ヘルメスは小田原厚木道路でトラックのサイドに、右半身を激突した。
さきほどエコーで、確認したところ。
激突時の強打で肝臓損傷と出血、腹腔内出血を起こしていた。
血管造影か手術で止血が必要だ、当院では対応できない。
俺は付近の市民病院ERへ、受け入れの連絡をした。
「倫太郎、外側区域の損傷と出血なんだな」
通話の相手は大学の同期、救急救命医の山野一太だ。
唸るような低い声は頭の中で、立体的に所見を浮かべているサイン。そうすることで、およその全身状態が把握できる。
血液検査なら凝固系機能、肝機能データーはこの程度だろう…などね。
「そうS2、S3区域から数か所、出血している。他の臓器、官腔臓器は出血を認めない」
出血部位は、大まかにいうと肝臓左葉、左側に当たる。自分の体に置き換えると、やや左の横隔膜下付近にあたる。
「右半身を強打した可能性が高いのだな」
「うん、本人は事故前後の記憶はほとんどない、健忘が出ている」
ここで頭部の打撲も、示しておく。
「分かった、頭部も精査が必要だな。
肝臓の出血部位から、事故当時を想像すると。
トラックと衝突する直前、体を左へよじって防御した…。
それでも外側区域から、出血している。
トラックの角へ当たり、鈍的な外傷を受けた可能性があるな」
全面のドア付近や後部の角に、強い力で当たったかもしれない。
交通事故ではシートベルトの外力で、肝臓損傷を起こす場合がある。
ヘルメスの場合は、それが車体の角だったのではないか?こんな推測だ。
「登り車線の路肩に倒れていたから、車体の左側に、激突したかもしれないよ」
肝臓には門脈と肝動脈から血液が入り込む、血流に飛んだ臓器だ。鈍的な衝撃を受けると、出血を起こしやすい。
「レントゲンでは打撲した頭部を始め、骨折は認めない」
これは、不幸中の幸いだった。
しかし脳実質もCTなどの画像診断で、出血や梗塞の有無を確認が必要だ。
因みに右側頭部の裂傷はナートした、皮下出血部分は吸収されるだろう。
「倫太郎、了解した。イタリア人男性を大至急、搬送してくれ」
さすが熱血漢の一太、決断も早い。
「一太、ありがとう。情報提供書、送ります」
「一秒でも早く、メールしてくれ。
看護師さん、交通事故で腹腔内出血の外国人男性を受け入れるから、FAST(腹腔などに体液の貯留を確認するエコー)をベッドサイドへ準備して下さい。
アンギオ室(血管造影室)と、念のためオペ室も連絡して…」
ツーツー…。
俺の返事はうわの空、一太はスタッフへ速効指示を出しながら、通話を切った。
こちらも、にわかに慌ただしくなった。
俺はすぐに、市民病院のERへ宛てて情報提供書を仕上げ、送信する。
「きさらぎ訪問診療クリニックから、市民病院のERへ救急搬送をお願いします」
狭い診察室で待機していた事務の荒川さんは、ピッチを手にして速効で救急車を呼んでいる。
林主任は車に同行してくれるから、看護サマリーやら書類の準備を整えた。
伝令の神ヘルメスの「正体」は、この際だ、旅行中の外国人男性とした。
臥床するマットごと体重を測定したら、秤つきストレッチャーの表示は38歳と出た。
年齢は、これでいい。
茶髪だし、ゆったりしたパンツスタイルといい若く見えるからね。
キーパーソンは、公彦さんが引き受けてくれた。これにはヘルメスも大喜び、安堵したものの。
「ええっ?…」
ショックを受けた公彦さんは、電話口で絶句してしまった。
そのあと、神さまの交通事故は前代未聞だ、なぜ事故が起きたのだろう。
家族が被害を受けたかのように、意気消沈してしまったんだ。
俺は彼と神々の深い絆を、感じたね。
でも感慨に浸る、余裕はない。
「ヘルメス、何千年も生きてきて、救急医療は初めてだろう?
