「羽沢です、お邪魔します」

どこをどう歩いたのか、全く覚えてない。

亜子が弾く「ジムノペディ」、ピアノの音を頼りに「サティの庭」へやってきた。

真っ先に、八角形の邸宅へ上がり込んだ。

ここは古代ギリシア・ローマの神々と女神が該当する惑星、イコール曜日ごとに部屋を割り当てられている、スーパー・パワースポットだ。

なんだか胸がドキドキする。

持ち主は、矢羽紘一さんと貝塚公彦さんだ。
彼らが邸宅を設計した。

玄関には写真で眺めた通り「シテール島の巡礼」、公彦さんの模写が飾ってある。

俺に画力はないが、絵画を鑑賞するのは好きだ。公彦さんは丁寧な仕事をしている、そして本物と見まごうほどの腕前を持つ。

それだけに否が応でも、今回の事態を振り返ってしまう。

この絵画には、右端にアフロディーテの像と、下にはエロスの弓が描かれているからな。母と息子の、結びつきが象徴されているようだがね。

母親へ協力したエロスは、本当に冥界へ行きかけた。生死の境を彷徨い、回復しているから良いものの。

それは俺の治療だけでなく、酒神ディオニュソスやガレノス、仲間の神々の協力があったからこそだ。

若干のわだかまり、胸の痛みを感じつつ、先へ進んだ。

左周りをしているから、最初の部屋は月曜日に該当する。
本来ならば、月の女神セレネの部屋だ。

しかしここだけは、例外だ。月曜日の部屋は立地条件により、南に位置する。

紘一さんと公彦さんの意向で、ローマの守護神、女神ウェスタの部屋に割り当てた。

ひとまず俺は女神ウェスタの部屋の前で頭を下げて、先へ進む。

命が助かったお礼、挨拶をしたい。古代ローマの神さまがいらっしゃる。

ドン、ドン。

「こんにちは、羽沢倫太郎です」

俺は「水曜日の部屋」、ドアをノックする。

ガチャッ。

直ぐにドアが開いた。

「Ciao!倫太郎、待ってたぜ!
俺のケーリュケイオンの杖は、魔力を発揮しただろ?」

商人の神ヘルメスが、登場した。

サイドに翼のついた帽子とブーツスタイル、気さくな言葉使いと言い、渋谷を歩く若者っぽいなあ。

どちらもヴィンテージ物のレザー素材だろうか?よく磨かれて、光っている。
確か独身だ、余計に若く見えるのかな?

「貴方の杖のお陰様で、命拾いしました。ありがとうこざいました」

ワルキューレのグレータ、彼女の襲撃に関しては、事態が収束したのでお礼を述べた。

同時に、一枚の絵画が脳裏に浮かぶ。

ボッティチェリが「春」、絵画の左隅にヘルメスを登場させている。ケーリュケイオンの杖で、灰色の雲を払っていたな。

「俺は、冥界の案内人も務める。今、倫太郎が想像した絵画では、黄泉の国を暗示している。お前はワルハラ行きを回避できて、良かったな」

そうだ一歩間違えれば、俺は今頃ヘルメスに導かれて、冥界へ旅立っていたかもしれない。

ヘルメスも人の心を、随分読めるのだな。
ディュオニュソスと気が合うようだから、似た部分を、持っているのだろう。

彼は盗賊や、詐欺の神でもある。
その逸話も多い。

「信頼」この気持ちを抱いた相手だけに、心を開いてくれるのかもしれない。

「ワルハラ行きは、俺の爺さんが、代行してくれました」

「イケてる爺さんだったな。きっと二人は上手くいく、安心しろ」

「期待します。
槍の襲撃は、二度とごめんですからね」

「不自然なカッコで逃げて、ギックリ腰になってないか?ゼウスのように、キツイぞ」

俺がマンションの駐車場で、腰を抜かしたシーンを眺めていたのだろう。
彼は冗談めかした。

冥界の案内役を担う神ヘルメスは、イメージを払拭するかのように笑顔が爽やかだった。

彼とガッチリ握手を交わして、別れた。

「そうだ。右となり火曜日の部屋は火星、戦いの神アレスが該当するな」

俺はドアの前で、立ち止まる。

ローマ郊外、ハドリアヌス帝の別荘で謹慎中だが声を掛けて良いものだろうか?

血圧チェックの経過を、確かめたい。
かつ、24時間ホルダー心電図は装着したのだろうか?

