「女神ヘラも、誕生からウン万年だろうか?
初めてのファッション・モデルは、興奮していた。私が試すはずだったネクタルを、つい飲んでしまった。だから、過換気発作を起こしてしまった」
 
「パオラ・バリー二も突然の事で、彼女の方が過換気を起こす以上に、慌ててしまった」
 
アテナとへパイストスは半分にしたスイーツ、カスタードクリームの甘い罠が仕掛けてある「パスティチョット」を、同時に頬張った。

ラグビーボールを縦に割った様な形のスイーツを、さらに半分ずつした。
そのくらいの糖分が、「脳」に必要だろう。

それでも俺は、衝撃的な事実を前に、スイーツを口にする時間すら惜しい。

「木曜日のミラー会議に、急遽出席した、ヘラとゼウスが、不審な女性が運んでいたネクタルは、ビアンキ家の誰かに渡り、調合された物だろうと
疑っていましたよね…」

「私たちも…いいえ皆、そう受け止めたていましたが、勘違いだったのですか?」

俺と亜子は、矢継ぎ早にたずねた。
会議に参加していた、へパイストスだけは事実を知っていたのだな。


「ネクタルは盗まれていない、無事だ。
ヘパイストスとゼウスが厳重な魔術を施した醸造所は、未だかって盗難被害はない」

正義を重んじる女神アテナは、アーリィへ記録を確かめて貰ったそうだから、自信満々だ。
 
しかしね。
予期せぬ事態の展開に、俺たちは手土産を片手に、呆然としてしまったさ。

オレキエッテと同じ地域、ご当地スイーツは珍しい、それ以上の稀有な事態だ。

 
遡ること、2時間前だ。

羽田京子さんとサヨウナラを済ませた俺と中沢さんは、涙をフキフキ、それでも頭を切り替えつつ、急いで帰院した。
 
既に女神アテナと火の神へパイストスは、来院していた。

「倫太郎どの、忙しいところ恩にきる。患者さま情報用紙へ記入した通り、やけどの原因は神酒ネクタルだ」

 女神アテナは、正直に告げた。

「金曜日の午後、受傷してしまった。
場所はもちろんティボリ、ヴィラ・アドリアーナ。他の者が出入りしない、奥まった場所で起きたのです」
 
診察室で待機していた知恵の女神アテナと火の神ヘパイストスは、俺と顔を合すなり、真っ先に告げた。

やはり二人は「仕方のない嘘」、事情を抱え、こっそりネクタルを作っていた。

それを察していたベテラン主任は、二人が来院した直後、まずやけどの原因に関係する事柄を中心に伝えてくれれば良いと、落ち着かせた。
 
かつこれは、亜子を呼ぶべきだと判断し、彼女に連絡を取っていた。
 
主任のお陰で、女神アテナの熱傷治療は、スムーズに開始した。

やけどは左手背と手首から、前腕部だった。
 
普段は凛々しい戦士のアテナも久しぶりの火傷と、抱える事情が重なり、眠れず辛かったと、正直に明かし苦笑いした。
 
俺も女神の様子は、目を見張った。

そりゃあそうだ、水曜日に茅ヶ崎海岸で黄泉の国へ行きかけた俺達を助けた姿は、「戦士」だったからね。亜子がいたら、同じように驚くだろうなあ。
 
さて女神を悩ませた、「薬剤性の火傷」治療に取り掛かろう。

主任が女神の左腕を、処置台に乗せてくれた。

幸い市民病院へ受診するほど、重度ではなかったから、事務の荒川さんは定時で帰宅できた。
 
女神アテナの左手背と手首は、かなりヒリヒリした痛みがあるだけに、強い発赤だ。

前腕部分は縦4センチ弱、横2センチ程度の水疱が出現していた。
 
「発赤部分は、日常生活で起こりやすい火傷ですね。人間の生活では、沸騰したお湯の蒸気にうっかりかざしてしまったとか、日焼けなども当てはまります」
 
三段階に分れる火傷の中で、「Ⅰに該当する」けれど。
例え皮膚の表面、表皮に留まる火傷でも、女神も痛がるほどだ、火傷はつらいよね。

主任はパソコン画面に「表皮・真皮・皮下組織」に別れる皮膚の作り、このイラストを出してくれた。
やけどの状態が分かりやすいだろうから、これを使い説明する。
 
「ネクタルと薬草をいれた鍋から、ブワッと炎と煙が出て、同時に取っ手を離した。そうでなければ、この図のにあるよう、重度のやけどを起こしたかもしれない」

 アテナも、しかめっつらをするのだなあ。

「発端は、私が魔術を仕込んだ炎を用いて、ネクタルと薬草を加熱をした。皆の前で試験的に、雑巾を燃やした以上に、数秒で燃え上がってしまった。やはり神酒はディオニュソスでなければ、扱いが難しい」
 