俺と祐樹の遊び友達だから視えるよ、そこは安心して。必ず君を、救ってくれるからね」
「うん…倫太郎の友達なら…信じるよ」
ヘルメスは強まる右腹部痛で、顔を歪めた。
頭が動かないように頸部へカラーを巻いているから、動きも制限される。
この右腹部痛の増強は、肝臓からの出血量と比例しているんだ。
出血性ショックもいつ起こるか分からない、一刻の猶予もない。
10分程度で、救急車は到着した。
救急隊員は手際よくヘルメスを移動し、林主任も乗り込んだ。
彼女が市民病院まで付き添い、ヘルメスの情報を口頭で伝えてくれる。
その間に、俺は隊員の一人へ病状を説明した。
「倫太郎先生、ここから市民病院は時間も掛かりません。安全に、ショックの可能性も踏まえ搬送します」
「お願いします。キーパ―ソンの貝塚公彦さんも、後から病院へ向かってくれます」
ほどなく救急車は、サイレンを鳴らしながら市民病院へ向かった。
「倫太郎先生、もしも該当するトラックや目撃情報が入ったら、連絡するね。警察も動いているから、事故の全貌は判明するよ。
アタシの家はここから遠くない、ヘルメスの状態が落ち着いたら、様子を見に行っても構わないかな?」
俺は長谷川さんから、「ケーリュケイオンの杖、翼の付いた帽子と靴」を受け取った。
神さまの大事な物だろうから、しかるべき場所へ保管して欲しいと、笑顔を添えた。
「彼の病状が分かり次第、連絡します。
ぜひ面会して下さい、故郷と離れて不安だと思います。
本当に、色々ありがとうございました」
デコトラドライバー長谷川真紀子さんは、ヘルメスの側を片時も離れずにいてくれた。
彼も左手で時折、彼女の手を握っていた。
実のところ彼は盗賊や詐欺の神様でもあるから、素顔を隠しがちだ。
「倫太郎、俺は冥界行き寸前だった…ありがたいな」
でも命の恩人、長谷川さんに心を開いた。
俺と中沢さんはデコトラ「傀道命」号を、見送った。その後、時間に遅れてしまった訪問診療へ急いだ。
道中、思いあぐねる。
「いつ、どこで、誰が、どんな目的で」、灰色のアンフォラを入れ物ごと横取りしたのか?
ゼウスたちがハドリアヌス帝の別荘で、消滅する儀式を行った後だろうか?
例の魔力を閉じこめた灰色のアンフォラは、「鉄骨タランチュラ」に封じたはずだ。
二重のバリゲードを張ったも同然なのに、入れ物ごと消えてしまった。
しかもヘルメスが冥界へ送り込む、途中だった。
彼は他の魂に取られた、探している途中にトラックと激突したと話していた。
となると相手は空間を瞬間移動して、日本まで逃げていたのだろうか?
どんな状況下で、「横取り」が可能だったのだろう。
強力な魔力は、鉄骨タランチュラの内側に描かれたメドゥーサの頭と、蛇や蜘蛛を伝わり、分散されたはずだ。
これは側副血行路の、応用だ。
血液の様な役目を果たす「特注ネクタル」が、分散した魔力を流すのだ。
となると、経由地があってもおかしくないな。
そこでトラブルが起こって、鉄骨タランチュラごと盗まれてしまった。
仮に冥界を肺、強力な魔力を含んだ特注ネクタルを、静脈血に置き換えて推理しよう。
全身を巡った静脈血は、右心房から右心室を経て肺に送りこまれるだろ。
ここで酸素を取り入れて炭酸ガスを出し、動脈血になる。
そうして左心房から左心室を通過し、再び全身を循環するんだけどさ…。
当たり前だけど、血液は循環している。
血流は、全身を繋げる。
そういえば今日は、偶然の繋がりが随分と重なったなあ。
「ああっー!」
俺は分散した魔力が、冥界に届くまでの経由地候補を閃いた。
途端に、背筋がゾクゾクしてきた。
そうだよ…。
今日はこれでもかというくらい、偶然の繋がりが重なった。そこから派生して、経由地を思いついた。
デコトラドライバーさんは水曜日の夜、幹線道路を飛んでいたヘルメスを助けた。俺は診療先で、フィレンツェ旅行の写真を拝見した。
その一部は、俺にとって縁のある場所だった。
イタリア旅行は、未経験にも関わらずだ。
以上から、俺は考えた。
鉄骨タランチュラを奪った魂は、何かに未練のある「元人間」ではないか?
それはフィレンツェ、例の場所へゆかりのある人間だとしたら?
神々や妖精出なくても、あの魔力を欲する者がいてもおかしくない。
元人間の魂が灰色のアンフォラを狙うなんて、ゼウスたちも範疇になかった。
「倫太郎先生。寄声を上げてどうしたんですか?ハンドル操作を誤ったら、それこそ交通事故ですよ」
中沢さんが、口を尖らせる。
「ごめん。ヘルメスの情報提供書に、打ち込み忘れた内容があったよ」
「先生がキーポイントを忘れるなんて、珍しいですね。仕事が済んだら、亜子さんの手料理が待っているでしょう?あと一息ですよ」
「さすがに疲れたね。多分、カレーとハンバーグだよ」
「相変わらずお子様メニューが、大好きですよねえ」
「幼心を忘れないから、神々の主治医になれたんだよ」
中沢さん。
労ってくれて、ありがとうね。
でも詳細は話せない、ごめんよ。
俺は診療バッグから、タブレットを取り出した。
一太へ宛てに、追加情報を打ち込む「振り」をした。
お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました
写真 文 Akito
参考図書
メディックメディア
病気が見える Vol.1消化器
河出書房新社
杉全 美帆子著
イラストで読む ギリシャ神話