川畑さんの訪問診療を終え、きさらぎ訪問診療クリニックの白い建物が視界に入り、安堵したのも束の間。
「ゼウスが急変したかもしれない?」
亜子からゾッとするようなLINEが届き、叫んでしまった。
終末期の患者さまを診察した後だけに、苦いものが込み上げる。
帝王ゼウスは、高コレステロール血症だ。
よもや脳か心臓へ、血栓が飛んのだろうか?
「ナイスタイミングで、亜子が来てる。早急に美月クリニックへ行って」
「分かった。主任、ありがとね」
岸田主任も慌てて、車を駐車場に停めてくれた。
さすがに、急いで車を降りた。
素早い亜子は、俺の荷物を積んでいた。
「ゼウスは、どうしたの?」
運転席に座って、彼の全身状態を確かめる。
こんな時は俺が、運転した方がいいだろう。
「それがね。連絡をくれた凛ちゃんも、こんがらがっているみたい」
「どう言う意味?」
亜子は掴み所のない、言い方だ。
まずはラインに目を通してと、画面を開く。
「どれどれ…」
凛ちゃんから届いた、メールを覗く。
「ナニナニ…。
全く動けないゼウスさんが、緊急でエロスさんとペガサスに運ばれました。対処に困っています…だって」
ははーん。
なんとなく、状況は読めたぞ。
普通、ペガサスは飛んでこないでしょう?
「神様ならではの、緊急事態みたいだな。直人さんと祐樹は想定外の困った対処に追われて、俺に連絡できないのだな」
ゼウスの命に関わる状況ならば、どちらからか連絡があるばずだ。
「ゼウスの状態は。
例えばCCU(冠動脈疾患治療室)へ搬送するとか、そこまでではなさそうね」
「うん、そのようだね」
一先ず、胸を撫でおろす。
凛ちゃんは、美月クリニックの受付を手伝っているだけに。患者さまの状態では、救急車を要請しているし。
まして臨床心理士を目指すから、医療の知識も多少は持っている。
だから動けなくなったゼウスの状態以上に「困った事態」が起こったと、判断した。
これをLINEで、伝えてきたのだろう。
「そもそもペガサス、天馬って。救急車の代わりになるのか?」
基本的なトコから、疑問が湧く。
「どうだろう?
もともと北欧の神話では、女神ワルキューレがペガサスに乗っているでしょう?
彼らは搬送に、慣れているかもしれないね」
子供の会話みたいだけど、大真面目なのよ。
それにワーグナーの楽劇みたいに、なんだか壮大じゃん。
「ワルキューレ」も含まれる、神話を題材にしたあの4部作よ。
ペガサスも、登場するわ。
しかし、リアルな舞台は病院だ。
いきなり羽の生えた馬が救急で飛んできたら、俺だって仰天する。
そこへ「帝王ゼウス」が運ばれたら、ついに「アルマゲドン?」って、焦るわな。
何はともあれ、美月クリニックへ、安全運転で車を飛ばした。
幸い20分もしないで、到着した。
しかしねえ。
俺は医者になって初めて、こんな急変事態に、遭遇したさ。
到着するなり、圧巻だ。
駐車場には、救急車ならぬ「エマージェンシー・ホース」が4頭、お行儀よく待機していた。
サラブレッドのような栗毛色の毛、白い大きな羽を持つ。
この世の動物とは思えないほど、魅力的な姿だった。
それこそ写真に撮ってみたいが。
人間が踏み込んではいけない、領域がある。
神々の主治医だからこそ、マナーは重んじなければならない。
直ぐに、頭を仕事モードへ切り替えた。
クリニックへ入ると、カオスだった。
直人さんを筆頭に、一同は待合室へ勢揃いしていた。
「無理に動かすなっ!痛い、腰が痛いっ」
しかもゼウスはダミ声を響かせて、騒ぎの中央に「鎮座」していた。
「倫太郎、遅いじゃないか!」
俺を見るなり、威勢は張り上げるものの。
完全に、身動きの取れない状態だった。
「すいません。ってか大丈夫なんですか?」
「体は痛いが。この通り、生きとるっ!!」
なんとゼウスは「ヘパイストスの椅子」から体が離れなくなった、くっついてしまったのだ。
座ると、身動きの取れなくなる椅子だ。
ゼウスは呪術の掛かった椅子に座り、眠ってしまったところ。
目が覚めたら全身筋肉痛に加えて、酷い腰痛だった。
かつ椅子は必要以上に、魔力を発揮していた。
ゼウスの体は完全に、椅子と離れなくなっていたのだ。
魔力を解く祈りや、呪文を唱えてもビクともしなかったらしい。
焦った第一発見者のヘラは、「救急搬送」をエロスに頼んだ。彼も再診だったからね。
およその経緯を把握して、もう仰天した。
確かに俺は暴飲暴食は控えるよう、アドバイスしたさ。
でもどんだけ長い時間、魔力を持つ椅子で過ごしたんだ?
