ティボリ ヴィラ・アドリアーナ。
カヌプスにある池から、フィレンツェ、ヴィーナス教会の様子を、注視するゼウスたち。
「プルート。バリー二一族を一人残らず、ヴィーナス洞窟の空間へ、永遠に閉じこめてやる。かつて我々が、そこで痛い目にあったようにな」
全身黒ずくめの服を着たヴィントレット・ビアンキは、ヘラの槍で彼のヘルメットを突いた。
寝ぼけたことを、言うとる。
ヴィアンキ兄弟は、プルート・バリー二と肩を並べる器ではないわ。
かつてそなたらは、古代ギリシア・ローマの神々を敬ったか?
キリスト教とて、お家繁栄のために利用したに過ぎないだろう。
しかし動ヴィントレッツトが動くたびに、全身から砂ぼこりが舞い上がる。申し訳ないが、心も体も「子汚い」の。
さぞかし、臭うだろう。
花粉症の倫太郎がいたら、ティッシュでこよりを作り、ギュウギュウ鼻に詰めるな。
「1オボロス銀貨を2枚やるから。兄弟揃って、ハデスの待つ冥界へ帰った方が良い。
まだ間に合う」
旧家の当主プルートは、右手で黄色ヘルメットを被りなおす。そして左手でつなぎのポケットから2枚の銀貨を取り出し、手の平へ乗せた。
エロスを彷彿とする優男は、茶色のつなぎ姿も、おそらくターバンを巻いてもサマになる。
愛用する香水「ケイ・バリー二」、オールド・ローズのふくよかな甘い香りが、教会内部に漂っているだろうなあ。
皆で揃って被る黄色ヘルメットは、緑色の漢字で「安全第一」とある。
だから優男に見合うよう、出来る限り「安全かつ美しく」をモットーに。
緊急事態を、解決せねばいかん。
ワシらはカヌプス、ギリシャ彫刻が並ぶ池に、フィレンツェにあるヴィーナス教会の様子を映している。
先程アキレスが撮影した映像が、侵入者のお陰で途切れた。
ヘルメスを交通事故に見せかけたり、全く厄介な輩だ。
しかし、ワシらは素早く動いた。
ハデスとヴォータンから、冥界とワルハラを抜け出し、結託した4人について情報を得た時点で、事前準備に取り掛かった。
ヴィントレットとヘラにより致命傷を負ったヘルメスが、市民病院へ搬送された翌日だ。
「彫刻どころか、落盤だらけのヴィーナス洞窟内部は、もはや左右のルートは入れまい。中央の空間は、お前達の墓場に丁度いい」
ヘラはしてやったりとばかり、ヴィントレットから槍を受け取り、これを撫でている。
しかしお前さんの槍は、戦場で魂を失う騎士に用いる、大切な道具だろ?
道具の使い方を、間違えるな。
「ヘラ、今ならまだワルハラへ戻れるではないか?よく考えた方がいい」
「シルバヌス・バリー二の遺宝なんだ。これ以上、傷つけるのはやめて欲しい」
ホテルの支配人アキレスと絵画修復士バルナバは、ヘラを説得にかかる。
プルート同様、侵入者の脅しは、紳士的な態度で対応する。相手を煽るだけだからな。
「親父、教会の上空を見てくれ」
戦いの神アレスは、池に映るシーンを指さす。
ローマにいる中継担当のナルキッソスは、我々が見やすいよう、二画面にしてくれる。
池はもはや、テレビと同じだ。
「よし、あとはネロの位置が定まればよいな」
アレスが指摘した教会の上空では、着々と作戦が進んでいる。
女神ウエスタと補佐のケンイチが、ペガサス・ネロの背中に乗っている。
ネロはヴィーナス教会の真上を旋回し、ホバリングするポジションを、確認中だ。
ダークスーツ姿のケンイチは、背後からウェスタの体を支えている。
二人は「ホワイト・ゴールド」のシルクスカーフで、しっかり結ばれている。
ホワイトゴールドは、姉さんの化身でもある炎の色だ。
炎と同色のスカーフは、勿論ネロの体に固定している。
「振り落とされないベルト」の代わりだ。
ワシすら出来ぬ事をやってしまう、補佐のケンイチが若干、羨ましいが。
こればかりは、仕方ない。
しかし…。
ワルキューレの二人とヴィアンキ兄弟が手を組むなど、世も末だ。
「見送るご家族は、三途の河を渡る船賃、6文銭を忘れちゃいかんなあ」
ヴィアンキらが渡るのは三途の川ではなかったが、倫太郎がこぼしそうなセリフが浮かんだ。
彼は緩和ケア医師、看取りが中心だ。
二人が冥界を脱出した経緯を聞いて、さぞ呆れただろう。
そうさ、ちゃんと川を渡っておれば、冥界から脱走は不可能だった。
渡し守のカローンが、アケローン川を渡る船賃は、古代ギリシアの通貨で、たったの1オボロス銀貨一枚だ。
それは、ドラクマの6分の1だ。
ユーロに変わり久しい、もはや換算できん値段、要はお手頃な価格だ。
ヴィアンキ兄弟が流行り病で亡くなったのは、1916年だったかな?
