ナルキッソスの診察を終えてから、およそ15分後。
俺は戸締りを済ませて、院外へ出た。
おっ、ナイスタイミングだ。
向かいの薬局から、ナルキッソスが出てきた。
白いビニール袋を、左手首にぶら下げている。
無事に処方薬を、受け取ってくれた。
処方箋を出せば何とかなるが、彼は日本のシステムは初めてだ。
混乱しないように、中沢さんが帰りがけ途中まで付き添ってくれた。
彼は俺に気が付いて、軽く右手を挙げた。
軽快な足取りで、道路を渡る。
「10日後の再診まで、きちんと休養する」
彼が目の前で立ち止まった。
細身のイケメンお兄ちゃんが、これからお仕事のようだな。
黒シャツとパンツ、赤茶色の髪の毛、そこにイケメンときた、帯状疱疹とは思えない。
「ええ、仕事は休んで下さい」
「うん、休養する。
週末、神々の安全対策会議も、出席しない。代わりに紘一へ書記を頼むがね…」
おやっ?
話題を繰り返すとは、どうしたのだろう。
彼は暗記が得意だ、腑に落ちない。
話題が尻切れトンボになったのは、どこかに潜む妖精の立ち聞きを、防ぐためだ。
「万が一、二次感染を考えると。書記の交代も頼んだ方がいいですね」
ひとまず、当たり障りのない返事をした。
「倫太郎、俺が言いたいのは…まさかアレは聞いてないのか?」
ナルキッソスは一瞬、目を見張った。
そして用心深く、周囲を見渡し小声で告げた。
体が動くたび女性並みに艶やかな、赤茶色の髪が街灯の灯りにきらめく。
アリニュソス・レッドシリーズはヘアケア用品も揃えているから、この効果だろうなあ。
「アレって、何ですか?」
俺は心当たりがないので、関係のない事柄まで浮かんでしまった。
だから、逆に聴き返した。
「うーん、どう言葉にすればいいか?」
彼も返事に困っている。
眉根を寄せた。
「分かった。もし再診までの間に、俺の魔力が必要になったら。自宅で一番、大きな鏡に向かって、俺の名前を呼んでくれ」
ナルキッソスは規定を破り、コーディネーターを通さず受診したお詫びだと告げた。
「えっ?ああ、はい…」
しかし「アレ」については明かさない。
おそらく週末の会議で対策を立てる、ヘパイストスの椅子に封じた、魔力の件ではないか?
しかし俺が困るような事態まで、発生するだろうか?
「ありがとうございます。
もしも危険が迫ったら鏡に向かって、貴方を呼べばいいのですね」
鏡は水面の代わり、彼のキーアイテムだ。美しい己を水面に映して、惚れてしまった。
それを使って自分を呼べとは、今一つ理解できない。
訝し気に思いつつ、好意は素直に受け取った。
「俺を呼ぶには、躊躇するな。
まして仕事以外で、他人のため動くのは百年に一度だ」
「貴重な、ヘルプっすね」
高飛車な物言いがおかしくて、吹き出しそうになった。
つい、祐樹の口癖を真似てしまった。
ナルキッソスなりの打ち解け、愛情表現なのだろう。
「では、一先ず10日後に会おう」
彼は微かに口角を上げ、クールに微笑んだ。
この笑顔も、貴重だろうなあ。
タイミングよく、タクシー・バタフライがクリニックの駐車場へ到着した。
鮮やかなブルー・ゴールドのアゲハ蝶が、ナルキッソスを迎えに来た。
「再診、お待ちしています。ガレノスへ忘れずに、診療情報提供書を渡して下さい。
ディオニュソスへ処方薬と併用できる帯状疱疹ネクタルを処方してもらうよう、書いておきましたから」
「美しい俺は特別な存在だ。早く治るだろう」
あら、目を見張っている。ダブルのフォローに期待が膨らみ、嬉しいのだな。元祖ナルシストは、なんだかんだ感情表現が豊かだ。
「早期の治癒を、期待します」
俺はタクシー・バタフライにまたがる、「貴公子ナルキッソス」を見送った。
フフフッ、バタフライの色もクールな彼に似合うよ。
「さて俺も、帰ろう」
紺色のマイカーへ乗り込む。
ブルー・バタフライに比べると、地味だな。
運転席に腰かけて一旦、気持ちを落ち着ける。
そしてデニムのポケットから、スマホを取り出しメールを開く。
よしよし…いいぞ。
亜子から新着メールは届いてない。
