濃厚な俺の一日は、まだまだ終わらない。

自宅に戻ってから亜子と手分けして、神々と連絡を取るために、慎重に行動している。

「ナルキッソス、体調はいかがですか?」

我が家で一番大きな鏡は、洗面所だ。
彼の力を借りたので、ここでコミュニケーションをはかる。

これからローマのティボリに滞在する、ゼウスらを呼んでもらう。

「亜子。お陰さまで、帯状疱疹は治っているようだ。カサブタの跡が残っているだけ、今のところ神経痛はおさまっているよ」

「おっ、どれどれ?」

俺は直人さんの返信メールから、顔をあげる。

ナルキッソスは素早くシャツを捲り、右胸部の患部を見せた。

彼は寝室の姿見に、現れていた。

ベッドだけの部屋は、殺風景どころか、ローマの午後の日差しが燦々と降り注ぎ、気持ちの良い空間だ。モスグリーンのカーテンが、ゆったり風に揺れる。

ナルシストの彼にピッタリ、爽やかで美しい雰囲気だな。
センスのいい部屋だと、亜子が目を細める。

本棚や机は、いつ雪崩が起きてもおかしくない、俺の書斎とは、えらい違いだよ。
まっ、目の保養だな。

「患部は順調な、回復だね。処方薬は飲み切り中止で、オッケーだよ。ただ、帯状疱疹後神経痛は、注意して下さい」

俺は右手で、オッケーサインを出す。するとナルキッソスも、了解した合図だろう。
左口角をわずかに上げ微笑むと、白いシャツを下げた。

「俺も同席するよ」

「ええ、お願いします」

彼が余計な話題を避けるのは、妖精らの聞き耳を避けるためだ。

幸い皇帝ハドリアヌスの別荘は、ヘカントケイルの守りも堅固だ。
ゼウスと遠慮なく、会話は可能だ。

しかしそのためには、我が家もセージのオイルを焚いて、聞き耳を防ぐ工夫をした。

その香りの作用は、余計な物が寄り付かない、クリアーになると言うのかな?