アテナとヘパイストスは受傷時の状況を話しつつ、患部と画面を見比べている。

太古から生きるものの、ネクタルの扱いは酒神が行ってきた。
すぐさま燃え上がったネクタルを前に、コントロールが難しいと、痛感してしまった。
 
しかしねえ…ヘパイストスは酒神の「醸造所」に、侵入者を拒む魔術をゼウスと共に施した、神酒を守る役目を果たくらいだ。

 それでもコントロールが難しいネクタルは、意思あるかのように、動いてしまう。

ちなみにへパイストスが、木曜日のミラー会議で見せた雑巾は、アテナが火傷を起こす前日だったな。
 
「手首の上にある水疱の中は、薄い赤からピンク色に近い状態ですね。
やけどは表皮の下、真皮に留まっていますから、浅いやけどになりますね。感染に注意を払いつつ、2週間弱で治りますよ」

 水疱部分はII度の火傷で、浅達性で済んでよかった。感染を抑えれば、回復も早い。

「私は、不幸中の幸いだったな」

「アテナの綺麗な肌が、早々に取り戻せる。原因を作ってしまった私も、ほっとした」
 
いやはや、危なかったなあ…。
俺は仲睦まじい二人を前に、務めて平静を世装うけれど、ここまで内心ハラハラしていた。

「魔術を掛けた炎による、薬草と神酒の熱傷」なんて、医師になり始めて遭遇したからね。
 
冗談だけど、熱傷学会で発表したら、前代未聞だろうなあ…。
 
さて、火傷の治療をしてしまおう。
まずは抗生物質の軟膏を、発赤部分に塗る。

炎症も回避できるし、ヒリヒリした痛みも治まる事を伝えた。

次は、水疱部分だ。
ここはワセリンが付いた、被覆材を貼る。

水疱の中にある液体「浸出液」は、やけど部分を治す成分も含まれる。だから被覆材を使い、浸出液を有効に利用する。
 
最近の被覆材はバージョンアップしている、不要な浸出液は吸収してくれる、簡易で便利よ。

ワセリンが付いているタイプなので、皮膚が潤うし、はがす際にもくっつかない。

 
「これでやけどの治療は終了です、簡単でしょう?次の受診日まで、一日一回の交換をお願いします」
 
やけどの治療と説明を、早々に終えた。
 
「倫太郎どの、主任。お騒がせして申し訳なかった」

「これから事情を、詳しく話します」
 
アテナとヘパイストスは、表情も柔らかくなり、揃って頭を下げているがね。

火傷の治療が短時間で済んだので、ヘパイストスが電動車椅子に乗ったままの状態も、気になってしまった。

椅子に座らないのは、左股関節に負担がかかるのだろう。
おそらく、左股関節の臼蓋形成不全は、痛みが強く、杖歩行がシンドイに違いない。
 
秘密裡にアテナと「実験」を試みる一方、ガレノスとクロノス、そしてアレスと共に「再生ネクタル」作りをトライしていたからなあ。

更に拠点をヴィラ・アドリアーナから、ローマへ移す引越し作業も負担だったろう。

痛み止めを飲み忘れた回数が、多かったかもしれないな。
 
「ヘパイストス、もしや左股関節の痛みが増していませんか?新・再生ネクタル作りは、ローマへ戻りました。裏事情の説明は、後ほどミラーを通してでも、構いませんよ」

 本日は、ここで終了にして。
週明けに、市民病院の整形外科を受診をした方が良いのではないか?

