「オーダーの、抗菌薬をDripしますね」

「うん、お願い」

亜子がメイン補液の側管から、抗菌薬をスタートする。

スーッ、カチッ。

俺は持針器と針を操り、縫合糸を皮膚に通す。

エロスは左右の両膝の上部、大腿付近へ裂傷を負った。右が6センチ、左は更に大きく8センチ程度だ。

今後は菌血症や、骨・関節の感染も予測されるから、広範にカバーできる抗菌薬を選択した。

とにかくエロスの全身状態を、改善しなければいかん。
現在38度台後半の、発熱も起こしている。

単なる疲労と脱水ならば良いが、感染症に罹患した可能性も高い。

裂傷のナート(縫合)が済んだら、採血やレントゲンも必要だ。

「この傷はさあ、ワルキューレの二人に追いかけられた挙句…。
槍でシャキーンと、やられたんだよ」

エロスは額に冷却剤を乗せて、受傷したシーンを思い出すように、ゆっくり語る。

槍でシャキーンってさあ、ナートよりもはるかに痛いだろう。もっと怖いのは、その後だ。

「槍は、色んな用途に使うのでしょ?感染症を起こしやすいじゃん」

その都度洗ったり、消毒はしないだろう。

「あっ、そうか。うわっ危なかったな」

エロスは肝を冷やしたように、ハッと保冷剤を額からのけて目を見開く。

槍は戦国時代並みだけど、あなどれないな。俺も神々と関わるだけに、槍の危険は頭の隅に置いておこう。危機管理は、大事だからな。

ましてエロスによると、槍を使うワルキューレたちの性格は、極端らしい。

白鳥に変身したり、美貌で騎士を誘惑する、ロマンチックな一面もあるが。

ゴッツイ鎧兜を身につけて、戦で命を落とす運命の戦士を見つけ、槍で刺す。

先に命をもらう、こんな意味があるらしい。命を選択するとは、神の様な働きだな。

「ヘパイストスが直した椅子を、運んでいたら。
ゴッツイ・コーデの二人に、追いかけられたんだよ」

エロスは勘弁してほしいと言わんばかり、横になったまま、両手を肩付近で広げる。

なぜアフロディーテの噂を聞いた、一部のワルキューレが、魔法の椅子を欲しがったのか?