とにかく聞き耳が大好きな妖精…「ワルちゃん」は好まない、良い香りなんだそう。

少しツンとする、草っぽいかおりだ。

正直、俺は「香り」なんぞ分からん。
前回受診時にナルキッソスが「ワルちゃんヨケ」に勧めてくれた。

それを亜子が、準備したんだ。




さてナルキッソスは、ヘンデル作曲「オペラ・セルセから・オンブラマイフ」、この曲へ意識を集中した。

彼に、似合うよなあ…。

「美しいすずかけの木よ、柔らかい葉よ。
嵐や南風も、俺の愛しい木陰を乱す事がないように…」ってね。

主人公のセルセ王が、こんな風に歌うんだ。
ナルキッソスに、置き換えてもいいくらいだ。

元祖ナルシストが愛する曲に、意識を集中して間もなくだ。

洗面台の鏡には、寝そべったギリシア風の彫刻が二体表れた。
その先に、緑色の細長い池が映る。

「別荘は、素敵な場所ね。でも夜は、ひっそりして寂しいだろうなあ」

優しい亜子は、謹慎中の二人を慮った。戦いの神アレスと、愛の女神アフロディーテだ。

「場所はハドリアヌス邸の別荘内にある、カノプスだよ」、ナルキッソスの高い声がした。

姿を見せないから、鏡を通して眺めているのだろうな。

「倫太郎、亜子ちゃん、紘一から聞いた。ヘルメスを助けてくれて、ありがとう」

「トラックのドライバーさんにも、お礼を伝えて下さいましね。ああ女神ウェスタが、何かお礼をするはずよ」

登場したゼウスとヘラは、声に張りが無い。

亜子と俺は、思わず顔を見合わせた。
二の句が継げない。

二人は、ぎこちない笑顔だしさ。
明らかに、憔悴している。

一週間前に、クロノスが迷走神経反射で意識消失した時から、さらにやつれている。

「ヘルメスについては、市民病院から連絡が無いんだ。止血処置の前は、全身の画像検査も実地しているんだ」

「治療に、時間が掛かっているようです」

ゼウス達の様子も気になるが、知りたいであろうヘルメスの情報を伝えた。

現在、18時を回った。
彼が市民病院に到着したのは、16時近くだ。

開腹手術で、肝臓損傷からの出血を止めているかもしれない。
例えアンギオ(血管造影)下で、コイルを挿入する止血術も、時間は掛かる。

ヘルメスを受け入れてくれた、大学の同期で友人の一太は、俺と同じ医局に所属した、もと消化器外科医だ。

肝膵胆道系のアンギオと治療、オペのスキルも確かだ。ここは連絡を、待つしかない。

「倫太郎、亜子ちゃん、しょげた顔をするな。ワシらは皆、元気だよ」

ゼウスは亜子と俺の気持ちを、見抜いたのだろう。心配させまいと、もう一度微笑んでみせる。

そんな姿は、胸が締め付けられるな。

「ここにいないメンバーは、いったんローマへ戻ったのよ。不在になると目立つ神々ね。妖精や他の神々も、怪しむわ」

続いて、ヘラが事態の説明を始めた。

「女神ウェスタと巫女、補佐のケンイチ。そしてクロノスとガレノス、工場を運営するヘパイストスよ。ネロも仕事があるし、ローマと行き来してくれるから、一旦戻ったわ」

ヘラによると、北欧の神ヴォータンと部下のワルキューレ・ハンナも一旦、ワルハラへ帰った。

灰色のアンフォラを入れ物ごと横取りした者を、魔力で探しているらしい。
嘘発見機械のように、それを隠している神々と物が「視える」そうだ。

ただあらかじめ準備が必要で、該当者の大枠を魔術に「入力」するらしい。

最初が外れてしまうと、横取りした者は、なかなか見つからないよなあ。


「ワシらもここで魔術を使って、消えた物の行方を探しているよ」

ゼウスたちは広い池を利用して、行方を追っていた。メドゥーサの頭や蛇と蜘蛛から、魔力が分散されていく、この様子を洗いざらい、池に映し出していた。

録画を再生するような、状態だ。

ただ儀式の途中で、何度も「鉄骨タランチュラ」が割れた。

それだけ、灰色のアンフォラに込められた魔力が、強力だった。

タランチュラの蓋に描かれたメドゥーサの髪の毛は、蜘蛛と蛇だ。

箱の内部も、多くの蜘蛛と蛇が描かれていただけに、全てに目を通すとなると、かなり時間がかかるなあ。

やや離れた位置では、アレスとアフロディーテが、ギリシア彫刻の並ぶ池ほとりを、覗き込んでいる。

まさにアンフォラと入れ物を、探している最中なのだと、ヘラが右手を向ける。

「ヘルメスは分散した魔力を、カノプスの池から冥界へ誘うつもりだったよぉ」

なるほど。
ディュオニュソスの説明から判断すると、魔力の「経由地」は、この池だったのだな。

「でも横取りした者が使った経由地は、判明しないのだよね?
フィレンツェにある、バリーニ家のヴィーナス洞窟か教会、この可能性はないかな?」

