ドゥカティのタンデムシートに颯君と腰かけ、記念撮影を希望している。

力になれなかった分、情報提供書に一言、添えておこう。


イタリア製の愛車は、ホワイトカラー。

ミラノは二人が初めて出掛けた、海外旅行先。だから白いトイプードルの名前は、ミラちゃん…。


血糖の上下や、トイレのハプニングだけでなく、偶然って色々と重なるのねえ。


「そうだ倫太郎先生、ガイウスも皇帝時代に、剣闘士養成所を開設したそうですね。

一説によると、円型闘技場は最盛期で200ヶ所近く、建設されたって。ローマ帝国の、スケールの大きさを感じますよね」


ここまで俺が、黙っていたからなのか?

荒ちゃんはミラから教えてもらったそうだ、「ビッグな帝国の、ミニ知識」を披露してくれた。


「ガイウスは市民の目線に立って、流行をキャッチするアンテナに冴えていた。

幼い頃の生活環境も、土台になってそうだね。だからこそ剣闘士競技や戦車競技、演劇とかさ、市民が好む物に、自らも熱狂できた」


返事をしつつ、荒ちゃんにも残っている仕事が、気になった。早川さんの訪問診療終了、この事務手続き、書類関係のやり取りだ。


でも一昨日、連絡をくれたご家族は、まだ来院してないんだよなあ。

患者さまとのすれ違いは、たまには起こる。でも信頼を失ったようで、尾を引いてしまうんだな。


まあ時間が、解決してくれるさ…。


今は想像するだけで胸が熱くなる、古代ローマへタイムスリップしよう。


幼いガイウスは父親の赴任先、ドナウ河とライン河に沿った、ローマ帝国の要、国境ぞいで過ごした。彼は辺境の地を守る兵士たちに、可愛いがられた。


だから渾名は、「カリグラ…小さな軍靴」。

チビッ子サイズの、ローマ・サンダルってトコだな。


一家はウィーンの駐屯地も、訪れただろう。

郊外にあるカルヌントゥムの円形闘技場は、当時完成していた。ガイウスにとって、ここは懐かしい場所だろうな。


ちなみに剣闘士養成所や宿舎は、医院や温泉とマッサージ室、もちろん水洗トイレ、場所によっては床暖房を備え、ファイターの体をケアしたようだ。


やがて魂の状態で彷徨っていたガイウスは、カルヌントゥムで、ミラと出逢った。

以後…お互い魂になっても、長い年月を共に過ごしてきた。


「倫太郎さんと私はギリギリ、トイレが自動ドアになる前に出逢ったね」


「俺が、前期研修時代だった。覚えてる、その途中で、新しい病棟が完成したんだ」


絶食検査中の患者さまが、トイレに向かう途中で、倒れかけた。自動ドアが普及した頃の出来事も、二人で対処した。


ガイウスとミラが過ごした時間には、到底及ばないけれど。つい自分達と重ねてしまい、少しでも力になりたいんだ。


健康を取り戻して、広大なローマ帝国を、思う存分まわって欲しい。


二人は円形闘技場や剣闘士養成所、宿舎や墓地を訪れ、鎮魂の祈りを捧げる。

清らかな祈りは、時間を遡って届くだろう。


亜子と俺は、いや俺たち神々の主治医、スタッフは…そう信じている。




今回は長くなってしまいました


貴重なお時間を割いてお読み下さり

どうもありがとうございました


写真 文 Akito

 

参考図書

 

メディックメディア

病気がみえる VoL3

 

山川出版社

本村凌二 著

帝国を魅せる剣闘士

 

新潮社

塩野七生 著

ローマ人の物語 Ⅶ