「クロノス、良い主治医が就任して安堵したな。そのうち私も紹介してくれ」

古代ローマの医師ガレノスは、思いのほか優男だった。淡いパープルカラーのトーガ姿は、哲学者風情だ。

「勿論だ。倫太郎は信頼できる男だ、良い仕事仲間にも恵まれている。なあ、ケンイチ?」

クロノスが倫太郎先生を褒めてくれると、自分のことの様に嬉しいもんだ。
俺は看取ってもらったからね。

「ありがとうございます。ゼウスだけでなく、ヘラの診察まで、引き受けて頂いたようです」

「おおっ、例の胸や息が苦しくなる病だな?」

「さようでございます。ドクター美月が主治医になりました」

ガレノスはクロノスを通して、ヘラの病状を聞いていた。
クロノスは娘の様子を以前から気にかけ、ガレノスにこっそり相談していたのだ。

懐の深い二人は、親友だった。
とても、頼りになる。

「ケンイチ。差し支えなければ、ヘラの病気を詳しく知りたい」

「かしこまりました。資料を取り寄せましょう」

「手間をかけてすまない、頼むな」

ガレノスは倫太郎先生が記入した、ゼウスの診察結果をトン、と指で突いた。

向上心の高い人だけに、現代の医療も興味を持ち、勉強されているようだ。

紘一さんがギリシア語に訳した倫太郎先生の提供書も、すぐに理解していた。

彼が医者として活躍した紀元元年は、内視鏡やピロリ菌だの、もちろん発見されてない。

それらをパッと理解できる、柔軟な思考の持ち主だな。

しかし俺は幸運だ。
女神ウェスタと巫女の補佐として挨拶を兼ね、ガレノスを紹介してもらった。

クロノスが来週、倫太郎先生を正式に受診する。
そこでガレノスが、親友の紹介状を書いた。

クロノスは書類を受け取りがてら、一緒に来ないかと誘ってくれた。

ガレノスと懇意になった方が、神々の診察も円滑に進むだろうと考えたのだ。

クロノスは一時、天界をおさめただけに、リーダーシップ能力を持つ。
ゼウスが最高位に就く前、親子の攻防戦が起こる以前の時代だな。

コーディネーターの紘一さんと公彦さんは、ガレノスと面識はない。
俺が間に入れば、何かと都合が良いだろう。

ゼウスの様に当日に、紹介状書いてもらい、更に翻訳するなど回避できる。 

クロノスも、押しかけたしなあ。 
これは本人も反省しているが、今回に結びついたから結果オーライだ。

早速この後も、紘一さんにクロノスの紹介状を訳してもらう予定を組んだ。

「それはそうと、ガレノス殿に知恵をお借りしたい事態がありまして。アフロディーテとアレスが突然、健康診断を希望して、波紋を広げております」

「他にも目的が、あるようなのだ」

俺とクロノスは打ち合わせ通り、本題に入った。

「なんだって?あの二人は、医療とはほど遠い生活をしているぞ。私の元にも数える程度しか、訪れてない」

やはりガレノスも、不可解に思ったのだろう。
声を高め、目を見張る。

ゼウスのようにトラウマがあって、医療を避けるのではなく。

ストレスの低い生活を送っているので、心身の変化を感じる機会が少ないようだ。
アフロディーテの故郷で、流れ着いたとされる「愛の島」で過ごす時間が多いからだ。

「ガレノス、二人のカルテは残っているか?」

「クロノス、ケンイチ。ちょっと待ってくれ」

ガタン…。

古代の名医は、まず音楽を流した。
それはドビュッシー作曲「喜びの島」だ。





「アフロディーテとアレスはシテール島、喜びの島が本拠地のようだから。これを聴こう」

ほほう、なかなか面白い御仁だ。
喜びの島イコール、シテール島だ。

官能的で色鮮やかな曲は、アフロディーテとアレスの日々そのものだ。

この曲を聴きながら、久しくお目にかかってない二人のイメージを膨らませるつもりだろうか?

ガレノスは壁一面書架で囲まれた中の、一部に立った。そして今度はカルテを探しながら、右手を挙げる。

クロノスが説明を望む合図だと、教えてくれたから、遠慮なく再開する。

「シテール島に滞在する二人が、新しい主治医を知ったのは、妖精からの又聞きなのです」

一昨日オンディーヌとクロノスは、噂を流した妖精を、すぐに突き止めた。

神々の主治医に関して、アフロディーテとアレスの耳に入るまでは、幾つか段階があった。

まずは恋に恋した乙女、オンディーヌが倫太郎先生に惚れた。そこで度々、彼の元に現れていたのだが。

同時に雨や風、気象に関係する妖精たちも、オンディーヌの後を追っていた。

新しい主治医は、離れた土地に住む日本人だ。

妖精たちは、垣間見た倫太郎先生の様子を噂に流した。

前任者はイタリアかギリシア人だった、日本人は初めてだ。診察を機に、日本へ行ける。

「それを耳にした女神ワルキューレが、友人のアフロディーテに、何気なく話をしたのです」

さすがオンディーヌとクロノスだ。
アフロディーテと親しい妖精も、把握していた。
それが、女神ワルキューレたちだ。

「なるほど。
ワルキューレから聞いた話しで、現代の医療に興味を持ったのかもしれん。若返りの薬だの、何かを期待しているのだな」

「ガレノス、そのようなのだ。しかしアフロディーテとアレスが、面倒を起こしては困る」 

「確かにな。彼が辞めてしまったら、もう後がないだろう?」
「コーディネーター二人と女神ウェスタは、それを懸念しています」

ワルキューレは、ペガサスに乗り飛び回る。
シテール島でバカンスを楽しむ、アフロディーテの元を訪れるのは容易だ。
 
「あったぞ。これがアフロディーテとアレスのカルテだ」

頼りになる男ガレノスは、日に焼けた二冊のノートをテーブルに広げた。


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写真 文 Akito