俺は、例の推理を切り出した。

昼間、谷川さんの自宅で、洞窟と教会の写真を拝見した。これは偶然では無いはずだ。

「倫太郎、その根拠は?」

さすが、戦いの神アレス。
相手の作戦が気になるのだね、即座に反応した。

「洞窟はアタシがモデルになった、春やヴィーナスの誕生、この彫刻があったわね」

隣に現れたアフロディーテと言い、二人はゼウスやヘラに比べて、活気がある。

名誉挽回のために張り切っているのね、亜子が呟く。彼女はアンフォラのお礼を言いながら、二人に手を振った。

笑顔で同じようにする二人は、比較的、元気そうなので安堵した。

「僕がフィレンツェ、バリーニ家が所有する洞窟と教会を怪しむ理由はね」

俺は、持論を展開する。

「横取りした魂は、元人間ではないか?
こう、考えたんだ」

それはズバリ、バリーニ家のライバル、ヴィアンキ家の最後の当主、ヴィントレットと三男のカルロ枢機卿ではないか?
亜子が、捕捉してくれた。

「ヴィントレットと、三男のカルロ枢機卿は、不老不死や、よみがえりをヴィーナス洞窟で試みた。どれも失敗に終わって、結局ヴィアンキ家は没落したそうじゃない」

彼らは聖書のエピソードを元に試みた。

「聖書にあるでしょう?イエスが、人々の病気を治した。
イエス自身も、復活したと綴ってある」

「でも、ヴィアンキの二人は、それらを果たせなかった。一族もさらに傾いて、最終的に滅んでしまったのですね」

「なるほど、未練を残したに違いないな」

腕を組むアレスが、こくっと首を振る。
もちろん神々は、かつてローマで栄華を誇ったヴィアンキ家は承知していた。

「直人さんによると。
彼らがトライした場所が、ヴィーナス洞窟の中央部分、小さな空間らしいのです」

「プルート・バリーニさんが、さっそくフィレンツェの分家に連絡して、洞窟と教会を確認してくれるそうだよ」

ヴィアンキ家の二人が魂の状態で、どんな手段を用いて、灰色のアンフォラと鉄骨タランチュラを誘き寄せたのか、まだ分からない。

「なるほど、場所と人物はありうるな。
ワシはヴィアンキ家を、はっきり覚えておるぞ。あの二人は生前、良い噂を聞かなんだ」

ゼウスは腰に手を当てて、記憶を辿るように空を見上げる。

「やっぱり、そうか。直人さんも同じ指摘をしていたよ。二人は、影が多かったようだね」

「横取りワルちゃんズ」は、あながち間違ってないかもしれない。

おっと、すみません。
仮にもカルロさんは、枢機卿だったな。

しかし事態が進展する、希望は出てきた。

ここで俺は、余計にゼウスが心配になった。
この中で一番、体力不足は彼だよ。

これまでの寄り道癖で、かなり不規則な生活を送っていたからね。高血圧のアレスの方が、まだ体力はある。

ゼウスの腰痛は、悪化してないだろうか?
トーガ姿はコルセットを巻いているか否か、分かりにくい。

内服薬は、持参しているだろうか?
想定外の長丁場になってしまったから、後で尋ねよう。

そうだ、ヘラも抗不安薬は飲んでいるかな?
この際だ、後で皆さんの心身状態を確認して、必要時は処方薬を出しても良いな。

「倫太郎。ヴィアンキ家の二人が、ワタクシたちの隙を付いた可能性は、ありますわね。元人間が魔力を欲するなんて、考えなかったもの」

ヘラが、口を尖らせる。

「分散された魔力ならば、もと人間でも扱いやすいかもしれない。ねえ、アレス?」

「うん、宗教は違うが。俺たちの情報を、掴んだわけだな」

「事実だとしたら。美しいアタシが彫刻された洞窟を、汚さないで欲しいわね。
ましてフィレンツェは、アタシとアレスが愛してやまない、ルネサンス芸術の中心よ」

神々と女神達は、揃って眉間を寄せた。

「倫太郎、ワシらがフィレンツェの現地に飛ぶのは、やはり目立つから危険だの…」

ゼウスが、口ごもる。
少しでも早く、事態を解決したいだろう。

しかし妖精やワルキューレに、目を付けられてしまったら。
事態が公になるのは、時間の問題だ。

「そうだねえ…。
バリーニさんの連絡を待つのも手だけど。灰色のアンフォラと、鉄骨タランチュラは、早々に冥界へ送りたいよね」

今度は俺と亜子が眉間に皺を寄せて、思案にくれた。


お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました

写真 文 Akito  

参考楽譜

全音楽出版社
イタリア歌曲集 中声用
ヘンデル作曲「樹木の陰で」
オペラ「セルセ」より

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