没落寸前だった旧家は、船賃すら棺に入れなかった。それどころでは、なかったのだな。
今からでも遅くない、プルートから渡賃をもらっておけば良いものをのう。
「しかしヘパイストスは、天才だねぇ。身にまとうと動けなくなる魔術シリーズを、遂にローマの守護神用、特別に作っちゃった」
ディオニュソスの関心する声で、我に返った。
彼も目の下に、クマがあるの。
至急でネクタルを大量に調合しただけに、さすがに疲れただろう。
いいや、彼だけでない。
鉄骨タランチュラ作戦に加わった神々の体力は、そろそろ限界だ。
全て終了したら、倫太郎たちの診察を受けた方がいい。同時にヘルメスの状態を見舞って、他にも大事な事が、控えているからのう。
心身を、整えておかねばならない。
「さっさとマニフィカトのマドンナを、天井から外してもらおうか」
ヴィントレットは声高に命令し、バルナバと二人の弟子を、強引に脚立へ登らせた。生前の傲慢な態度は、ちいとも変わっとらん。
「絵画に張り付いているメドゥーサのタペストリーは、扱いに注意してくれ。
例の魔力の他にも、カルロ枢機卿とロザの魂も含まれている。分かっているだろうが、二人を救出しろ」
ダンッ、ダン。
今度はヘラが、教会の床を槍で突いた。
全く、物騒だのう。
黄色ヘルメットの「安全第一」の緑文字は、目に入らぬ様だな。
「マリアが見守る教会と、妖艶な彫刻が彩るヴィーナス洞窟に、これ以上、触れないでくれ」
彼女の脅しに、プルートは乗らない。
しなやかに、左手を振る。
まるで女性の肌を、撫でるようだな。
「はっ、派手に、教会を傷をつけるつもりではない。お前たちの動きが、おっ遅いから、急かしただけだ」
「それは、本当かい?」
「信じてくれ」
おおっ。
ヘラはプルートの色っぽい仕草に、目を奪われたな。
ワルキューレは美しい白鳥に変身する、恋せよ乙女だ。個人差はあるが、惚れやすい性格だ。
さすが当代きってのカストラートが存在した、一族の末裔だけに、プルートは役者よのう。
「貴方そろそろ、祈りを捧げましょう。ネロはトンドの真上で、停止していますわ」
「スタンバイ・オッケーだな」
ヘラが汗ばんだ手で、ワシの左手をギュッと握った。
いいぞ、ネロは狙いを定めて、教会の上でホバリングしている。
ヴィントレットに急かされた職人らも、直径3メートルのトンド、この蔦模様の枠に手をかけている。天井との隙間を、広げる作業に掛かった。
「さて、魔術を送ろう」
ワシらは、一斉に立ち上がる。
魔術を送る方法は、池を通してワシらの感覚を、現地へ飛ばすような感じだ。女神ウエスタへ、サポートする。
「古代ギリシア・ローマの神々、そして歴代の皇帝たちよ、我らに力を与えたまえ」
最初にワシは、冒頭の呪文を唱える。
「タペストリーに含まれた赤いネクタルは、魔力を消滅するため、殉教の血となり果てた」
ここからは、陶酔しているディュオニュソスが中心に唱える。
「我がつくりたもう、ホワイト・ゴールドカラーのネクタルは神聖だ。女神ウエスタの化身、その炎は全てを…」
ディオニュソスは、呪文を続ける。
彼以外の者、ワシとヘラ、アレスとアフロディーテは「冒頭の呪文」を繰り返す。女神ウエスタが用いるホワイト・ゴールドネクタルへ、魔力を送る、付け足すのだ。
サラサラサラ…。
女神ウエスタが黄金のアンフォラから注ぐ、ホワイトゴールド色のネクタルが、天井からトンドへしたたり落ちる。
これは全て、メドゥーサのタペストリーへ、浸透する。
ホワイトゴールドのネクタルは、ディオニュソスが作った、極上の神酒だ。
女神ウエスタしか操ることの出来ない、特別なネクタルだ。だから姉さんの化身である炎と、同じ色なのだ。
「バリー二家を、巻き込んでしまうなんて。私は胸がチクチクします…心が苦しい」
古代ローマの守護神、女神ウエスタは。
バリー二家のピンチに、自ら乗り出した。
「ああっ。トンドの中から、炎が上がった」
ヴィントレットは、女神の化身である炎に気が付き怯んだ、その時だ。
「皆、目をつむって、床に伏せろ。
ヘカントケイル、今だ!