「いやはや…ウウッ…」
しかし、ごめんなさい。
この場の様子に、笑いそうになってしまった。
「倫太郎。この際、椅子を解体することにした。ゼウスの診察は、その後ね」
直人さんは、もはや日曜日のDIYオジサンと化している。なんとなく声がウキウキしている。
「すいません。解体は手伝います」
返事はしたものの、素顔の彼に吹き出しそうだ。
「お願いね。買っておいて良かったわ」
ギューンッ、ギューンッ。
オシャレなジャケットタイプの白衣は脱いで、シャツの袖をまくり。
内視鏡の代わりに電動ノコギリを作動し、動きを確かめている。
魔法の椅子の分解に、子供に戻った気分で、ワクワクしてるに違いない。
「直人。この道具類は、ホームセンターで買えばいいの?」
ペガサスを誘導して付き添ったエロスは、工具に興味心身だ。
工具箱から色々取りして、物色している。
「そうよ、この近所にあるから。今度、行く?」
「いいねえ、行く行く」
エロスは弓矢の手入れに、工具が必要なのだろうけど。
その表情が大昔のやんちゃ時代、悪戯に矢を放った、当時を彷彿とするのは気のせいだろうか?
「師匠。椅子と体が離れたら、すぐに俺が腰にブロック注射します。そうしないと動けないっすもんね…おおっ、倫太郎、お疲れさん」
処置室から出てきた祐樹が、トレーを手に持っている。
「裕樹、お疲れ。久しぶり」
お互い手を挙げて挨拶した。
俺は、ひょいとトレーに視線を向ける。
裕樹はゼウスのために「早速」、腰部のブロック注射を準備していた。この人も、神さまの体が気になって仕方ないんだろうね…。
「ゼウスさん、先ほども説明しました。注射は苦手かもしれませんが、頑張って下さい。同意書のサインも、奥さんに頂きましたからね」
いつもは飄々とした裕樹も、神さまの治療は初めてだ。普段以上に真剣な顔で、説明している。
でもね内心は、注射する気満々よ…。
しかし、問題はこのお方。
「もう簡単に言うなよ、注射は痛いだろっ」
なんせ皇帝ゼウスが、駄々をこねる。
大嫌いな注射を前に、子供のように声がふるえている。
こんな状態が辛いのは、充分わかるけど…。
ごめんなさいね。
もうねえ全能の神ゼウスも、普通の患者さま、人間と同じでございます。
「ワタクシが留守うちに、へパイストスの椅子で二度寝してしまったのよ…」
しかし俺たちは、ゼウス以上にヘラの様子をチラチラ気にしていた。
オロオロする彼女は車椅子に乗って、凛ちゃんに付き添われてる。ヘラは到着と同時に、過換気発作を起こしていた。
こんな事態では、凛ちゃんの連絡も的を得ないはずだ。
一番状態を知るヘラが、過換気発作で呼吸が苦しくなっていたら、ゼウスの経緯を説明するどころじゃない。
過換気発作に対して、昔は紙袋を口に当てて、呼吸を促したが。
現在は深呼吸を促して、おさまるのを待つ。
紙袋の使用は、却って酸素不足と二酸化炭素が増えるだけなんだ。
直人さんはヘラが度々、過換気発作を起こしていたと聞き、抗不安薬を準備した。
幸い今回は薬は未使用で、おさまったらしい。
しかし今回の発作で判明して、逆に良かった。
彼女はそれこそ、健康診断も行ってない。
心疾患や、精神的な影響も気になった。
今後健康診断を含め、精査を薦めるつもりだ。
「ゼウスが二度寝から、覚めたら。全身筋肉痛と、腰痛が増して。さらに椅子の魔力で、離れなくなってしまったのよ…」
「それは驚きますし、焦りますね」
林主任は、ゼウスの経過をヘラから聞き、記録している。その横で亜子は記録を覗いている。
こんな看護記録も、前代未聞だろうな…。
「椅子を作ったパイストスを呼んだらどう?
