8月9日、午前2時30分。
「見ろ、後光が差している。
間違いない、イエスの降臨だ!」
ここはフィレンツェ。
バリー二家の丘は真夜中にも関わらず、歓喜に沸いていた。本当に聖なる方の降臨なのか、まだ判明していない。
しかしつい先程までは、風に揺れる草木の音や虫の声以外は聞こえない…いいや静まり返った、真っ暗闇だった。
ところが今はうって変わり、真昼のようにパーッと光が降り注いでいる。
「イエスの降臨は、この目に焼き付けておくんだ。白い肉体から、神聖な血が流れている」
「神は願いを聞き入れてくれた。ついに最後の審判を受けるのよ」
ヴィーナス教会の窓から数人の男女が身を乗り出し、煌々と後光を放つ「イエスと思しき男性」を見つめ、喜びの声を上げる。
他の窓には女神ヘラとアフロディーテ、元御典医ガレノスも姿を現し、本当に「イエスの降臨」なのか?リアルな登場に首を傾げ、半信半疑だ。
三人はヴィアンキ一族の彷徨える魂らに「折り合い」を付けよう、交渉に招かれた。ヴィーナス洞窟の方は、五穀豊穣の神クロノスとローマの守護神女神ウェスタ、父娘が担当している。
「イエスの降臨」騒ぎが起きたのは、神々と女神が交渉に応じてから、約1時間が経過した頃だった。
本陣のテントで、再生ネクタルを準備していた俺たちの心身は、疲労困憊だった。なんせ立て籠もりから、20時間以上が経過していた。
テントも野外イベントなどで見かける周囲に仕切りの無い物だ、テーブルとイスを置いただけ、仮眠スペースまで余裕はない。
睡魔にも襲われたが、いつ何時、彼らが動き出すか分からない。例えベッドがあっても仮眠する時間は無かった。
だから「イエスの降臨」は、航空機などのライトの錯覚だろう。それが集団心理に拍車をかけたに過ぎない、疲れて確認も億劫になっていた。
かつ戦いの神である俺が指摘するのも何だが、失礼を承知で。
「本人であれば、もう少し神聖な空気が、周囲に漂ってもおかしくないな」
「アレス…私はあの後光を、どこかで見たようですが…。はて、何処だったかなあ」
俺とケンイチは足取りもおぼつかない、ふらふらしながらテントの外に出た。
すると手の平で覆うほど眩しい光は、確かにヴィーナス教会の上空から放たれていた。
かつ、徐々に近づいていた。
彷徨える魂らが「イエスの降臨」だと、見間違えるのは納得できた。
近づく男性の頭上から、後光が放たれているように見えたからだ。
「正体を、確かめてくる」
エロスは翼を広げ上空へ飛び立ったが、左右に傾きバランスが取れない。
いつぞやのように、落下しそうだった。
それでも彼は、男性に近づいた。
間もなく相手と軽く右手を振り、ジェスチャーを交わし、気軽な様子でその場を離れた。
二人は確かに、意思疎通を図った。
だから俺とケンイチは、後光を放つ人物の正体を掴んだ。巧みな演出で「イエスの降臨」を真似る人物は、ガイウス・カエサル以外にいないとね。
この時点で俺たちは、彷徨える魂に以上に、刺激を受けたも同然だ。
疲労は忘れ、完全に目が覚めた。
「後光は、オペ室の丸いライトですな。
右上腕の小さな傷は中心静脈カテーテル、点滴の針が入っている部位、穿刺時に出血したんでしょう。
丸く開いた左腹部は、手術部位。多少、出血しているのかもしれませんが。
彼らが大騒ぎするほど、流れ出ていません。集団心理は、膨らみすぎたようですな」
生前「肺癌手術経験者」のケンイチは、ガイウスの全貌を、淡々と明らかにした。
度肝を抜くアイデアを実行してしまう伊達男には、もはや神々ですら開いた口が塞がらない。
しかしガイウスが「イエスの降臨」を真似て登場したからには、何かしら思案した結果だろう。
