昨日の続きより
前奏は金管楽器の細い音色から始まる。
これはワーグナー作曲、楽劇タンホイザーから夕星の歌だ。聴衆は息をひそめ、固唾を飲んで見守る。
ステージの中央ではヴォルフラム役のテオが、顔をやや上に向け、夕星へ願いを込める。
「O-du-mein holder Abendsten……」
ヴオルフラムは密かに想い続けたエリーザべトの最後を悟り、朗々と歌声を放つから胸に響くな。
ああ、このタンホイザーは劇中にハープの音色が、ポロン、ポロンと奏でられ、これがまた波をうつような音色で、うっとりする。
この夕星の歌で奏でるハープの音色は、魂の救済的な意味を感じるなあ。
エリーザベトは快楽に身を落とした、恋人タンホイザーの許しを請う代わりに、自らの命を捧げると聖母マリアに祈るのだけど、これがタンホイザーのテーマでもあるよな、愛と救済ね。
宗教色も含まれる深淵な作品だよな。
だからヴォルフラムは、彼女の死期は近い、魂を救済してくれと夕星に願いを込めて歌うわけで。そう、この渋いバリトンがねえ、また胸を貫くってもんよ。
「ベッカーさん、いつキイテモ……」
「そう、いいもんだよね。アヒム先生、ワーグナーは最高だよ」
グスッ、ウッ……。
コンセルヴァトリウムのホールは、すすり泣きと嗚咽があちこちから漏れる。
俺の左斜め後ろに腰かけるワグネリアンのアヒム先生とベッカーおじさんも、ご多分に漏れず俺の背後で男泣きしているよ。
俺もぐっと胸が熱くなって、もうねえピンク色のタオルを目元から離せないじゃん。
「俺達のような渋い男はね、ヒーローやけなげに恋人を待つヒロインだけに、心を奪われないものなのよ」
俺の左斜め後ろに腰かけるクリストフに背中を突かれる。さすがのテノール王子も、男の哀愁すら感じるこの歌に感情移入しているのだなあ。
オペラの劇中では、ヴォルフラムはたいがい騎士の衣装で竪琴を持ち、これをつま弾きながら歌うのだけど。このステージではシックな黒のタキシードってところも、逆に凛として映える。
もちろん、お客様の心をわし掴みにしている「チーム・ワーグナー」が披露したのは、この夕星の歌だけではない。ワグネリアンいや、タンホイザーファンには珠玉の名曲が行進したのさ。
主人公、ヴァルトブルグ城の騎士、吟遊詩人のタンホイザー。この役は学生エーリヒが務め、ヴェヌス賛歌を煌めくハープの伴奏で酔わせてくれたしさ。
酔わせて貰ってナンだけど。
学生さんの歳でヴェヌスを称え、やっぱり俺は恋人のところへ戻るぜ、あばよ。って歌うのも、冷静になって考えると、大人だなあ。
それにさ、タンホイザーはヴェーヌスベルグ、快楽の世界に身を堕としていて、そこから恋人の待つ現世へ戻るが。最終的にはこの罪の許しを、ローマ法王に願い出るのだが叶わないのよ。なかなか意味深い物語だ。
で、この歌の後は。
テユーリンゲンの城主、ヘルマン1世が開く、愛をテーマにした歌合戦ね、大行進曲の合唱も当然披露された。
まあ愛とは何ぞやって、トコなんだけど。
ここではタンホイザーが「快楽の愛」を、ヴォルフラムが「純粋の愛」を歌うでしょ。そのスケールの大きさや、歌唱力にも圧倒されてしまった。
ちなみにヴォルフラムも、タンホイザーの仲間で、吟遊詩人の騎士なんだよね。
コレペティ和田英人さんがレッスンし、それを仕上げたバリトンのギード教授とバスのフード教授が心血を注いだソリストも合唱も、渾身の出来栄えよ。
男子学生は騎士をタキシード、女子学生はブラックドレスの正装とシンプル。演出も少ないから、お客様は難しいであろう歌曲や重唱に、集中して耳を傾ける効果も抜群だったしね。
しかしここで終わらないのが、ウルトラスーパー・オペラオタクの和田さん率いる「チーム・ワーグナー」の真骨頂だ。
ちなみにバリトンのギード教授とバスのフーゴ教授がチームリーダーは、オタクの和田って決めたらしい。
だからねえこのステージの最後に、チーム・ワーグナーは、バリトンの響きで酔わせてくれるのだ。
そう、懐の深い男、ヴォルフラムの「愛」を歌わんでどうする。
「ein sel'ger Engel dort zu werden」
天国の天使となるべく……。
自らを犠牲にするエリザベートは天使になるだろう。
ヴオルフラムは、そう告げて歌い終わる。
ヴォルフラム役のテオは、自らの声の響きが消えるまで、両手を広げ顔を上げている。
そしてオケと歌声の残響が、人間の聴覚には届かなくなったその時。
バチバチバチバチ!