俺は夕方届いたメールを、再読する。
「クリニックが超勤になりそう、でも待ち合わせ時間には、駅周辺へ到着できる」
「了解。忙しくなってごめん」
亜子は勤務先のクリニックが超勤になったと、連絡を寄越した。
勤務終了後、俺の親父と息子に会う予定だ。
「倫太郎さんは、合流する?」
「診察をしながら、考える」
返信したものの。
はなっから親父と会うつもりはない。
亜子に甘えて、全てを任せてしまった。
せんだて文一爺さんを一時的に復活させた、それで再会は充分だよ。
中沢さんは時間になっても彼亜子が現れないもんで、残り番をかって出てくれた。
岸田主任と同じく、神話やスピ系が大好きだ。
せっかくの機会なので、そうしてもらった。
当初の予定は、エロスの抜糸だけだった。俺一人で神々の診察は、こなすつもりだった。
中沢さんに、嘘をついたつもりはない。先の見通しが立たないから、詳細を話せなかった。
まあ親父の往診を、きさらぎ訪問診療クリニックで受けるつもりはない。込み入った俺の家庭事情まで、持ち込みたくないよ。
「神々の診察は終了。バード・ハウスへ帰る、親父には会いたくない」
我ながら、わがまま全開の「帰りますメール」を、亜子に送信した。
彼女は自宅に、戻ってないだろうなあ。
普段なら、迎えに行く。
今夜ばかりは、先に帰らせてもらう。
36歳にもなって親父とのわだかまりを解消できない、粉薬も飲めないお子様よ。
分かっちゃいるけど、嫌なものはイヤッ!
ゼウスとクロノスは病気や例の椅子がきっかけで、自然な形で歩みよっている。でも俺の中では、蒸し返したくないの。
ボンッ。
エンジンのスタートボタンを押した。
俺が「往診できる」エリアに、まさか親父家族が住んでいたとはねえ。
偶然にしては、出来過ぎているよ。
その辺りも、亜子に確かめて貰う。他のドクターを探して、往診を頼めばいいじゃん。
「俺はしませんよーッ!
一切かかわらないもんねーっ!」
車内で、叫んでしまった。
逃げているだけかもしれない。
でもさあ…。
母親と俺から「逃げるようにして」、出て行ったのはだあれ?
「ナルちゃん」ほど、記憶力は無いけれど。
当時のブルーな思い出は、脳裏にこびりついている。
それはゴールド・ブルーじゃないの、ディープ・ブルーよ。女神ウエスタが落ち込んで放つ、炎の色と同じ。
まして母親の華枝は、俺の日記を保管しているからね。
…お父さんが、時々帰らなくなりました。今日も、お母さんと僕が蝉を取りに行った隙に、いなくなりました…
小学校時代の可愛い倫太郎ちゃんが綴った、どこかズレた内容の絵日記も残っている。
まあね。
今となれば、日記も笑い話しで済む。
亜子と俺だけでなく、母さんまで絵日記に涙を流しながら、お腹を抱えて爆笑したさ。
「まだファミレスにいます、もう少しかかりそう。おとうさん、倫太郎さんに会いたいって」
あらまっ、亜子から返信が来た。
正直、この後に及んで何が目的なのか分からない、いや理解したくない。
「そちらの家族に失礼だし、迷惑になる。会わないのは、せめてもの愛情だと伝えて」
俺は愛想のないメールを打ち、送信した。
ナルキッソスみたいにクールなセリフで、カッコよく決めたいもんだわ。
俺はいないものと思ってくれ…とかさ。
いいやそれは、まさに現実逃避だなあ。
「ハアッ…」
疲れていると、ユーモアも働かないねえ。
ため息をついてしまった。
アクセルを踏みバードハウス、我が家へ急いだ。
ヴォータンが鳥の巣状の結界を引いた以来、我が賃貸マンションは、呼び名を変えた。
「そうだ、明日の午後は休診だ。亜子にスイーツでも買って帰ろう」
彼女のクリニックは、まるまる一日休診日。
だから俺にとってはつらい問題を託して、甘えてしまった。
この時間、コンビニしか開いてない。
自宅付近の店で、彼女の好きなチーズケーキやアイスを買った。
俺のささやかな、愛情よ。
お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました
写真 文 Akito