「亜子ちゃん。まっ、まだ終わらんのか」

ゼウスは左後方へ顔を背けたまま、妻ヘラの右手を握りしめる。
 
「貴方、しっかりして下さいな。父親クロノスさまの方が、手ごわい方でしたでしょう?」
 
ヘラが慰める話題は、大昔の出来事だが。
採血以上に、波乱万丈な時代だ。

ゼウスは兄弟と結託し、父親のクロノスと争い勝利した。

それから兄弟間の「くじ引き」で、天界の王の座を射止めたはずだ。
 
「血液は引けています。あと少しで終了しますから、大丈夫ですよ」

亜子はゼウスの右前腕、肘付近の尺側皮静脈から採血中だ。
 
実のところ。
神々の帝王ゼウスは「採血や穿刺も」、苦手だった。

だからヘラは心配して、付き添ったのだ。
これだけは愛人や他の奥さんに、任せられないわッ…てね。
 
紘一さんや公彦さんが保管する「禁断のカルテ」によると。過去なんども、ゼウスは自ら診察を中断していた。
 
その理由が「検査が大の苦手だから」と、判明した。
ガレノスが診療情報提供書に記載、いいやカミングアウトしてくれたのだ。
 
ゼウスは「精密検査」…採血に限らず、苦痛を伴う検査が、ホントに嫌いだった。

気象を操り、雷まで落とせる「帝王ゼウス」にも、苦手な物があったとはなあ。

俺は古代の神様の人間っぽいところが、逆に親近感が湧くよ。
 
これまでゼウスは、前任者が検査を勧めても拒んできた。
だから血液データーも、全く分からない。

今回の主訴、心窩部痛や食後のもたれ感に関係する、腫瘍マーカーやピロリ菌抗体もデーターを取ってない。
 
症状が悪化すると受診を辞めて、ガレノスを頼るもんだから、さすがに彼も手を焼いた。

そろそろ精密検査をして、悪性疾患の有無を調べるべきだと、ゼウスに迫ったらしい。
 
…内服治療は限界だ。精密検査をしないなら俺は輪廻転生して、新しい時代で生きるからな。正直、そちらが魅力なんだよ!

…何千年も神々の元で生きてこられたのは、誰のお陰だっ!
 
こんな具合に、ゼウスとガレノスの間で、すったもんだあったらしい。

長い付き合いで、ツーカーの間柄だからこそ。
ガレノスはゼウスの状態を、懸念していた。
 
その旨を、診療情報提供書にしたためていた。
 
「ゼウス殿について、報告致します。
心窩部痛は間欠的で、腹部全体の不快感や膨満感が増している。
食後のもたれ感や胸やけは、断続的。
自覚症状はここ半年で、強くなっています」
 
ガレノスは現代の医療こそ、実践してないが。
あちらの世界でも、学ばれていた。
 
「身長178センチ、体重65キロ。
症状が強くなってからマイナス4キロ、BMI20
潰瘍や悪性疾患の有無、検査が必要と考えます」
 
ガレノスはギリシャ語で綴っていたので、これを紘一さんが訳してくれた。
 
「ゼウス殿は基本、検査が苦手です。
過去、診察を自己中断した理由も。
採血等を始め精密検査を、勧められたからです。
今回はご本人と奥様へ、潰瘍や悪性疾患の可能性も否定できないと、説明をしました」
 
以上が、ガレノスの報告なんだけど。

俺と亜子は、触診や聴診を始め、彼を診察していくうちに。
ガレノスの判断は正しいと、実感した。

ゼウスの黄金色のトーガに隠れた全身は、絵画に描かれる姿と異なり、筋肉も落ちていた。
 
「ギュスターヴ・モローは俺にピッカピカの衣装を着せて、お腹ぽっちゃりに描いているだろう」

「マッチョだったのは、随分前よ。寄り道しながら美味しい物を食べても、痩せる一方だわ」
 
ガレノスとヘラも、体の変化に危機感を抱いていた。
 
「では、今後の予定をご説明しますね。来週の月曜日、19時から内視鏡検査を行います」

亜子が採血を終えたので、今度は俺の出番だ。
 
「そのために必要な検査を終えたからには、もうやるしかないな」

ゼウスは頬を引きつらせながらも、了承した。
 
ウチは訪問診療専門だ。
連携する地域のクリニックへ内視鏡検査を、依頼した。

当日すぐに内視鏡が行えるよう、必要な検査は全て実地した。

在宅用の小型医療機器、レントゲンやエコーが、まさかこんな形で役立つとは、思わなんだ。
 
承諾書と注意事項を載せた書類を広げながら、説明を続けた。

内容は一般的な事例と同じだ。
特にゼウスの場合は途中で精検や、腫瘍を切除する可能性が高いと、補足した。
 
この間、二人は真剣な眼差しで、じっと耳を傾けてくれた。

はたから見たら、外国人夫婦がICを受けているような状態だろう。

最後に承諾書のサインはゼウス本人と、どうしても記入する言い張った、ヘラの署名も頂いた。
 
夫婦を見送ると、診察室が妙に静かに感じた。

「あの二人が揃うと、華があるね」
「音楽でも聴きながら、残りの記録を済ませてしまおう」
 
亜子は再びカラヤン指揮、タンホイザー序曲を流してくれた。
ワーグナーの深遠な音楽のように、かつて神々の世界も広大な物語が繰り広げられた。



 
亜子と手分けして、それらをカルテに記録するには訳がある。

ゼウスの父親クロノスも、同じ消化器症状でガレノスのフォローを継続していた。
 
かつてクロノスは、
「自分の子供をゴックン」してしまった。

「母親ガイア」と「父親ウラノス」に、子供に倒されると脅されたからだ。

しかしゼウスは「ゴックン」の難を逃れて、誕生する。
 
成長した彼は、クロノスが「ゴックン」した、他の兄弟を救う。

この時に制吐剤を授けたのが、のちに最初の妻になる女神メティス。
 
そしてクロノスのお腹から出たのが、5人の兄と姉。正妻になるヘラ、女神ウエスタなどね。

この後、先ほどヘラが語った、ゼウスとクロノスの攻防戦が始まる。

ゼウスは父親クロノスに、勝利するが。
 
彼もまた「祖母ガイア」と「祖父ウラノス」に、そそのかされてしまう。

「子供に倒されてしまうぞ…」ってね。

ゼウスはそれを信じたもんで。
最初の妻メティスを「ゴックン」してしまった。
 
同じ症状を抱える、ゼウスとクロノスを診察したガレノス曰く。
 
「どうやらゴックンをすると、徐々に消化器症状が現れる。
自分の体ではないから、異物でもあるし。
炎症を、起こすのだろうか?
検査結果を教えて欲しい

そしてゼウス殿だが。
彼は昔、大腿部分に自分の子供を隠した。
この時の縫合がトラウマで、採血など穿刺する検査が苦手になったのだ」

 
彼は診療情報提供書とは別に、綴っていた。

最後の部分は、なんだか胸が熱くなった。
ガレノスは、ゼウスのプライドや、優しさも理解しているのだろうなあ。


「神々の世界も、ストレスフルだね」
「人間界と同じだなあ」
 
亜子と俺はワーグナーが音楽で表現した「異界」から、かつて神々が誕生した時代に想いを馳せた。

 
お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました
写真 文 Akito
 
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