「Bravo!」
「ヒューッツ!」
聴衆はタンホイザー、愛と救済の物語から、現実に引き戻される。
「最高だ!」
「テオ!いいぞ!」
割れんばかりの拍手と、スタンディングオベーション。これに対して、ステージで一人佇むテオは、丁寧にお辞儀で答える。
ここで舞台袖からナビゲーターのバリトン、ドミニクとメゾソプラノのクレアがマイクを持って現れ、テオを真ん中に立ち拍手をする。なんとも清々しい光景だ。
ドンドンドンドン!
オケピットでは、メンバー達が足を踏み鳴らし、ソリストを賛辞する。
「瑠璃ね。タンホイザーに一番苦労したんだよ。カラヤンであるとか、重鎮達の表現も研究してさ」
「そうでしたか」
俺の右隣にいる指揮科のマイアー教授が、耳打ちする。彼はオケピットでソリストに向かい手を叩く、女性指揮者、谷川瑠璃さんをまっすぐ見つめている。
愛弟子の演奏に、マイヤー先生は笑顔を浮かべるから、練習過程を思い出されているのかもしれないな。
俺は素人だから、生半可な返事は逆に失礼だから、先生に頷いたあとは、拍手を続ける。
梨奈から教えて貰ったけど、ワーグナーの作品には、登場人物に対して、ライト・モティーフがあり、歌手が歌わなくても、これを変化させながらオケが演奏することで、物語の進行を脚色しているそうだ。
でも偉大なるワーグナーさんよ、すまないね。
ワグネリアンでもない素人の俺は。これが誰それのモティーフだって、教えをこうむりながらじゃないと、聴き分けることができないのだ。だから、今回もしかり。
後ろに座るプロのオペラ歌手クリストフなら、理解してるだろうけど。コイツね感動のあまり、すすり泣いてんの、気がつかない振りしておこう。でね、左右に座るアデーレ先生とエッバ先生までつられて泣いているからさ……そっとしてしておこう。
おやおや、こんな珍事まで発生だ。
「皆さん、ありがとうございます」
ステージでは「チーム・ワーグナー」が総出で、お辞儀をしていると思いきや。
「ワダ!ワダ!」
学生達が、コレペティ和田をコールして、舞台に呼んでいるじゃないか。
アハハハッ!いいねえ、シャイな男の登場だよ。
「コレペティのヒデトですっ!」
後半は赤いドレスに着替えたクレアに右手を引かれながら、和田さんが舞台袖から現れる。
フフフッ、タキシード姿だけど、短髪をポリポリ掻きながらさあ明らかに照れてるよ。でもかっこいいぞ。
「オペラ科のコレペティ、ワダです」
タキシード姿のドミニクが、和田さんへマイクを向けて、コメントを求めるけど、彼はホントにシャイで、ちょろっと挨拶しただけだ。もう勘弁してよと言わんばかり、拍手で成功を祝う学生達に両手を振る。
俺はチラッと左後方へ首を傾げる。
すると、ワグネリアン脳外科医アヒム先生とタクシードライバーのベッカーおじさんは、二人そろって、右手でオッケーサインを作り、満面の笑みを浮かべているから。
「ワーグナーが聴けて、俺も嬉しいよ」
一言伝えて、同じようにサインする。
いやはや後半ステージのトップバッター、チーム・ワーグナーは大盛況で終了したな。そう、俺は幸運にもプログラムの進行を、勘違いしていたのだ。
シュテファン寺院からここに戻ったあと。
瑠璃さん指揮するタンホイザー序曲が終了したタイミングで、コンシェルジェを務める女子学生さんが、ホールへ通してくれた。クリストフが彼女に伝言してくれたお陰だった。普通なら、ありえないからね。