前回、股関節のレントゲンを撮ってから約1か月だ、その時は4点杖で歩行できていた、それが車椅子だものね。

「私の股関節まで心配して頂き、ありがとう。こちらは後で、相談します。先にアテナの火傷にまつわるエピソードを、伝えます」

 「分かりました」

案の定、彼が素直に応じるくらいだ、日常生活にも支障が大きいのだな。

状態は後ほど確認できるようだから、良しとしよう。

ではいよいよ「仕方のない嘘」、この背景へ、話題は突入だ。

亜子も到着したので、タイミングもバッチリだった。

二人が持参した、手土産のパスティチョットとコーヒーで、ブレイクを挟みながら、ヘビーであろう話題をスタートした。

女神アテナは、のっけからバジル味のオレキエッテと同じ地方のお菓子だと、意味深い、前置きをしたくらいだった。
 
 
「この一件は、実は月曜日の昼間に遡ります。
まずヘラが、記憶が蘇るネクタルを、誤って飲んで、過換気発作を起こしてしまった。これは、アリアドネが調合したのです」
 
ヘパイストスはおもむろに、一連の事態について口を開いた。
 
「ええっ?ヘラの過換気発作に、アリアドネも関係していたのですか?」

「倫太郎、騙した様で申し訳ない。
事実なのだ」

アテナによると、ディオニュソスは慢性疲労症候群で自宅療養中だ、奥さんのアーリィが、代行したのだった。

それにしても、アーリィは水曜日に、我が家へやってきた際は、打ち明けなかった。

こりゃあ、質問も山ほど浮かんでくる。

「ヘラの主治医、直人先生を始め、皆が訝しく感じた、妙なネクタルをヘラが飲んでしまったのは、アクシデントだったのですね」
 
「亜子、間違いない。信じてくれ」

女神はきっぱり告げると、パスティチョットを半分に割った。クッキー生地にカスタードクリームを入れて焼いただけに、ゴクッと唾液が出るほど、美味しそうだ。

これを、ヘパイストスと食べ始める。
込み入った打ち明け話しのようだから、脳へ糖分の補給は必要だ。

それでも俺達は、予期せぬ衝撃の事実に仰天して、珍しいスイーツか、もしくわ珈琲カップを手にしたまま、呆然としてしまった。

スイーツ好きの主任ですら、口にするのを忘れているよ。

ヘラの一件については、誰もがヴィアンキ家の末裔が、絡んでいると思い込んでいた。
ネクタル盗難疑惑まで、浮上したからな。

実は、そうではなかった。
神々がモデルを務めた、ケイ・バリー二の新作カタログ撮影で、アクシデントは起きた。
撮影場所は、フォロ・ロマーノ。
 
ヘラ曰く。
「ケイ・バリーニの、見かけない店員から渡されたネクタルを飲んだのよ。その後で、ここで起きた「昔の不審火」を思い出し、二日続けて過換気発作が出てしまった」

 ミラー会議でこう説明したから、ネクタル盗難疑惑が浮上したんだ。
しかしこれは、とんだ誤解だった。

アリアドネが「必要な記憶を呼び覚ますネクタル」を作成して、効果を発揮しなかったために起きた。

試作品を飲んだヘラは、直近の記憶に違いが生じる、想定外の効果が出てしまった。
 
「本来は、カエサル神殿でモデルの撮影中だった、私が被験者になり、飲むはずだった」
 
なるほどアテナが、試すはずだった。
ところがヘラは新作衣装に着替え、有頂天になっていた。
 
真紅色のドレスに身を包んだヘラは、オペラ椿姫のアリアを口ずさむほど上機嫌で、興奮していた。
「花咲く春の喜びに…」

椿姫のアリアを鼻歌で口ずさんだと、ミラー会議でも自ら話していた。

直人先生に「ヴィオレッタになりきった、ワタクシ」を見て欲しい、ここだけは真顔で伝えていたな…。

ヴィオレッタになりきったモデルのヘラは、この時点で、トレーにボトルを乗せて運んでいるパオラを店員と間違えて、声を掛けたようだ。

パオラはプルートの奥さん。現在ケイ・バリーニの店主だ。

ヘラは興奮を抑えるために、何か口にしておこうと考えた。
パオラのトレーからボトルを掴み、素早く「必要な記憶を呼び覚ます」ネクタルを飲んでしまったのだ。

しかしアテナが飲むはずだったネクタルは、残念ながら失敗作だった。

代わりにヘラが過換気発作を起こし、かつ記憶も変わってしまった。

パオラを見かけない店員だと、そのまま思い込んでしまった。

かつネクタルは、その店員に飲まされた。

厳重に管理された神酒だけに、盗まれた物だったね。

月曜日のこれが、事態の始まりだった。

そして亜子と俺が茅ヶ崎海岸で、涼と早苗に尾行されたのは、水曜日の夜だった。
 
どうやら二人が抱える「仕方のない嘘」は、俺が想像した以上に、広大の様だ。

バジル味のオレキエッテを作った訳も、どこかで明かされるだろう。

そしてアテナとヘパイストスが、ヴィラ・アドリアーナで、「必要な記憶を呼び覚ますネクタル」作りを、秘密裏に急いだ理由もね。



お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました
 
写真 文 Akito
 
引用楽譜
全音楽譜出版
オペラアリア集・ソプラノ用
ヴェルディ作オペラ「椿姫」より
「花から花へ」
一部引用

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