ローマ郊外 ティボリ 午前1時
ヴィッラ・アドリアーナ
(ハドリアヌス邸の別荘跡)

14代皇帝ハドリアヌスが、この別荘を自由に使って良いと勧めてくれた。

広い敷地は丘陵地にあって、見晴らしもいい。バカンスを過ごすには、もってこい。

「ロザ、この付近は夜も美しいわね」

赤ワインを注いだグラスに、口をつける。
少し渋みのある甘さは、多分ケンイチが好みそうだから選んだ。

ほろ酔いには、ちょうど良い。
夜景を眺めるのも素敵ね。

長方形の池には周囲の木々や、整然と並ぶポイキレ(ギリシア風の柱廊)が、水面に映る。夜は幻想的な庭園に、様変わりするのねえ。

「景色に見とれていると、アレスが到着してしまうわよ」

前を歩くロザは、景色に目もくれない。サッサとエクセドラ(半円状の建物)へ進む。

そうだ、景色に見惚れている暇はない。

「ケンイチは、椅子に座っているのね?」

息子のエロスが、直した椅子を寝室まで届けてくれた。アタシの注文通り、魔力を倍にしてね。

「ええ、既に動けないわ」

ケンイチは仲間のワルキューレがペガサスに乗せて、ここに連れてきた。 
全てが、順調に進んでいるわ。

スッ、スッ。

金色のローマンサンダルが、大理石の床を歩くたびに、軽やかな音を立てる。
まるでアタシの気持ち、そのものよ。

エクセドラ中央にある建物の中へ入り、一番奥の寝室へ向かう。

この辺りは皇帝たちのプライベート空間だっただけに、食事や飲み物まで揃っている。幾らでも、滞在できるわね。

フフフッ、時代は違うけれども。こんな具合に、毎晩宴が催されていたのね。

主人公のヴィオレッタは。ワタシの生き方と、どこか似ているかもしれない。




後でケンイチとワインで、乾杯するつもり。
二人の記念日ね。

正面に、寝室が見えてきた。流行る気持ちを抑えて、白いチュニックを整える。

金髪もおろした。
香水も、いつも以上にふったわ。

「どうぞ」
ロザは入り口に掛かる、カーテンを持ち上げてくれる。

「ありがと」

部屋の明かりは、月光だけが頼り。
手探りでテーブルに、ワイングラスを置く。

暗くしておいたから、目が慣れるまで時間がかかるわね。
窓際にある、椅子のシルエットだけがぼんやり見えるわ。

フフフッ…。

アレスの反応も気になるけれど。アタシは幾つかの野望を、同時に満たすのよ。

「女神ウエスタ、ごめんなさいね」

椅子に座って身動きの取れない、ケンイチに近づく。さすがに疲れたのかしら、うなだれているわね。

いつもピシッとスーツを着て、ウエスタの女神と巫女を守っている。
さぞ退屈でしょうねえ、だからアタシが助けるのよ。

「ウエスタはアタシ以上に美しいと、評判よ。でも恋愛ご法度の貴女に、ケンイチは勿体ない。彼がアタシの愛人になれば、永遠に幸せよ」

彼の肩に触れてみる。
あらっ、なんだか様子が変ね。

アタシは暗闇に、目を凝らす。
「ええっ、なんてこと!」

彼の体はヘパイストスが作った「身動きの取れなくなる網」で、椅子にくくりつけられているじゃない。
さっと、全身に悪寒が走る。

「ケンイチ、しっかりして!アタシは美の女神アフロディーテよ、分かる?」

彼の肩を揺さぶって、反応を確かめる。
ああ駄目だ、やはり反応がない。

うなだれたまま、目も開けないし。
かろうじて、息はしてる。

魔力を倍にした椅子に座った上に、網を巻きつけられたら、命の保証はない。

身動きを奪うどころか、体の動きそのものを止めてしまうのよ。

「これは、アレスの仕業に違いない。魔力を解く呪文は何だったかしら…」

必死で、記憶を辿る。
それなのに余念が、頭に浮かんでしまう。

アレスはワルキューレのヘラとデートのはずだから、先回りしたに違いないわね。なぜここまで、酷いことをするの?


「アフロディーテ。
君の本心を、全て聞いたぞ。俺はもう、君と生きるのはごめんだ」

「なんですって?」

背後からアレスの鋭い声が、胸に突き刺さるように響いた。

振り返って、全てを理解した。

アレスを真ん中に右にヘラ、左にロザが立ちはだかる。ちゃんと、ワインを飲みながらね。

二人のワルキューレはアレスを想っている、だから協力は惜しまないのよ。

倫太郎のクリニックを出たあとから、全て仕組まれていたんだわ。

「ロザとヘラは、アレスと組んでいたのね?
ケンイチをこんな風にしたのは、あなた達の仕業ね?」

友達だと思って油断した、甘かったわ。

「今さら気がつくなんて、遅いわ。
ねえヘラ?」

「そうよ。女神ウエスタは、さぞお怒りでしょうねえ…大事な補佐の命を奪ってしまった」

ワルキューレはワインを一口含んで、微笑んでいる。アタシを困らせたいのだろうけれど、そうはいかないわ。

「女神ウエスタは未だかかつて、怒りの感情すら表出していない。代わりの補佐を、紹介すれば良いだけよ」

当てはあるの。
オクテで真面目な倫太郎を、こちらの世界へ呼んでしまえば良いいだけよ。

「アフロディーテ!ウエスタを軽視するのも、いい加減にしろっ!」

ダンッ!
彼が音を立てて、テーブルにグラスを置く。
 
アレスがウエスタをかばうなんて、あり得ないから悔しい。

「君は何のために嘘をついたんだ?この椅子は何の役にも立たない、魔力すら発揮しない」

「からかうのは、良い加減にして頂戴!」

ウエスタをかばったアレスを、一蹴した。
嘘なんか、つくもんですか。

「俺は君と違って、嘘はつかない。君が来るまでに、ケンイチが逃げ出すから網が必要だった。
それが、証拠だよ」

「椅子の魔力が無いなんて。直したのに、おかしいじゃない」

アレスは、椅子の背もたれに触れた。

「とぼけないでくれ。直した割に、傷が付いているだろ?これは他のワルキューレ達がエロスから奪おうとして、ついた物だ」

「どうやらエロスは貴女に頼まれて、偽物を運んだのね」

あらまあ。アレスの前だからって、ロザはここぞとばかりアタシを疑っているわ。


「アタシ達の仲間まで、うっかり騙されるところだったわ」

ヘラ、あなたの仲間は噂好きってご存知?あなたもそんな目に、合うかもしれないわよ。

それにしても身に覚えのない話しばかりね、美の女神に対して、随分な濡れ衣よ。

「騙すも何も、アタシは偽物を頼んだ覚えはないわよ。疑うのも良い加減にして頂戴」

何か、おかしいわ。
アレスやワルキューレ達も、感づいてない事実があるはずよ。

ワインを飲みながら、事の背景を考えた。


お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました

写真 文 Akito