かつて彼は、キリスト教より古くから存在し、同じ聖書を経典とする「一神教のユダヤ教徒」と、「多神教のギリシャ人」の対立に翻弄され、なんとか解決した。
ヴィアンキ一族の中には、ギリシャ人にルーツを持つ者もいる。
現在は敬虔なカトリックでも、昔は俺たち古代の神々を、信じていたかもしれない。
何はともあれガイウスの協力は有難い、4代目皇帝の力を借りる事にした。
だが状態が状態なだけに、再びドクター直人をコールして、万一に備えた。
ヴィアンキ一族の彷徨える魂らは、イエスの降臨だと、今のところ疑わない。出来るだけ、思い込んで欲しい。
「生前、主の命とはいえ、神々を超える力を欲してしまった…ウウッ…」
「我々の神から、許しを受けるべきだ。それは古代の神々ではない」
左手奥、茂みの向こうはヴィーナス洞窟だ。
内部に潜んでいた職人たちも、感極まったのだろう、嗚咽まで聞こえてくる。
その一方、クロノスとウェスタ父娘の気配は感じない。
息子同然に可愛がっているガイウスが、手術中に肉体を離れ、そのまま昇天するかもしれないリスクをはらむ事態にも、動きを見せない。
彼らに寄り添いつつ事態を見守る、本陣からの指示を待っている合図だな。
「イエスの降臨」、この機会を利用して彼らを癒し浄化する…最初で最後のチャンスは、慎重に進めたい。
「アレス…彼らは救い主を、一目見よう。自ら造って立て籠った、強固なバリゲーから出てきたのね。頑固だけど、敬虔なカトリックだなあ」
「彼らには、すまないが。今しばらく、そう思い込んで欲しいな」
麓のホテル・バリー二で待機していた彼はケンイチの連絡を受け、直人を乗せ自らウェルキャブのハンドルを握り、猛スピードで、丘を疾駆してきた。
紳士プルートは持参したコーヒーを、丁寧に注いでいる。
彼の左肩には金色の鷲が、ちょこんと留まっている。芳ばしい香りが分かるのか、キョロキョロ顔を動かしている。
俺も釣られて、香りを吸い込んでしまう。
同時にコーヒーから、ふわふわ湯気が立ち込めている。
視覚と嗅覚からも、緊張は解れるな。
洞窟と教会に待機してる仲間達に、後ほど振る舞おう。
涼と早苗、二人のムネメから各々、白いカップを受け取る、皆すぐに口をつけた。
魂の状態である四人は、洞窟と教会に立て籠るメンバーから、なんと締め出しを食らった。
まして二人のムネメは、最終的に彼らを庇護した家長だし、涼と早苗も仲間だ。
現在は子孫の行方すら分からない、もはや彼らは家族同然だろう。
ところが生き残ったバリー二家に、協力を求め昇天を望む仲間は、信用できない。
彼らはここでも、頑固なバリケードを張った。
「甘くて温かいコーヒーは身に染みる、格別に旨いなあ。一生、忘れらない味になりそうだ」
ムードメーカのエロスは、ふと思い付いたように、鷲の鋭い嘴へカップを近づける。
鷲はコーヒーの中に、チョンチョンと嘴を突くから、強面の外見とは裏腹に可愛い。
動物の些細な仕草に、こぼれるような笑みを浮かべたのは、二人のムネメだ。
先程二人は、プルートに謝罪した。
「父と叔父に代わり、謝ります。芸術的な価値のある洞窟を勝手に改造、教会まで侵入し申し訳ありませんでした。
かつて私も、洞窟の改造に加担しました」
「叔母から、聞きました。洞窟と教会は一世を風靡したカストラート、シルバヌス・バリー二がデザインした、貴重な作品だったのですね」
叔母と姪は、現在のバリー二家当主へ詫びた。
「両家はガイウスが四代目ローマ皇帝であった時代も、既に商人として生業を立てていた。共に膨大な時間のうねりに、巻き込まれた。
存続できたのは、たまたま当家だった。
だからヴィアンキ家の最後を見送るのは僕らの勤め、作品よりも大事でしょう」
プルートは洞窟や教会は修繕すれば良いと、意に介さない。むしろ当主の遺言に翻弄され、才能を発揮できなかった二人の芸術家、画家とピアニストを慰めた。