ヴィントレットを、捕らえろ!」
祭壇の影からクロノスが姿を現し、鋭い声でバリー二一族へ指示を出した。
皆一斉に床へ膝を突く。そしてヘルメットで顔を覆い、前傾姿勢を取る。
グワン…ゴゴーッ。
ヘカントケイルは突風とともに、嵐の如く登場した。
「うわあっ、やめてくれっ。俺は二度と、冥界へ戻らない」
ヴィントレットに、逃げ場はない。
巨人族ヘカントケイルの動きは、素早い。
50の頭と100の腕を持つだけに、ヴィントレットの体を、瞬きする間に捕らえてしまった。
50の頭は一斉に口を開けて、ホワイト・ゴールドの炎を、一部吸い込んだ。
「ヘラ。謹慎中であるはずの、お前とロザはワルハラを抜け出したな」
北欧の最高神にして魔術の神ヴォータンは、ヘカントケイルに続き現れた。
「ヴォ…ヴォータンさま誤解です。どうか、お許し下さい。私はヴィアンキ兄弟に、騙されたのです」
ヴォータンは裏切り者の命乞いなど、聞く耳を持たない。部下であるワルキューレのハンナから、槍を受け取った。
ホワイトゴールドカラーの矢じりは、当然、神酒が染み込ませてある。
「もう一度、言います。私とロザは、ヴィアンキ兄弟に騙された。
ハンナ、助けて頂戴。仲間でしょう?」
ヘラは恐怖に、顔が歪んでいる。
「安心しろ。タペストリーに閉じこめられたロザも、カルロ枢機卿の魂と共に、ホワイトゴールドの炎の中で、燃え尽きるだけだ。お前も、同じ運命を辿る」
ヒュン…。
ヴォータンは顔色一つ変えず、矢を放った。
「ああっ、ヴォータンさま…」
それは、ヘラの心臓を貫いた。
鎧を着た彼女の体は、のけぞった。
そのままヘカントケイルの、100の腕の中へ消えた。
「クロノス…そしてバリー二一族よ。部下が迷惑をかけた、許してくれ」
「いいや、お互いさまだ」
仕事を終えたヴォータンとクロノスは、握手を交わしている。
そしてヴォータンはハンナを連れ、何事もなかったかのように、引き上げた。
ヴォータンは愛馬のスレイプニールに、ハンナはペガサスに乗り、北欧へ戻ったのだ。
「こっ、古代ローマの神々よ。我らに力を…」
「ほっ、ホワイトネクタルよ、女神ウエスタに魔力を与えたまえ…」
おっ、おぞましい物を見てしまった。
呪文を唱えるワシらは、遠隔であるにも関わらず、ブルブル震えてしまった。
コルセットを巻いてなかったら、腰が抜けただろう。ギックリ腰が、再燃した。
北欧の最高神ヴォータンは、今後は更に仲良くせねばいかんの。
そしてハデスの兜を被り、姿を隠していたクロノスも、健康を維持して貰わないと困る。
親友ヴォータンの協力を、得られない。
かつ親父以外に、あのヘカントケイルを操れないのだ。昔は訳あって対立しただけに、和解したら絆は深まった。
ヘカントケイルは悠々と、その場を後にした。
外でクロノスを待ちつつ、上空から教会内部へ、ネクタルを注ぐ女神ウエスタとケンイチの様子を見守っているのだ。
かつ、ペガサスのネロがホバリングしている。
万が一、墜落しないよう、待機している。
「バリー二一族よ。もう目を開けて構わない」
クロノスは先ほどと打って変わり、温かい口調で、促した。一人一人の体を起こし、握手を交わしている。
「ああ…天井とトンドの隙間から、美しい炎が溢れているではありませんか…。とても消滅の炎には、見えません」
プルートがヘルメットを上げながら、驚愕とも感動ともつかない様子で、天井を見つめる。
「坊ちゃま、まるで香油のようですな。香水ケイ・バリー二と類似する、微かに豊潤、甘い香りでございますよ」
「とても邪念を含んだ魔力と、二人の魂が消滅する炎とは思えない。美しい炎だ」
アキレスとバルナバ、そして二人の職人も。
魔力と魂を含んだタペストリーが、永遠に消滅していく様を、眺めている。
クロノスは冥界の王ハデスから、姿を消せる兜を借りた。
そしてヴォータンらと共に、ヴィーナス教会へ馳せ参じた。
バリー二一族は、古代ローマの神々も視える。