アレスの全身状態は、気がかりだ。
一週間前に血圧計と共に、心電計を送った。

心電計を送り返して来ないから、検査をしてない可能性が高い。

アレスは先日の健康診断て、高血圧とPVC(心室性期外収縮)の単発が判明した。

検査は一度きりなので、内服治療開始を判断すべく、詳細データーが欲しい。

その内容は、血圧は一日三回の測定。
さらに24時間ホルダー心電図をつけて、PVC(心室性期外収縮)の出現回数を確かめたい。

結果によっては降圧剤と抗不整脈薬の内服治療を、開始する必要がある。

健康診断時に、彼は強がってみせたが。
おそらく、先程俺が感じた胸の痛みとは異なる、重苦しいような、ギュッと胸が絞られるような、自覚症状が生じている。
それがPVCの、自覚症状だ。

やはり、顔を出して行こう。

ハドリアヌス帝の別荘は広大な敷地らしいが、運動不足や食事状況も気になる。

塩分の多い塩漬けの肉や魚を、過剰に摂取してないだろうか?
高血圧の原因の一つだ。

さらにアフロディーテの状態も気がかりだ。特に亜子が心配していた。

時間が経つにつれて、ヘパイストスの椅子の魔力に、誘惑されていたと気がつくだろう。

「やり過ぎてしまった」

その失敗で、謹慎生活となったからには。メンタルは、アンバランスになってやしないか?
亜子は気にかけている。

そうだな。
わざわざ彼女の部屋、金曜日に行くまでもない、アレスの部屋で彼女の様子も確かめられる。

やはり主治医として、彼に声を掛けるべきだ。

俺は火曜日の部屋、入り口のドアをノック仕掛けた。しかしすんでのところで、右手の動作が止まった。

「うわっ、この苦味はなんだ?」
突如、口腔内に異常が生じた。

経口摂取はしてない。
それなのに苦味や渋み、そこへモハッとするような、青臭い味が広がる。

「こりゃたまらんっ!」

八角形の邸宅、この中央部分へ駆け込んだ。
ここはキッチン、水回りが備えてある。

なんとも便利で、風変わりな設計だ。
古代の神々と女神が出入りする前提で、中央に配置した。

亜子が30年近く前の、モノクロ写真を見せてくれたお陰で、邸宅の間取りは記憶している。


キュッ…。

「うわっ、水道を止められてるぞ」
キッチンの蛇口を捻ったが、水が出ない。

クーッ。こんな時に限って、料金の払い忘れだろうか?

紘一さんは、ローマ在住だ。
しかし公彦さんと、ゆくゆく二人の奥さんになる庭師姉妹が、邸宅を管理しているはずだ。

「うわっ。口の粘膜が、焼けるようにヒリヒリしてきた」

とにかく口腔内へ水分を含みたい、うがいをして不快感を洗い流したい。

かつ症状の原因が分からないから、パニックに陥りそうだ。

蛇口を捻るが相変わらず、水は出ない。
この際、池の水でも構わない。

庭へ飛び出そうか?

諦めかけた途端、冷蔵庫の横に白色の陶器、アンフォラが目に止まった。

これは間違いなく「神々のクリアウォーター・アンフォラ」だ。通販ペガハウスのカタログで、見かけた。

水を浄化できるから最悪、池の水を入れても良いだろう。

「ああ、助かった…」
右手を伸ばし、アンフォラを引き寄せる。

ポンッ!
手早く、コルクの栓を開ける。

ゴクッ、ゴクッ。

グラスが見当たらないから、じかに口をつける。
中身は、普通の水だ。

ガラガラガラガラッ…。

うがいをする。

その勢いで、口を開けかけたが。
おかしい。
なぜ開口できないのだ?

両手を口の上下に当てて、無理矢理、開口してみる。
しかし意思とは反対に、口が押さえつけらるような、強い力がかかる。

「倫太郎さん、飲み込んで!」
「不味いだろうがぁ、頑張ってくれよぉ」
「胸部のレントゲン撮影をすべきか?」

どこからともなく、亜子とディオニュソス、ガレノスの声が響いた。俺は反射的に口腔内の水を、嚥下していた。

その途端、再び目の前が真っ暗になった。

あれっ…今のは夢か?
30何近く前に実在したスーパー・パワースポット八角形の邸宅は、古代ギリシア・ローマの女神を中心に絵画や彫刻を蒐集していたはずだ。

蒐集品が多かったうえ、庭師姉妹の蝶の標本も邸宅においていた。

ファンとすれば羨ましいような理由で、男性神々の作品は、ローマの紘一さん宅に保管していたはずなんだ。だから八角形の邸宅に、男性の神が登場するのは、腑に落ちない。

変な夢だと自覚した俺の体は、一体何が起こっているのだろう?


お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました

写真 文 Akito

参考図書 

河出書房新社
杉全 美帆子 著
イラストで読むギリシア神話