エロスは魔力を倍にして作り直した、ヘパイストスの椅子を持ったまま、行方をくらました。

翌日の水曜日、神々の診察時間になっても、彼は再診に訪れない。

「無関係な事態に巻き込んで、申し訳ない」

初診のクロノスが、俺を見上げ詫びる。診察台に臥床し、腹部エコーの最中だ。
だから軽く、頷いた。

「いいえ。滅多にない刺激的な経験をさせて貰っていますよ」

亜子が俺の代わりに、返事をしてくれる。

今の俺は、この低エコー領域が気になる。
胃の小湾部分だ。

早急に直人さんへ、内視鏡を依頼しよう。
これ、悪性の可能性があるぞ。

もとローマ皇帝の御典医ガレノスも、紹介状に綴っていた。

クロノスは大昔のゴックン以来、心窩部痛や悪心など消化器症状を、時折り発症していた。

症状が余り強くないから、対症療法で過ごしてきた。内視鏡を始め、精査を受けてない。

懸念したガレノスは、親友に今回こそ良いチャンスだと勧めていた。

早期胃癌の場合は自覚症状に乏しい、彼はこの知識を持っていた。噂通り、勤勉だ。

紹介状には親友へ、悪性の可能性も話したと、綴っていた。
やっぱりね、「医者の勘」が働いたんだ。

「ゼウスは直人のクリニックへ、診察に出掛けたのか?」

クロノスはそれを承知の上で、淡々とエコーを受けているのだからさ。
誰かさんよりオトナよね…あっ、失礼。

「ええ、美月クリニックへ行かれました」

亜子が、クスッと笑う。
そう、ゼウスは落ち込んでいた。

ここまで大ごとになったのは。
元はといえば、自分が例の椅子にくっついて、解体に至った。腰痛の悪化もほっといたのが、原因だとね。

「ヘラは過換気症候群の診察だ、クリニックでかち合うだろうなあ。なんだかんだ、おしどり夫婦なんだよ」

「椅子の一件は、怪我の巧妙。夫婦の仲も上手くいってるようですね」

夕べ、エロスを探し回り疲れた果てたゼウスは、力つきローマに戻れなかった。

ヘラ「公認」、コーディネーターの一人で長年の友達、公彦さんの家に泊まった。

波風の立たない宿を選んだのは、やはり奥さんの病気を、心配していたからなんだよね。

さて。
クロノスのオヤジさんと亜子の雑談が一区切りしたところで、俺もエコーを終えた。

彼も初診だ。
ルチーンの検査は一通り行った。

ここまで神々の診察をして、初診時には、人間と同様の検査が必要だと分かった。

クロノスの場合、まだ血液検査の結果は出てないが、本日行った検査で判断すると。

心疾患や高血圧、アルコールによる肝臓疾患など、神々の食生活や生活習慣から起こりやすい病気の発症は、無さそうだ。

ガレノスと親友なだけに、日々の生活で何かと注意していたようだ。

俺はここまでの経過を、説明した。

胃癌の腫瘍マーカーや、ピロリ抗体を含めた採血結果が、明後日に出る。

このさい、そのまま美月クリニックへ受診してもらう流れに決めた。

「胃の病気が悪性の可能性は、ガレノスにも指摘された。早急な対処を、ありがとう」

クロノスのオヤジさんはサバサバした口調で、顔色一つ変えなかった。

先週、美月クリニックへ押しかけた印象とは、ガラッと変わり、人の良いオヤジさんだったのよねえ…。

本日のお召し物シルバーグレーのトーガは、渋いオトコに似合うわあ。

映画俳優だったら、そうねえ…背格好といい、渡辺○に似ている。

「治療を終えたら、オンディーヌと結婚する。だから、健康でいたいでしょ」

ガレノスへ返信を書いている間、雑談を交わしていると、サラリと結婚を打ち明けるしさ。

どこまでも、カッコいいオヤジさんだ。

「うわっ、おめでとうございます」 
「歳の差、夫婦ですね」

クロノスがオンディーヌの住む湖のイメージだと、ピアノ曲を希望した。

すかさず亜子は、嬉々として流している。




二人の馴れ初めは、ケンイチさんから聞いた。

昔からお互いを想っていて、ようやく素直になれたのねえ。

エロスが編み出した、蝶々の鱗粉にゴールドの矢を削った粉を混ぜた効果もあった。
それは本来の使用目的に、近いよなあ。

タイミングも、美月クリニックで「すったもんだ」の帰りってのも、記念よねえ。

しかも大昔、クロノスが地底に閉じ込められた際に、何かと助けたのが、オンディーヌだったそうで。

水の妖精も、本来は優しいんだな。
やっぱりね、人間は水の中には住めないのよ。


ガチャッ、ガタンッ!