実のところ、事前に示し合わせた。
倫太郎たちに、ライブ中継を行う前だ。
アキレスが配信を中断したのは、手筈通り。
さすがにヴィントレットとヘラが消える瞬間は、見せる物ではないからな。
バリーニ一族も、床に伏した。
ワシらも、後味が悪いのう。
「ああ、女神の炎が消える。
イエスの祈りを唱えて、ヴィアンキ家の最後を見届けよう」
「坊ちゃま、唱えましょう。
天にまします、我らの父よ…」
やがて5分もしないうちに、ホワイトゴールドの炎は消えた。
もちろんプルート達は炎が消えるまで、イエスの祈りを唱え続けた。
「プルート・バリー二、タペストリーは跡形もなく永遠に、消滅しました。
安心して下さい」
「貴女は、女神ウェスタ…」
やがて女神ウエスタはケンイチと共に、教会内部へ姿を現した。これは、前代未聞だ。
ピンク・ゴールドのチュニックと、頭から足先まで覆う長いベール姿に、プルート達も唖然としている。
美しい女神は、滅多に人間の前に現れない。
「皆、迷惑を掛けてすまん。この償いは、また改めて…」
クロノスは作戦も上手くいっただけだなく、一番可愛い娘を前に、満面の笑みを浮かべておる。
ワシには数十年に一度、見せる笑顔だな。
「いいえ、お気遣いは無用です。
腕の良い職人がおります、洞窟の修復は可能ですよ」
お辞儀をするプルートは、親父の申し出を、あっさり断った。
相変わらず、気持ちの良い男だのう。
「教会と洞窟を守って下さり、それだけでも感謝致しております。
我が一族は、長きに渡りローマを守る古代の神々も、崇拝してきました。
これは初代当主、イエス最後の弟子であったマリ…彼が秘密にした、遺言です。そうでなければ、我々子孫は、現代まで残りません」
「プルート。今回ばかりは、わたくし達の気持ちを受け取って下さい。ケンイチが、改めてローマの本家に伺います」
「女神ウェスタ、クロノス…それでは有り難く頂戴いたします」
プルートを筆頭に彼らは、揃って目を閉じ、お辞儀をした。
その間にクロノスと女神ウエスタ、そしてケンイチは静かに教会を去った。
ここでナルキッソスは、頃合いも良く、池に映した映像を消してくれた。
「ひとまず、終わったな」
「ええ、ご苦労さまでした」
ワシらは全員、全身の力が抜けたように、モザイク模様のタイルへ、座りこんでしまった。気丈に振る舞っていたヘラも、ぼーっとしている。
「俺たち神々だけの力で、成し遂げられたのではない。公彦へ、感謝の祈りを捧げなくてはならない」
「アレス、そうこなくっちゃ!」
「今頃エロスの背中に乗って、天国へ到着したわね。公彦と出会って人間を信頼し、愛するようになった…」
アフロディーテが、涙を拭う。
ワシとヘラは、アレスとアフロディーテの変化に、目をこすってしまった。
「二人は謹慎生活中に、随分変わりましたね」
「そのようだのう」
ディュオニュソスと共に祈りを捧げる二人は、憑き物が取れたように、清々しい顔をしていた。
公彦との別れは、悲しい。しかし魂は天国へ向かった、それで良かったのだ。
彼はガレノスのように、不死の道も選択できたのだ。ワシは何度も勧めたが、断っていた。
彼は紘一と同様、ヴィアンキ家の黒い歴史を知っていた。だからこそ魂の旅は、自然な流れに任せたいと望んでいた。
不要な魔力は、それを欲した者の念が、塊りを作った。その結果、あの4人も巻き込まれた。
だからこそ、ヴィアンキ兄弟とワルキューレの魂は魔力と共に、永遠に消滅した。
ワシらの親友、貝塚公彦よ。
天国で、魂の旅を楽しんでくれ。
お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました
写真 文 Akito
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杉全 美帆子
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