倫太郎がナルキッソスの診察を始めた頃の、美月クリニック処置室。
「テッコッ タハンチュア〜
テッコッ タタンチュア〜」
「大樹、それは鉄骨タランチュラかな?」
大樹が鉄骨タランチュラと歌い、小さな手に掴む大きな蜘蛛は、ワシとヘラが土産に持ってきた物だ。
通販ペガハウスの「トロイの木馬・神話に登場する生き物」、この中に入っていた。
知育玩具はリアルに再現されていて、ワシは驚いてしまった。
多分、普通の蜘蛛では神話に登場するインパクトにかける。タランチュラに似せ、デフォルメしたのだな。
蜘蛛の全身は黒、黄色の横筋模様や丸模様が、体や足に入る。確かに工事中の鉄骨、つなぎ目のようにも見える。
しかし鉄骨タランチュラとは、ユニークだ。
なによりクリクリオメメの大樹は、可愛い。
痛みも悩みも、すっ飛んでしまいそうだ。
ワシの腰にブロックを注射打つ、父親裕樹の後をついて回っている。
今日は志乃さんが、ここに出勤だった。
保育園に大樹を迎えに行ったあと、もう一度、寄ってくれた。嬉しいのう。
「ゼーウスッ!」
「おっ、いいぞ」
鉄骨タランチュラを、ワシに貼り付けるつもりだな。小さな昆虫や動物は、体につく。
しかしゴム製品では無い、触り心地もタオルの様に優しい。子供が遊んでも、安心だ。
更に大きな動物の場合は、体に乗れる。
なかなか良く出来ていて、木馬から出すとサイズアップする。例えば、冥界の神ハデスの愛犬ケルベロスとかな…。
ちと怖いワンちゃんだが、そこはご愛嬌。
しかし神話を学ぶ意味は、深いぞ。
バチャッ!
ほらね。
大樹はワシのおでこに、蜘蛛を貼り付けた。
「うわあっ、鉄骨タランチュラに襲われた!」
ワシは寝そべったまま両手を上げて、降参ポーズをした。
決まった…完璧なリアクションだ。
大樹もニコニコ笑っとる。
「トリガーポイントへ神経ブロックを打つ前で、良かったっすね。今、勢いで腰をそらし過ぎたでしょ?戻したら、痛いっすよ。
大樹、謝りなさい」
「うわっ、やってしまった」
紺色のスクラブ姿の裕樹が、俺の顔を覗き込む。ワシの額から、鉄骨タランチュラを剥がしてくれた。
恐る恐る、そらした腰を元に戻す。
「本当だ、痛い」
ジワジワ痛い。
胃のシクシクも辛いが、ジワジワも嫌だの。
「ごめん…ナサイ」
しょんぼりする様子も、可愛いのう。
「大丈夫、大丈夫だよ」
「うん」
ワシは、すっかりお爺ちゃん気分だ。
大樹はベッドの右隣、顔の近くへ椅子を持ってきて腰かけた。
ヘラは直人の診察中だ、惜しいな。
ワシに子供が多いもんで、彼女は滅多に子供と遊ばない。
そんなヘラも、大樹は特別。
目尻が、下がりっぱなしだ。
神話の世界を知って欲しいと、土産もヘラが選んだ。好奇心旺盛に成長するよう、願っている。
「ブロック注射を、始めますよ」
「おおっ、宜しく」
ウホホッ、声が弾んでしまった。
注射が嫌いなワシのために、大樹は手を繋いでくれたからの。
滅多にできないから、甘えた。
おっと、浮かれてはいかん。
こうしていても頭を悩ませるのは、灰色のアンフォラに残った、魔力だ。
ハアッ…どないしよう?
「直人さんと、相談したんすけど。
マルチな才能を持つ、ヘパイストスも…」
裕樹が右腰に針を刺しながら、アイデアを出してくれる。
さすが器用だの。
彼らは、第六感に長けている。
椅子は消滅しても、魔力は残っているだろうと、察していた。
語尾を誤魔化したのは、万が一、妖精らが聞いているかもしれん。
「なるほど、意図は伝わった。タランチュラのように、足が多い方が良いの」
返事をしながら、魔力を消すイメージを膨らませる。
足が多い方が良い…ヴォータンやハンナだけでなく、キーとなる神が更に必要だ。
人数と人選は、厳選する。
その一人が製作者で、椅子に魔力をかけたヘパイストスだ。
裕樹と直人のアイデアは、鍛治の神である彼のマルチな器用さ、才能を活かせだったな。
「頂いた蜘蛛は8本足、タランチュラに似てますからね」
裕樹が左側からヒョイと顔を出し、快活な笑顔を見せる。今度は左の腰へ、注射をしてくれる。
8本足のタランチュラは、強固なイメージがあるな。
その強さイコール魔力を、どう解釈、利用するかで、今回のような事態が起こってしまう。
みな、もう少し歩み寄って欲しい。
土曜日、会議の続きがある。
果たして危険な魔力に対しての、安全対策案は出てくるだろうか?
「裕樹、ヒントをありがとう」
「僕らは神々の主治医です。医療以外でも、お役に立てば、嬉しいっすからね」
ありがたい言葉が、身に染みる。
涙が出そうになって、大樹の手を思わずぎゅっと握ってしまった。
「テッコッ タタンチュウラー」
「アハハッ…」
即興のイメージソングは、笑ってしまう。
無邪気な笑顔も、癒されるな。
あっ!
ワシは珍しく閃いた。
鉄骨タランチュラは、トロイの木馬から出てきたな。ペガハウスの商品は、この中に神話に出てくる「生き物」が詰まっている。
「トロイの木馬・神話に登場する生き物」だ。
これはギリシア神話でお馴染みトロイ戦争で、兵士が潜んでいた「トロイの木馬」を、アイデア商品にした。
実はギリシア連合軍が、トロイへの攻略を始めたきっかけには、遡るとワシやヘラ、アフロディーテも関係している。
「ここいらを、ちょっと参考にしてみる」
魔力を消去する、イメージが更に具体的に湧きそうだ。
「先行きが見えてきて、良かったっすね」
裕樹の返事と同時に、針が腰に刺さる感触が伝わる。
不思議と痛くないのは、ステロイドが入った注射液の影響か、大樹の手の温もりか。
ワシは良い意味で、気分が軽くなっていた。
お読み下さり
どうもありがとうございました
写真 文 Akito
参考図書
河出書房新社
杉全 美帆子 著
イラストで読む ギリシア神話