「えっ、誰…」

突然、診察室のドアが空いた。
その光景に、俺は目を見張った。

「クロノスすまない、ケンイチを見失った」
「しまった、先を越されたか」

なんと行方不明のエロスが、ボロッボロのくたびれた姿で現れたではないか。

淡いブルーのトーガは埃まみれ、ところどころ破けている。弓矢を入れる布バッグも、泥跳ねしていた。

七色に光る大きな羽も汚れてしまい、輝きを失っている。

「エロス…アータ、どこへ行ってたのよ」

自分でも、声が震えているのが分かる。
なぜ両足から出血しているのか?

クロノスは、事情を把握しているようだしさ。ケンイチさんを見失ったって、何が起こったの?

「倫太郎さん、傷を処置しないといけない。エロス、こちらに横になって下さい」

亜子が咄嗟に動いてくれた。
「そっ、そうだな。そっちが優先だ」

クロノスも、力を貸してくれた。三人でフラフラのエロスを診察台へ臥床させる。
彼の体力は限界だ、衰弱している。

「ああ、ありがと」

彼女が手早くトーガを捲り、処置しやすいようにトーガを整える。

俺は素早く左前腕から穿刺し、維持輸液を500ML開始した。

「心配かけて悪かった。実はね、例の椅子を隠していたんだ。イデデ…痛いなあ」

「隠したのは、魔力を強めた椅子の方?」

「そうなんだけど。
ワルキューレ達が探し回ってさ。隠すもなにも、あちこちを転々としていたんだよ」

エロスの顔が苦痛に歪む。
両膝の上部から、出血が多いな。

生理食塩水で、洗浄を始めた。
この傷は皮膚保護剤を貼るよりも、ナート(縫合)した方が良い。

一体、どこで受傷したんだ?
聞きたい事は山ほどある。

ケンイチさんは、追われていたのだな。
しかし月曜日は、クロノスと共にここへやってきたぞ?彼も盗まれたヘパイストスの椅子を、探していたはずだ。

「だから椅子は二脚ある、本物と偽物だ」

クロノスが右の指で、Vサインを作る。

「えっ、じゃあゼウスは知らないのですね?」

「倫太郎ごめんよ。でもさ、敵を騙すにはまず味方からって言うだろ?」

俺はコクッと首を振る。
二人は役者っぽいイケメンなマスクを持つだけでなく、演技も達者だった。

先ほどクロノスは、なんて言った?
関係の無い事まで巻き込んですまないと、さりげなく謝ったわよね…。

「この一件が、女神ウェスタの怒りに触れたら。アフロディーテとアレスは、二度とローマに戻れない」

エロスとクロノスが、椅子にまつわるとんでもない「企て」を話し始めた。

「最初に、あの椅子へ目を付けたのは、アフロディーテなんだよ」

エロスは傷の痛みとアフロディーテの企てを重ねて、困ったように笑う。

どうやら彼がゼウスの寝室から椅子を、持ち去ったのは事実のようだ。母親のアフロディーテから、「運良く」頼まれた。

だからエロスは、ローマとヘパイストスが滞在するギリシアを往復した。


「椅子を解体した機会に、直したい。
魔力を倍にして欲しいと、夫のヘパイストスへ頼んだ。愛人アレスの、浮気予防だ」

クロノスはエロスの状態を察して、代わりに説明を始めた。

「しかし彼女は、もう一つ閃いた。
アレスの気持ちを確かめたいから、新しい恋をしよう。それを友達のワルキューレ、ロザに相談してしまったが、我々には幸運だった」

このロザが、仲間のワルキューレ達へ喋ってしまったのだ。

「禁断の恋バナ」は秘密どころか、みるみる広がるでしょう。

「些細な情報から、恋人候補を見つけるなんて。天性よね」

「美の女神アフロディーテの恋人候補は、新しい主治医が看取った、もと人間よ」

「さすがアフロディーテね、目の付け所が違うのよ。仕事もテキパキこなして、誠実な恋人を探していたのね」

クロノスがオンディーヌから聞いた背景を、付け加えて説明する。

何故、こんな情報をキャッチできたのか?
オンディーヌは妖精の仲間が多いし、ワルキューレ達と親しいからだ。

オンディーヌは、ロザ以外のワルキューレから、企てを知った。

健康診断のあと、修理した椅子を使ってアレスの気持ちを確かめる。もしくわ恋人候補を、射止めてしまおう。

因みに、魔力が倍になったヘパイストスの椅子は誰も試してない。

人間はいざ知らず、本当に神々が座っても大丈夫なのか?

作者でも効果は分からない、イコール命の保証は無いじゃん。

しかしこの事態を、アレスが知ってしまったからには、もはや狂詩曲だ。

亜子と俺はエロスの処置を続けながら、ポカンと口を開け、とんでもないラブ・ソディーを聞いていた。


お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました

写真 文 Akito

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