空は厚い雲に覆われ、ウィーンの街は銀世界だ。
俺はコンセルヴァトリウムを抜け出し、ケルントナー通りを北に進む。
彼女と約束の場所は、シュテファン寺院だ。
「どうしても会いたいの。待っているから」
彼女から、突然こんなメッセージが届いた。
速足で歩くと、白い呼気が煙のようにのぼる。傘もささずに出てきたから、黒いコートに雪が積もる。白い雪を払いのけながら、先を急ぐ。
ほどなくシュテファン寺院前の広場に到着する。
雪化粧した寺院も、幻想的で美しいな。
そろそろライトアップが点灯する時刻だから、これを目当てにする見物客も案外多い。雪に覆われた寺院のライトアップも見所の一つだ。
シュテファン寺院はウィーンのシンボルであり、俺の願いを叶えてくれた場所だ。
しかし、寒いな。
俺は広場に集まる観光客に、ぐるっと視線を向ける。
彼女は到着していないな、いっそ待ちぼうけを食らっても構わない。
コートのポケットから、ピンク色のタオルを取り出し雪を払う。このコートを汚したりしては、貸してくれたアイツに申し訳ないからな。
某ブランドのコートは軽くて暖かい。俺の物じゃないから、丁寧に扱わないといくら何でも失礼だし、クリーニングして返さなきゃなるまい。
「コレを着て行けよ。スーツで歩くなんざ大馬鹿だ。風邪をひくぞ」
俺がコンセルヴァトリウムの出入り口で、降りしきる雪を見て躊躇していたら、クリストフが自分のコートを貸してくれた。
俺のコートはクロークに預けたままだったから、それを取りに戻るわけにはいかなかった。
気持ちを落ち着かせるつもりで、空を見上げる。
シュテファン寺院のシンボル、ハプスブルグ家の紋章を記したモザイク屋根や、背の高い南塔まで白く覆われている。
あの時は、ここまで雪は積もって無かったなあ。
「彼女と日本で再会させて欲しい」
数年前、俺はこの寺院の礼拝堂で膝まずき、祈りを捧げる女の子を見つめながら、胸の中で神に願った。
クリスチャンでもない俺が、どうしてそんな願いを神に託したのか、あの時は自分でも不思議だった。
しかし叶った。
ドン、ドン。
「俊…」
突然背後に衝撃を受け、そのまま抱き着かれるから、現実に引き戻される。
「俊、久しぶりね。ずっと会いたかったの。だからウィーンまで旅行に来た」
ファーコートのグレーの袖が目の前に現れ、腰にしがみつく腕に力が籠もる。
「お久しぶりですね」
俺は抱き着かれた腕を振りほどき、彼女と向き合う。
大きな瞳はアイラインが引かれ、口元の赤いルージュは整った顔立ちを、さらに際立たせる。
全身をファーコートに包み、足元はパープルのブーツで、首にもファーのマフラーを巻く。
俺と離婚した彼女は、慣れた手つきで胸のあたりに積もる雪を払う。
「自分でできますから」
動作をやめてもらうように、手で止める。かわりに、梨奈のスーツケースから持ち出した、ピンク色のタオルでコートの雪を払う。
「ピンク色のタオルなんて、随分可愛い趣味ね。昔はクールなモノトーンばっかりだったのに。ひょっとして、お子さんを授かったの?」
彼女は傘をかざしてくれるが、これにも入らない。
「愛娘が一人です」
1歳のアスリーはワンちゃんだけど、愛娘には違いないからな。
「冗談でしょ?
