「はあっ?解体したヘパイストスの椅子が、盗まれた?」
土曜日の眠い午後を吹っ飛ばす、とんでもない一報が届いた。
途端、胸騒ぎがよみがえり、あの夜のファンファーレが鳴り響く。
そう、椅子を解体した水曜日の夜だ。
「倫太郎、すまん。また、やらかしちゃった」
ゼウスは隣にいる紘一さんを真似て、両手を合わせ侘びている。
「いいえ、無事でなによりですよ」
意気消沈するゼウスの様子に、胸騒ぎはいったん胸の奥にしまう。だってさ金髪の巻毛が、一部焦げているのだもの、しかも前髪だ。
盗人に入られた挙句、一体どうしたのだろう。
「ハプニングが重なるから、なんら啓示かもしれませんね」
失礼、啓示は神が授ける物だな。
俺が言う立場では、ないだろ。
「ワシも、そうであって欲しいさ」
あらっ、貴方まで納得しないで…。
ゼウスは、ますますしょげてしまった。
かつてゼウスは神々を敬うのを忘れた人間界に大洪水を起こしたりさ。
人類に、なにかと喝を入れてきた。
そんな「帝王」が、髪の毛まで焦がして、ひと回り小さくうつる。
「ヘラが抗不安薬で、熟睡できているから。余計な気配は、察知しずらいんだよね」
窓口の紘一さんも、神々とは長い付き合いだ、気苦労が絶えないね。
ゼウスがいるから、口にしないけど。
俺は目を閉じて、何度も頷いてみせる。
労ってるつもりよ。
しかし解体したへパイストスの椅子を、最高神と女神の寝室から盗むとはねえ。
大胆不適な盗人…いいや、ふてぇヤロウだ。
早朝、物音で目を覚ましたゼウスは、寝室の窓が空いて、カーテンが風にユラユラ揺れている事態に気が付いた。
こりゃ、侵入者か?
いや酔っ払った観光客の、仕業かもしれない。
人間たちの目には、フォロ・ロマーノは遺跡に過ぎないから、時に神殿を乱していく。
ひとまず眠っているヘラを起こさないように、ベッドを抜け出した。
寄り道癖のおかげで、忍足は得意だ。
盗人の形跡を探していたら、ドレッサーの上段が空いていた。
「しまった、盗人だ!」
ピカッ!
次の瞬間、誤って自分が操る雷をビビッと全身に落としてしまった。
だから巻毛が一部、焦げてしまったのだ。
しかし。
見てくれなんぞ、気にしてる場合ではない。
解体した例の椅子は「封印」に使った布袋を残して、消えていたのだ。
「巻毛の焦げより、盗人は誰だ?
ソイツは封印を解く呪文まで、把握しているぞ」
ゼウスは全能ぶりを、発揮した。
とてもじゃないが、ヘラには相談できない。また過換気発作を、起こしてしまうだろう。
忍足のまま、盗人が逃走したヴェランダから外に出た。フォロ・ロマーノに転がってる石ころや、木々を拾い集めて、「封印袋」に詰めた。
可愛いカムフラージュを、完璧に仕組んだ。
そして何食わぬ顔で、二度寝…狸寝入りをした。
普段は、ヘラが起こしてくれるからね。
彼女より早く目が覚めていたら、寄り道癖が出たと疑われ、朝から落雷が発生してしまう。
ピカーンッ!ドーンッ、ガラガラガラッ!
巻毛は焦げないが、心が炭化する。
しかもヘラの落雷は、この事態を誰かに相談するのが遅れてしまうほど、長ーい威力を放つ。
だもんで、ゼウスは心ここにあらず、しかし懸命に狸寝入りをした。
その後は一見、爽やかに起こされた。
コッテリ系の朝食を見て食欲が沸かないのは、潰瘍の治療後だから、ちょうど良い。
牛乳やヨーグルト、果物を「ゴックン」した。
よしよし。
ヘラは治療の経過は順調だと、安心しているな。
腰痛も注射のお陰で、軽減している。
外見は、普段と変わらない、疑われる要素はないはずだ。
ちなみに巻毛の焦げは、寝癖だと言いターバンを巻いて誤魔化したらしい。
「オレンジゴールドのトーガに、ターバンはな。中東あたりの神を真似たんだ」
「えっ…アッラー?イスラム?」
ゼウスは経緯を真剣に語るから、俺は吹き出したいのを、必死で堪えた。
やはり、どっかズレていらっしゃる。
ヘラのヴェールを借りる方が、自然だよねえ。
しかしヘラはスルーしたから、普段から寝癖直しにターバンを巻くのかもしれない。
それはさておき。
朝食を終えてターバンを外したゼウスは、誰に相談するか迷った。
周りの者は全員、怪しい。
「甥のエロスが私用で使うために、盗んだ?