彼女達の作品なり録音は、悲しいかな…ほぼ残ってない。それだけ、注目を浴びなかった。
プルートが執事のヨナスと共に、当時を調べていた。
なんでも家長であったヴィントレット・ヴィアンキ、カルロ枢機卿の亡きあと、出回ったスキャンダルも影響した。
兄は敬虔なカトリック信者を装い、弟はバチカンの枢機卿まで出世した。
だが実際は聖遺物を探し回り、挙句の果て高額で売っていた…。
尾ひれを付けた噂が、二人の繊細な感覚を、蕾のまま枯らしてしまった。
まあ彼女達も「遺言」を実現するために、活動していたのは事実だ。作品が残らなかったのは、致し方ない。
おっと、暗闇に戻ってはいかん。
直人の言葉を借りれば、「医学的にハイリスクな状態のガイウス」が、後光を放っているのだからな。
オペ室のライトでも、彷徨える魂らは「聖なる光」と感じている。
願わくば正体が明らかになっても、彼らが「聖なる光」だと受け止めたまま、浄化して癒したい。
同じく魂の状態であるガイウスも、生まれ変わる前に病気を治療し、同時に過去、自分の命や失脚を狙った人物の生涯を早めた、謝罪の祈りを捧げたいと望んでいる。
伊達男は繊細で真面目だ、心身を整えてから次の世界へ進むつもりだ。素顔を知る俺たち神々は、彼が生まれ変わるまで、見守るつもりだ。
そうだコーヒーブレイクの間に、ガイウスについて気がかりな件を確かめておこう。
「直人、全身麻酔中は、深いところで意識や感覚器は、動いているのか?
側から見ると、眠っているな?」
先ほどガイウスは「手術室の音」を聞いている、これが刺激になって、一時的な誘惑、簡単な道を選び昇天はしない。
自らの状況を手短に、エロスへ説明していた。
手術室の音を聞いているとは、体の機能はどうなっているのだろう?
俺は麻酔や手術の経験、直人の専門である消化管の内視鏡検査すら受けてない、なおさらイメージが沸かない。
この疑問について手術経験者のケンイチも、「自分の場合は、寝て起きたら手術は終わっていた。彼の状態も、分からない」と首を傾げた。
「外科手術や僕の専門、内視鏡検査も、程度の差こそあれ、痛みや辛さを伴うでしょう?
麻酔は、これらを押さえる役目を果たすね」
直人は基本的な内容から、分かりやすく切り出してくれた。
「全身麻酔がかかると鎮静・鎮痛・筋弛緩…3つの状態が重なって、効果を発揮するんだよ」
ガイウスも受けているだろう全身麻酔は、静脈麻酔と吸入麻酔から行われる。
鎮静と鎮痛、筋弛緩を起こす、三種類の薬を組み合わせて、麻酔科医師が適切な状態に調整しているそうだ。
血圧や心電図、脳波などを計測するモニター類が示す表示や値も参考になる。
鎮静薬の作用で意識は消失するので、手術中の記憶はなくなる。鎮痛薬は、手術時の痛みを軽減する。
筋弛緩薬は、人工呼吸器の装着をスムーズにして、手術に不要な動きを予防する。
それぞれ薬剤がバランスよく保たれているから、適切な麻酔の状態が維持できる。外科医と同じく、相当経験が必要らしい。
だから患者さんが刺激を感じてしまうような、危険の回避が行える。
「もう少し突っ込むと、麻酔薬は脳の一部に作用して、痛みや刺激を感じない状態を作り出すんだよ」
だから手術中の不要な感覚や記憶は、麻酔を通して脳がキャッチしない、こんな仕組みだ。
なるほど俺たちが用いる「新再生ネクタル」の効果と、似ている部分があるな。
だから直人は、突っ込んで話してくれた。
数時間前の短期記憶と、昔の長期記憶の中でも、例えば痛みを伴うような…その人にとって不要な記憶を「ネクタルに込めた魔術」で、消す事ができるからだ。
「なぜ全身麻酔下のガイウスは、好きなピアノ曲や、一太の般若心経が聞こえているのか?
