「私が初めてネクタルを飲んだのは、エロスとの結婚式だった。そこでようやく、不死の体になったのよ」
感慨に耽るプシュケの視線を、自分の手先に感じる。そのシーンは、ラファエロが描いてたな。
アフロディーテやアレス、ゼウスを始め、神々が揃い二人の結婚を祝福する。
左隅でプシュケがヘルメスから、ネクタルを受け取るシーンだ。
なぜヘルメスから、ネクタルの盃を渡されているのか?忘れなかったら、後で尋ねてみよう。
俺はそのネクタルと、奮闘する真っ最中だ。
ガーゼに吸収させた特注ネクタルを、エロスの翼、上腕骨の骨折部位に貼付している。
名付けて「ネクタル・ガーゼ」。
ネクタル・ガーゼを翼に貼付すると、白い羽はみるみる光沢を放つ赤褐色に染まる。
よしっ、骨折部位の吸収は良さそうだ。
しかしエロスの引き締まっていた背中は、筋肉が落ちて、肋骨が浮き出てしまったなあ。
まっ、回復するさ。
呼吸に合わせて上半身全体が上下に動き、胸が膨らむ様子に安堵する。
肺機能が、徐々に回復しているサインだ。
もちろん、その裏付けもある。
レントゲン上、右の肺上葉の炎症、陰影像は縮小傾向だ。
酸素飽和度は97パーセント以上を維持、酸素投与量も2L/minまで下げてきた。
「倫太郎。特注ネクタルは、全量を用いて構わないな?左右100MLずつ、ガーゼに浸した」
ガレノスは右の羽を軽く持ち上げ、介助をしてくれる。
大きな手と細長い指は、とても器用だった。
「ええ、抗生剤の量と合わせましたから。全量を試してみましょう」
骨折治療のために、固定していたテーピングは、全て剥がした。
良姿位は翼をたたんだ状態、固定を剥がすにしても、下手に動かせない。
器用なガレノスは細長い指を巧みに動かし、介助しくれたお陰で、テープの除去もスムーズに進んだ。
この状態でネクタル・ガーゼを貼付する。
特注ネクタルは光沢を放つ赤褐色で、とても美しい。これはディュオニュソスが作成したが、一見、薬剤に見えない。
それこそクレオパトラ専用の、お酒ではないかとみまごうほどだ。
特注ネクタルの内容は。
組織修復のセンコツ(川骨)、消炎鎮痛のセンキュウ、抹消循環改善のシナモン(桂皮)などに加え、牡蠣の殻と真珠を粉砕した。
かつそれぞれは、現在使用する抗生剤、一日の投与量に換算した。
200MLの原液ネクタルへ、薬草類を「魔術用のアンフォラ」で混ぜ合わせる。
内容物は、全て溶解できる。
薬液が赤褐色で煌めきを帯びているのは、真珠の粉末が含まれるからだ。
ディュオニュソスは七色に輝く翼の光沢を回復するために、真珠の粉末を用いた。
「クレオパトラは真珠を溶かして美容に摂取したと、逸話が残るけれど。実際、医学史上では眼薬に用いられたのよね」
「ああ、使うねぇ。今回、パールの煌めきは太陽光の変わりも担っているんだよぉ。あいにく夜だから、太陽は出てないものねぇ」
ネクタルを治療に用いる場合、厳守する事項がある。魔術をかけながら、生命の始まりである太陽光に当てるそうだ。
この「命の源・太陽光」は欠かせないが、夜間など特別な場合は、パールの輝きで代用する。
パールの粉砕を加えた上で、骨折の治癒が進み、翼が元の機能へ回復する魔術をかけた。神々の薬を調合するにも、手間が掛かる。
「よしっ、全量を吸収させました」
特注ネクタルを、有り難く使わせて貰った。
「後は確認のレントゲンを撮影すれば良いのだな?どの程度、時間を置くか?」
ガレノスの茶色の瞳が、パッと広がる。
効果を示す翼のレントゲン写真を、見たくてたまらない、期待感に満ち溢れているな。
「抗生剤を静脈投与する場合、平均1時間を掛けます。これを目安にしましょう」
治療の優先順位は変えても。
基本は変わらない。
「分かった。倫太郎の判断に任せる」
古代の名医そして元ローマ皇帝、神々の御典医ガレノスは即答した。
医学を研究し形態を残した人物に、信頼されるのは光栄だな。