なので、俺はエッバ先生の手前に腰掛けている。最前列から一列前の、通路側だ。
もともと俺が座っていた、梨奈の師匠ライヒ姉妹の真ん中には、テノール王子がいる。いやはや雪で濡れたクリストフのコートは楽屋に干してきたけど。さすがにあの小箱は、こっそり渡しておいた。
「やべっ、そのままにしてた。昨日買ったんだけどさあ、リリーがコンサートの支度に忙しくて、渡すタイミングをのがした挙句、コートのポケットに入れて忘れてた。俺もお前もバカだな」
うっかり王子は、雪の中をコートも羽織らず歩きまわろうとした俺と、大事な贈り物を失くしかけた自分に呆れていた。
その小箱を、ニヤッとテレ隠ししてもテノール王子は、ダンディなのよね。
「さあ、みなさん。チーム・ワーグナーに盛り上がったところで、名残りおしいですが」
「はい、次に進みましょう」
ステージでは、ナビゲーターもすっかり板についたドミニクとクレアがステージを進行する。
「前半ではオペラからカルメンと魔笛。そして後半はワーグナーの楽劇、タンホイザーでしたので。雰囲気が変わります。では、どうぞ!」
すっと舞台が暗転し、ナビゲーターの二人の姿が消える。代わりに、背の高い男性がステージの中央に姿を現すものの、シルエットだけで全貌は明らかでない。
うす暗いホールはオケピットだけが、ボワンとほのかに明るい。
指揮者の瑠璃さんが、タクトを振る。
オーケストラが華やかな前奏を始める。
ああ、これは……フッいいねえ。
「ヒューッ!」
「Hwoo-!」
バチバチバチ!
お客さんも一瞬で反応するし。
待ってました!と言わんばかりだよ。ウィーン子なら、おそらく知らない人はいないだろうな。
「Dein ist mein ganzes Herz…」
私の心は全て君のもの…
甘いテノールの歌声が、語りかける。
これはフランツ・レハール作曲、オペラ微笑みの国から、君こそ我が心の全て。
ステージのライトが、タキシード姿のロルフを照らす。
「Hwoo-!」
ハハハッ、斜め前に腰かける数人の女子大生、胸のあたりで両手を組んで、ロルフを見つめてるよ。
ロルフも整った顔立ちに、甘い歌声だ。これは近い将来テノール王子の資格ばっちりじゃん。
実際、彼は歌唱力も高いと、元祖テノール王子は評価している。
「Wo du nicht bist,…kann ich nicht sein」
君がいないところには…私もいることはできない…かあ。
「この曲って、くすぐったい歌詞だな。私の心は全て君の物、かあ……」
「だから人気があるのだろうね。メロディーもドラマチックだしね」
梨奈が自宅のピアノ室でこの曲をさらっていた時、俺もピアノの椅子に半分腰かけて聴いていたけど。
くすぐったいと言ったのは、照れ隠しだ。男はね案外ロマンチックなんだよ。
オペラやオペレッタの歌詞に込めなければ、俺は梨奈に言えないね。
「歌ってみるから、聴いててね……明日はロルフの歌唱レッスンなの」
梨奈はスルーした、その証拠に顔が赤かったからね。
お時間を割いてお読み頂き、ありがとうございましたそれではまた明日
だんだん春めいてきましたね、良い一日をAkito
参考引用
tsvocalscool.com
ワーグナー作曲 楽劇タンホイザーより 夕星の歌
レハール作曲 微笑みの国より 君こそわが心のすべて
一部歌詞引用