ラヴェル作曲、水の戯れかあ。
この曲に、すっかり惚れちまった。
さすが愛の神さま、エロスはセンスがいい。
黄金の矢を放つために、この曲を選んだ。
お嬢さんが水の中で、それこそ恋人と過ごしている、官能的な一面もあるがね。
水の透明さ…。
澄んだ美しさまで、醸し出す曲じゃあないか。
「水の戯れかあ。ケンイチがウェスタの巫女に仕えてなければ、水の中に住んで貰えたかな?」
おやまあ。
お嬢さんの声もはずんでいるし、冗談まで飛び出した。
音楽の放つエネルギーは、計り知れないな。
フフフッ。
泣いたカラスがもう笑う、良かったな。
「ありがとう、気持ちだけ貰っとくよ」
「ケンイチは、肺癌だったでしょう?
やはり水の中は、苦しいの?」
お嬢さんは、本気で誘っているわけじゃない。
勘違いしないでと、笑う。
素直で優しいお嬢さんだ。
ふさわしい男性と、逢えるはずさ。
「俺の外見は30代だけど。肺癌で人生を全うした時は、70代だった。
永遠に生きるからには、肺に負担を掛けたくはないね」
「それなら、なぜウェスタの女神らと生きると決めたの?生まれ変われば弱い肺も、治ってるはずじゃない」
…たわいもない会話を、続けてくれ。
エロスと打ち合わせた通りに、進める。
「ウェスタの女神や巫女さんらが、シンボルの炎で、人間や地球を守ると決心してるから。
その信念に惚れちまったんだ。
生まれ変わるより、ウェスタの炎を守る方に、魅力を感じたんだよ」
「惜しいなあ。ケンイチが恋心を失わなければ、私と一緒に水中に住めたのにね」
「ありがとう。お嬢さんには、ふさわしい男性が現れるから心配しなさんな。
ほら、頭の後ろを湖に映してごらん」
俺は自分の後頭部を、透明な水面に映す。
モスグリーンの水面に、自分の黒髪が揺れて見える。
「あれっ?いつの間にゴールドのバレッタが、髪に溜まってる」
同じようにした彼女が、目を見張る。
エロスは物音一つ立てず、ゴールドの矢を放ち、見事に命中した。
同時に鉛色の矢が変わった、あのバレッタは消えたのだ。
さあて、俺の出番はここまでだ。
エメラルドグリーンの蝶々が、飛んできた。
お嬢さんがバレッタを留め直している内に、姿を消そう。
俺は物音を立てず、蝶々の背中に乗った。
そのまま静かに、上昇する。
「ケンイチ、ありがとう…。貴方は私が恋をした人に、見送られたんでしょう」
ああ、さすが水の妖精だ。
俺が倫太郎先生の患者で、看取られた経緯も把握してたんだな。
「その通りだ、でも安心なさい。
黄金のバレッタをつけたからには、オンディーヌに相応しい男性が現れる。今度こそ、水の中に住んでくれるよ」
それほど、時間を掛けずにね。
エロスによると、このバレッタは「恋を引き寄せる」だけでなく。
身につけた本人も、ひと回り成長するんだとか。
だから、相応しい恋ができる。
「ありがとう。
もし貴方とエロス様がピンチに陥った時は、助けに行く。
このバレッタに、意識を向けてちょうだい」
お嬢さんの声が、だんだん遠のいていく。
「ありがとう、万が一の時は頼むよ」
炎と水だな…。
神々の世界は、なかなかドラマチックだ。
助け合える仲間は、貴重だ。
完全にお嬢さんの姿が見えなくなった頃、エロスが現れた。
「ケンイチお疲れ様、ローマへ帰ろう」
仕事が無事に終わり、晴れ晴れとしている。
元々ハンサムだから。
艶やかなスカイブルーの蝶々に乗っても、サマになる。
「エロスこそ、羽の痛みは大丈夫かい?再診を受け損ねただろう?」
「倫太郎の薬が効いてるから、大丈夫だよ」
「どうしてもって時は、診察してくれるよ。俺は最後、何度か緊急で往診に来てもらったんだ」
神々と共に仕事をするなんて、生前は考えてもみなかったが。
倫太郎先生と亜子さんが、古代の神々と女神の体調管理を任された、不思議な縁のお陰だよ。
人生って、面白いな。
今度は俺がウェスタの女神や巫女らと共に、二人を見守っているのだからね。
お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました
写真 文 Akito