まさかヘラが誰かに頼んで、処分させたのか?
へパイストスは、出張から戻っていない。
デュオニュソスが、演劇で使うのか?
倫太郎や直人、裕樹も土曜日も診察があるから、相談できないじゃん!」
そこで浮上したのが、長年の友人だ。
紘一と公彦が適任だと、閃いた。
まずは美月クリニックの近所に住む公彦に連絡してみたが、取り込み中だった。
しかし、これはラッキーだった。
コンコルディア神殿、フォロ・ロマーノにいたら、盗聴されるかもしれない。
それこそ観光客を装った、神々や女神とかね。
ゼウスは前触れもなくローマ在住、紘一の自宅までやってきた
最初から、そうした方が早いのにね…。
そして、現在に至る。
「しかし、椅子を使う目的はなんでしょう?
盗人は、人間ではありませんね」
俺は画面の向こうに並んで座る、ゼウスと紘一さんへ尋ねる。
そもそも魔術、呪文を操れなければ、椅子を手に入れても話にならないし。
座ると身動きが取れなくなる、魔力を持った椅子だと知らなければ、意味がない。
しかも盗人は、決定的なミスを犯した。
朝焼けの空を飛ぶ姿を、ゼウスに見られた。
しかし全速力で飛んでいたから、あっという間に見失った。だから鳥なのか、誰か乗っているのか、そこまで見分けはつかなかった。
「倫太郎。ワシも盗人は、こちらの者で間違いないと思う。かつ椅子を解体した経緯や、封印を解く呪文を知っている者の仕業だ」
「うーん、それでも犯人の目星が付かないなあ。クリニックでの作業中に、外部から入ってこなかったのですよね?例えば検査の業者さんに変装した、妖精や神々とか?」
紘一さんが両腕を組んで、唸る。
彼は椅子の解体現場にいた、当事者以外を犯人と疑っている。
しかし、出入りはなかった。
「外部の人間は、いなかったです。
強いて言えば、迎えにきたタクシー・バタフライくらいのもんですよ」
「しかしのぉ…プシュケの蝶々は、伝達能力は無いからなあ。仮にどこかに隠れていたとしても、能力は発揮できまい」
ゼウスも、くぐもった声を出す。
トントン…ガチャッ。
「倫太郎さん」
書斎のドアがノックに続き空く。険しい表情の亜子が入ってきた。
スマホを2台手にしている、一台は自分の物だ。
要件はすぐに、分かった。
きさらぎ訪問診療クリニックの物を受け取る。
「緊急で仕事になってしまったので…」
川畑さん家族から、緊急往診の依頼だった。
「私が代わりに、続きをお聞きしますよ」
オンラインは一旦切り上げるつもりが、亜子がバトンタッチしてくれた。
「あっ、宜しく」
俺は後を託した。
彼女は先ほどまで、例の健康診断の内容を、申し込んだ二人に伝えてもらうよう、公彦さんとやり取りしていた。だからゼウスは、タイミングが合わなかったのだ。
部屋を出て行きかけると、何気ない話題が引っかかった。
「アフロディーテの恋人アレスは、ゼウスとヘラの息子さんだったんですね」
えっ、そうだったっけ?
家族関係を、うっかりしていた。
確かアレスは、古代ギリシアでは影の薄い存在なんだけど。
ローマに渡って、知名度を上げた。
ローマを建国したロムルスの父「マルス」として、崇められたのだ。
絵画では野生的な逞しい男性に描かれているだけに、かなり美男子でモテるらしい。
妖しい魅力を放つ、危険なオトコって、案外モテるのよね。
アフロディーテとアレスは、一番美しい女神と神だと言われるしさ。
愛の女神と戦いの神は、それこそへパイストスが作った「網」罠にかかる直前の、際どいシーンで描かれたりするのよ。
「例の、健康診断の件だな?
確かにワシとヘラの息子だがね。
アイツは軍神で、激しい戦いを好むから距離を置いているのだよ」
ゼウスの思い詰めた声が、印象に残った。
そこへ、へパイストスの椅子を盗んだ犯人と、その目的や。
未だにはっきりしないアフロディーテの企までが、ごっちゃになった。
椅子を解体した時にゼウスを緊急搬送した、エマージェンシー・ホースのペガサスや、持ち主の女神ワルキューレには、ますます胸騒ぎを覚える。
なんだか、雲行きが怪しいよ。
お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました
写真 文 Akito
参考図書
世界文化社
吉田 敦彦 監修
名画で読み解く ギリシア神話