「じゃあボクは。待ち時間の間に、酸素から吸入する薬液を作ってくるねぇ」
「お願いします」
ディュオニュソスと亜子が、そしてプシュケも立ち上がり、部屋を出て行った。
彼女も結婚式の思い出が甦り、特注ネクタルの作成を手伝い始めた。
エロスが回復したら、話してあげよう。愛妻の奮闘に、喜ぶ顔が目に浮かぶよ。
「ところで倫太郎、再度の確認だがね。
酸素を投与しながら、肺炎や菌血症状を治す特注ネクタルを吸入するのだな?」
さすがガレノスは、慎重だ。
「そうです。
気管支拡張剤の吸入と、同じ使い方ですね」
「分かった。先ほど説明を受けた通りだな」
経口摂取や静脈投与が、不可能ならば。
まさにピンポイントで、酸素から吸入すれば良いいではないかっ、答えを出した。
俺は閃きの天才かもしれない。
おっと、調子に乗ったらいかん。
当たり前の投与経路だ。まして効果が出なければ、万歳三唱どころではない。
そうだ、翼のレントゲンを撮影するまで一時間近くある、交代で休憩を取ろう。
「先に休んで下さい、僕が残ります。今夜は長丁場なので、体力が必要ですよ」
万が一、緊急の往診が入ったら、ガレノスがエロスの治療を続ける手筈だ。
休める時に、休んだ方が良い。まして彼は、現代の生活は慣れてないからな。
「ありがとう、そうさせて貰う」
ガレノスは休息の必要性を、分かっている。
直ぐに立ち上がった。
初めて試みる治療に際して、医療者側の心身が整っていなければならない。
患者さまの些細な変化を見落としたり、判断を間違える可能性をはらむからだ。
「神のお酒ネクタル」は治療薬に変化し、副作も起こり得る。
ドンドン。
「こんな時間に、どなたでしょうか?」
ベランダに面した窓が、何者かに叩かれた。
時刻は22時。
ヘラと共にローマへ戻ったゼウスが、トンボ帰りしたのだろうか?
「私が対応する」
ガレノスは、すぐさま窓際に近づく。
淡いパープルのトーガは優男の機敏な動作を、優雅に魅せるな。
彼が静かに、窓を開ける。甘い香りを放つ夜気が、部屋の中に漂い始める。
しかし心地よい空気は、一瞬で消えた。
「えっ、ゼウスの訪問ではないな」
俺はすっかり慌ててしまい、四つん這いのまま、ベランダに近づいていた。
そこには二頭のペガサスと、男女が二人。
「おおっガレノス。私の出番はまだか?」
魔女みたいなトンガリ帽子を被った、低い声の持ち主はどなた?
ガタイの良いガレノスの後ろから、コッソリ覗いてしまう。
そりゃそうだ。
彼の背後には、鎧兜姿のワルキューレが控えている。まさかエロスを急変させた、槍の名手だろうか?
「申し訳ない。治療に夢中で、すっかり忘れてしまった。万が一を考えて、ヴォータン殿に魔力を貸して欲しいと頼んだな、アハハハハッ」
「ハハッ、やはりそうか。
だから催促したんだ」
笑い事で済ませていいのか、もはや俺には判断できない。
ヴォータンは北欧の最高神、魔術と知恵の神だ。特注ネクタルの効果が発揮せず、さらに悪化した場合を考えてヘルプを頼んでくれた。
もちろん、クロノスとガレノスの配慮だ。
そして彼に仕える槍の名手ワルキューレは、実は愛情深い方だった。
ガレノスに依頼されたとは言え、自らの手でエロスを急変させてしまい、気を揉んでいたと打ち明けてくれた。
「はっ始めまして、羽沢です。ご協力、感謝いたします…」
大物の登場に、心の準備が出来てない。
しどろもどろに、挨拶をしてしまった。
やはり神々の皆さまは、どこかズレていらっしゃる。よそさまの最高神にヘルプを頼み、うっかり忘れるくらいだからな。
因みにヴォータンの魔力は、他の誰も叶わないそうだ。しかし病気に関して油断は禁物、やはり医療が優先だと、「ご本人」が仰った。
お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました
写真 文 Akito
参考図書
新泉社
槇 佐知子 著
病から古代を解く 大同類聚方探索