再婚した人は、音楽の仕事で多忙なはずでしょう?」
彼女が目を見張る。
「よくご存じで」
ってか、本当に寒いな。とにかく早く切り上げよう、ここに来る前から、そうするつもりだった。
「ウイーンへ旅行にかこつけて、私が勤めるホテルを調べて宿泊するとは、貴女らしいですね」
彼女は恋人を連れて二日前から、俺が勤めるオペラ座近くのホテルに宿泊している。
「コンセルヴァトリウムのコンサート情報まで確かめて、このタイミングで呼び寄せる。彼は一緒ではないのですか?」
「俊と会うために、彼女が仕事の時間を選んだのよ」
会いたいねえ…。
もし、彼女の誘いを断ったら、コンセルヴァトリウムまでコンサートを観にきたはずだ。
で物見遊山がてら、俺達夫婦や友人の前にさりげなく姿を現す、こういう事を普通にできる人だ。
下手すれば、梨奈が控える楽屋まで挨拶がてら、回り込んだかもしれない。
「彼は雪が降っているから、ホテルのバーで飲んでるわ。だからケルントナー通りで、買い物をしてくるからって、出てきたの。
貴方ったら、ホテルのフロントでは、必要最低限しか口を利いてくれないから、わざわざ時間を作ったの」
「そうでしたか」
横浜のホテルに勤めていた頃、ジュエリーデザイナーの彼女と出会い結婚したものの。自由奔放な性格と、もともと裕福な家庭の出身だから、すれ違いばかりの結婚生活に、俺は疲労困憊していた。
もう駄目だ別れよう、これが最後の海外旅行だ。決心した矢先、オペラ座で梨奈と出会った。
「近くのカフェに入りましょうよ。俊も私と話しをしたいから、来てくれたのでしょう?」
「そうではありません、勝手な真似は困ります」
俺の右手を握ろうとするから、クリストフのコートのポケットに両手を突っ込む。
あれ?
アイツもうっかりしてんな。大事な物を俺が落とすぞ、せめて内ポケットへしまっておけよ。
気が付かなかった俺も悪いけどさ。コートの深いポケットに小箱が入れっぱなしだ。お互い大馬鹿なんじゃないのか?
後で内ポケットへしまおうかな、いやいや包装してあるものの、勝手に見てしまう事になるな。それはデリカシーに欠けるってもんだ。うーん、困ったな。
「俊、ウソばっかりつかないで。私と再会して懐かしいでしょ?」
俺は馬鹿者かもしれないが、ウソはついてないぞ。
「とにかく、これ以上は困ります。弁護士に連絡しますよ」
寒くてイライラしてきた。仏の顔も三度まで…。
「くれぐれも冷静にな…」
そうだ、ここでイライラすると相手の思うツボだ。クリストフの甘い声音が耳元によみがえる。
学生達に軽食をサーブしていた俺が、突然携帯を凝視したもんだから、これを不可解に感じたクリストフが怪訝な顔で、読めない日本語の画面を除き込むから、正直に話をした。
その後で、コートを忘れた俺に気が付き、玄関まで追いかけてきた。俺はそのままクリストフが愛用する、ワンサイズ大きなコートを着ている。
「俊、私の話を聞いているの?」
甲高い声で我に返る。俺は軽く頷いておく。
すると、彼女が先を続ける。
「弁護士に連絡するとか、そこまで大げさにしなくてもいいでしょ?