魔力が強いなら、誘惑したい騎士を椅子に座らせたいわ。アフロディーテだけ、いい思いをするなんて不公平よ。

アタクシ達だって、彼女に負けないくらい美しいのよ?こんな具合で、ゴッツイ鎧兜コーデに変身し、奪いにかかった。

「ワルキューレに、椅子を寄越せ!シャキーンって、槍を使われたんだよ。
墜落したのが海中で、助かったんだ」

目を閉じて、クワバラクワバラと呟く。

「よく、命が無事だったね」
亜子は、目を丸くして驚いている。そうよ、クワバラクワバラなんてもんじゃない。

「イカロスの様な結末にならなくて。
ほんとに良かったね」

亜子はエロスの汚れた顔や腕を、温かいタオルで拭いていた。イカロスは太陽に近づいて、翼が溶けるのでは無かったかな?
まっ、いいか。

「本当、ラッキーだったよ。
海中でヘパイストスの育ての母、テティスに助けられたんだ」

なるほど海の女神により、急死に一生を得た。

それでもローマで待つ、母親アフロディーテへ椅子を運ばねばならない。

例えテティスが、育ての母親でも。
この時ばかりは、ヘパイストスを羨ましく感じたそうだ。海の女神は、優しく慈悲深いからね。

エロスは必死で飛び続け、なんとかローマへ戻った。そして月曜日の夜、指定されたローマ郊外の遺跡へ、椅子を運んだ。

「勿論、あらかじめ作っておいた偽物を、届けたんだけどさ」

二人が健康診断を行っている最中に、なんとか間に合わせた。アフロディーテやアレスが戻る前に、偽物を運び込んだ。

あれっ、偽物?…まてよ。俺は、椅子を解体した当時の様子が浮かび、ピンときた。

「解体時に、直人さんの工具箱を物色していたでしょ。偶然でも、参考になっただろうなあ」

エロスは電動ドリルやノコギリに、興味津々だった。
「解体したシーンもじっくり眺めていたからさ、椅子を作成する、参考になったよ」

エロスが珍しく自嘲気味に笑うから、なんだか俺まで胸がぎゅっとする。

よもやあの椅子がここまで、トラブルを巻き起こすとは思わなんだ。しかし解体しなければ、どうにもならなかったしなあ…。

かつ魔法の椅子を、欲する理由を痛感した。
だからゼウスやヘラも、万が一他人に渡ると危険だと察して、封印したんだ。

要は、持ち主のヘラ以外は使っちゃ駄目よ!
これに、尽きるのだな。

そもそも息子のヘパイストスが、母親のヘラを困らせるつもりで、作成したんだ。

椅子を、他人が使うと。さらに危険な欲望を満たす、誘惑が潜むわけだ。

「アレスも、長年連れ添ったアフロディーテの本心を疑ってさ。椅子を使って彼女の気持ちを、確かめるつもりなんだ。ハアッ」

エロスはため息をつき、椅子のお陰でこんなだと傷を指さす。 
こんな具合に使おうとした、結果を体現してるようなもんだ。

オンディーヌがワルキューレたちから集めた、情報によると。
アレスはワルキューレの一人ヘラと、親しくなって、アフロディーテとの関係を相談した。

ヘラは、アレスに協力することにした。
それは二人が椅子を使った状態で、アフロディーテの前に姿を晒す。

アフロディーテも同じ方法だ。
惚れたケンイチさんと、その状態になって。アレスの気持ちを確かめる…らしい。

窮地に陥ったケンイチさんの行方は、クロノスのオヤジさんとオンディーヌ、そして妖精たちが探している。彼は先ほど、オンディーヌと共に蝶々に乗って、時空を移動した。

パチンッ。

やれやれ。
ようやく左右の裂傷は、ナートが済んだ。

「あとは、上から保護するね」
「倫太郎、恩にきるよ」

エロスも処置を終えて安堵したのか、ようやく柔らかい笑みを浮かべる。

亜子がナート部分のガーゼ保護を始めたから、俺も窮地を脱したように、感じてしまう。

これで、止血できるし。
感染予防の、抗菌剤も開始したからね。

「そう言えば。
本物の椅子は、何処に預けたの?」

肝心なことを思い出した。超危険な椅子を、エロスは何処に隠したのだろう?

「あっ、それなんだけどさ…」

一瞬、彼はニヤッとした。
悪戯に矢を放っていた、やんちゃ時代を彷彿とする表情だったな。

「俺がヘパイストスに頼んで、コンパクトな、折り畳み式にして貰ったんだ」

「ああ、隠すにはちょうど良いな」

気の毒だが夫婦の仲は、上手くいってない。
エロスはそこを、利用したのだな。

ヘパイストスは、ハンサムでない自分を受け入れないアフロディーテに対して、複雑な感情を抱いている。

妻の望みを、そのままそっくり受け入れるのもシャクだったろう。

「コンパクトになった椅子を、預かってくれないかな?」

「ええっ?」
突然エロスが、サラッと言ってのけるもんで、耳を疑った。

「ウチのクリニックで、保管?」
「それは、危なくないかしら?」

予期せぬ申し出に、俺と亜子は素っ頓狂な声を上げてしまった。

「座らなきゃ、大丈夫だよ。それにさあ、ここは訪問診療専門だから、患者さんの出入りないから安全でしょ、頼むよ」

あっけに取られる俺たちをよそに、エロスはこともなげに告げた。

「間もなくエキスプレス・ホースが、届けにくる予定なんだ。着払いで、オッケーよ」

エロスはさすがに体力が尽きて、利用したと笑っている。

「着払いって、ナニソレ…」

エキスプレス・ホースって、宅急便か?

「ペガサスが運ぶなら、無料ではないの?」

俺と亜子は、ポカンと口を開けてしまった。

「こちらの世界でいう、黒○ヤマトの宅急便だよん…。ワルキューレとは無関係な、ペガサス達の商売なんだ。
だから、小銭を貸してちょうだい。
自宅に帰れないから、ユーロを使い果たしちゃったんだよ」

「ローマから、何ユーロでしょうか?…」

アータ…小銭どころの値段じゃないわよね?

「私たちは日本円しか持ってないから。こんな時間に、どこで両替すればいいかな?
現金オンリーよね?」

「日本円で、オッケーよ。ありがとね」

微笑むエロスは、指でそのマークを出すが。
神々は、やはりどこかズレていらっしゃった。


お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました

写真 文 Akito