それはね、ごく稀なんだけど、深い麻酔が掛かっていても、聴覚だけは感じているケースがあるんだよ」
直人はスマホから聴覚に関係する画像を出して、さらに紐解いてくれた。
現れたのは耳の奥にある内耳で、蝸牛と呼ばれる部位だ。カタツムリの殻のように、ぐるっと丸い形をした蝸牛は、振動として音を感じる。
それが蝸牛神経に伝わり、更に脳へ届いて、音を感じる仕組みだ。
もちろん神々も、同じ機能を持つ。
「この蝸牛神経が、麻酔薬と拮抗しやすい傾向があって。ごく稀に手術中、周囲の声や物音が、蝸牛神経に伝わり、脳へ届く場合がある。
音を感じているガイウスも、多分この状態だね。
だからオペ中に好きなピアノ曲や、一太が唱える般若心経が、聴こえているのだろうな」
なるほど、直人の説明で腑に落ちた。
さらに手術前は、内視鏡を始め検査を受けた。麻酔によって眠っている間に検査は終了しただろう。しかしガイウスのことだ、術前から視覚や聴覚をフル回転していたに違いない。
生まれて初めて、点滴ラインの挿入は、食い入るように、見つめてしまったかもしれない。
手術室に入ってからは、麻酔で眠る前に、眩しいライトを眺めたり、珍しい医療機器を始め、周囲をくまなく見渡しただろう。
ひょっとしたら手術中の物音、スタッフの声も届いていたのかもしれない。
タイミングは分からないが、彼が「イエスの降臨を真似ようか?」アイデアを閃いても、おかしくない。
度肝を抜くような演出は、生前からお手の物だった。ガレー船を横に並べて船の道を造り、その上をアレキサンダー大王に扮して、二頭立ての戦車で渡ったりね。
「ヘルメスやヘパイストスは、俺達の様子は伝えてないはずだ。逆にこちらの状態を、勘づいたのかもしれない。彼は仲間の些細な言動や変化を、見逃さないよ」
エロスは先ほど上空へ飛んだ際、「イエスの降臨」を装うから、詳細までは聞けなかった。
何でもイエスに寄り添ってきた「大天使役」を、インパクトをつけるために、チラリと演じたそうだ。その効果もあったのか?彼は未だに本当の降臨だと思い込んでいる。
とにかく背景が掴めたのでホットした、エロスは珍しく「安堵の涙」を流した。
「親父、いよいよ事態は終結するぞ」
俺はプルートの右肩に留まる、金色の鷲に話しかけた。返事の代わりだろう、大きな茶色の瞳が、くるっと動いた。
ガイウスの登場を知った親父ゼウスは、安静状態がベターなのに、もはや我慢の限界だった。
閉所恐怖症の発作は治まった、過去ガウイスは自分と同化したくらいだ、片割れが不在では力不足だ、プルートと直人に直談判した。
かつ、ガイウスを真似て「変身する」、迷惑を掛けない形で協力する。
付き添ってくれた凛ちゃんを味方につけ、二人で膝まづき十字架を切って「神に誓った」そうだ。
「多くの民族をおさめたローマ帝国と、国を守った神々は同化していた、共に「寛大」という事で許してくれ…」
俺は世話をかけるプルートと直人に、親父に代わり頭を下げたさ。
バサバサッ…。
金色の鷲は大きな翼を広げ、上空へ飛び立った。
古代ローマの最高神ゼウスは、広大な帝国を見渡すように、上空で伸び伸び弧を描いた。
翼を休めた先は、もちろん4代皇帝ガイウス・カエサルの左肩だ。
俺たちはそれを合図に、動き出した。
お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました
写真 文 Akito
参考図書ほか
新潮社
塩野 七生 著
ローマ人の物語 Ⅶ
日本臨床麻酔学会誌 Vol.35 No.1,1~14,2015
麻酔中の意識と記憶
https://knowledge.nurse-senka.jp