呪術も、解けるんじゃない?」
俺は、ふと思いついた。
「残念ながら、ギリシアのアクロポリスの丘に出張中なんだ」
直人さんが、苦笑いする。
苦笑いの理由は、ヘパイストスの性格を現わしていた。
「あの丘は、オリュンポス12神の聖地だ。
彼は神殿の修理に入ったら、集中してしまう。
外部との連絡を、断つんだよ」
「うわっ、徹底してるな」
緊急事態に困ったエロスも、椅子の作者ヘパイストスに連絡を試みたらしい。
ゼウスの一大事だから、戻ってこいとね。
しかし、応答はナッシング。
「おーい、貴方の作品が想定外のトラブルを起こしていますよお…」
届かない思いは、距離も遠くに存在する相手なわけね。
「相当頑固な、昔気質の職人っすね」
裕樹は両腕を組み、クスッと笑う。
彼の指摘通りだよ。
へパイストスも仕事に一途だろうが、どこかズレた神さまのようだ。
「この事態を打開するには、椅子を解体するしかないですね。僕らがいるので緊急時の対応は完璧ですから、落ち着いてくださいね」
俺は視診もかね、ゼウスに声をかける。
「倫太郎、頼むからやさしく作業してくれ。俺は、大人しく過ごしただけなんだからな」
「ええ、分かっていますよ」
ゼウスは比較的、顔色も良いし、ダミ声だけど張りはある。よく眠れたのだろう。
全身の筋肉痛と、腰痛は辛いだろうが。
一先ず、作業に取り掛かれそうだ。
「神さまも3人いるから、椅子を解体すれば魔力は消せるでしょ」
エロスは既に、声が上ずっている。
若干、興奮気味に、電動ドリルを手にしていた。
工具オタクなんだろうか?
まっ、いずれわかる。
「では、始めましょう」
直人さんの鶴の一声で、ヘパイストスの椅子の解体作業と、ゼウスの体と椅子の「剥離」が始まった。
作業中に、ここに来るまでの詳細を知った。
ヘラはゼウスと相談して、アフロディーテが健康診断を希望する理由と、その背後にある企てを確かめていた。
紘一さんと公彦さんへ相談しただけでなく。
用心深い彼女は女神ウエスタと巫女、ケンイチさんにも伝えたそうだ。
ところが、予想以上に時間が掛かってしまった。
彼女がコンコルディア神殿に戻った時、ゼウスはヘパイストスの椅子に座ったまま、二度寝していた。
ヘラは、爆睡している夫をそのままにした。
そうすれば、万が一「どこか」へ出掛けたり、お酒も飲まないだろうからね。
安静にしていただけに、覚醒時の思わぬ事態に、二人は焦ってしまったのだ。
「かっ、体が椅子から離れない…」
「ええっ、どっ、どうしましょう?」
思い付いたのが、本日再診するエロスだった。
連絡を受けた彼は、「エマージェンシー・ホース」を4頭、ゼウスの体を椅子ごと運ぶよう、緊急要請した。
しかしねえ。
古代の神々の魔力も、どこかズレた効果を発揮するようだ。
それがまた人間っぽくって、クスっと微笑んでしまうのだけどね。
お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました
写真 文 Akito