わたしだって、あの時の人とは別れたの。俊と離婚してから、色々あったのよ。
一緒に旅行へ来た彼は、まだ付き合って日も浅いの。だから貴方が元夫だとは気が付いてないし、近況報告をしたいだけよ」
二日前、彼女がホテルへチェックインした時、以前と違う男性を伴っていたから「色々あった」と察してはいたさ。
「貴女と私は、何の関係もありません。それだけをはっきり伝えたかっただけです」
きっぱり告げる。それでも彼女は納得できないのか、眉間に皺を寄せる。
「俊、変わったわね。そんなに愛妻家だった?地味な彼女を随分、大事にしているのね」
これ以上会話を続けると、彼女はこの事態を混乱させる可能性が高いな。
「では、失礼します」
俺は丁寧にお辞儀をして、速足で歩きだす。
「ちょっと待ってよ」
背後からまだ呼び止める声がするけど、振り向かないで置く。そのままケルントナー通りを目指す。プライドの高い人だから、今度こそ二度と会わないだろう。
俺の妻は地味どころか、縁の下の力持ちコレペティトゥアなんだけどなあ。コレペティがいなければ、オペラも何も始まらないのだ。
梨奈がプロのオペラ歌手や学生達から絶大な信頼を得ているのは、影で努力を重ね日々の練習と研究を怠らないからだ。
外見や学歴、社会的な地位で人間を判断するのはいかに無用であるか、俺はこの国に来て肌で感じている。
俺はすぐにケルントナー通りへ出た。
腕時計を確かめると、すでに後半のステージが始まっている。
前半のような大掛かりな演出は一旦影を潜め、後半は各パートのソリストが代わる代わる登場して、有名なアリアや二重唱を歌うプログラムになっている。
俺の席には、クリストフが座っているから、姉妹が泣き出しても大丈夫だ。でもって、アヒム先生とベッカーおじさんの蘊蓄もクリストフのおかげで、ヒートアップしているだろうな。
そのやり取りを真面目に聞いているであろう、エルマーの様子が目に浮かぶよ。
そういえば、ワグネリアンの二人が待望する何かも飛び出すんじゃないかなあ。梨奈の上司、コレペティの和田英人さんが、ワーグナーについては苦笑いしていたっけ。フフッ、和田さんと学生の渾身の選曲は、一体なんだろう、楽しみだ。
それにさ、ステージ後半にトップバッターを勤めるのは、指揮者の瑠璃さんの彼氏、テノールのロルフだ。
彼が歌う「君こそ我が心の全て」、盛り上がるだろうな。ロルフも甘い歌声だから、この歌が似合う。
これはフランツ・レハール作曲オペレッタ「微笑みの国」から、テノール歌手の十八番だよ。それこそハインツ先生やクリストフも、どれだけの女性を魅了しているか…。
やっべ、急ごう。この1曲は聞き逃しても仕方ない。我がままな子供みたいだけど、俺は何としても、全曲を堪能したいのだ。
「シュン、アタシとヘラの蝶々夫人も楽しみにしてね。カマクラのお友達から送られた着物をリナに着つけて貰うから」
「アタシとユリアは、コジマより美しく変身するよ」
「俺のために、スタンウェイを運んでもらったんだ。調律もしてくれたし、準備万端だよ。2曲だけリナの伴奏を頼んだ。この2曲は絶対梨奈のピアノ伴奏じゃなきゃ嫌だ、当然でしょ?」
リナが教えた学生達から、こんな賛辞を受けた。
俺は楽屋で何度も泣きそうになって、本当に困ってしまった。
で、梨奈のスーツケースを物色したら案の定、涙を拭くハンカチは持参しておらず。ピンク色のタオルが数枚準備されていたから、それを使っているわけよ…。
ほどなく、ケルントナー通りを左に入り、ヨハネス・ガッセ(路地)を進む。この辺りは旧市街だから、古い建物が軒を連ねる。シュテファン寺院までの往復はそれほど時間もかかっていないのに、雪は更に積もっている。
ここまでくると寒さも感じないし、俺の胸は高鳴っている。さきほどの一件は夢だった、そんな風にさえ思えてしまうから、これは音楽の神さまの仕業かもしれないな。
コンセルヴァトリアムの、ガラス張りの入口の前に立つ。コートを脱いで、ピンク色のタオルで丁寧に雪を払う。ついでに濡れてしまった、パンツの裾も拭いて置く。
「音楽の神様、続きを楽しませて貰いますよ」
胸のうちで呟く。
はやる気持ちをおさえながら、ガラス張りのドアを押して中に入り、ホールを目指す。
コートの右ポケットには、アイツの大事な決心もちゃんと忍ばせてある…。
俺と梨奈も、あの頃と比べもにならないほど、幸せなんだ。
そういえば、リリーは疲れているのに、大好きなケーキとコーヒーを、余り欲しくないとかなんとか、楽屋で話していたけど、体調は大丈夫なのだろうか。アイツも俺も、ついうっかりするからね。
お忙しい中、時間を割いてお読み頂きありがとうございました続きはまた明日
良い一日をAkito
「君は我が心の全て」
テノール歌手の歌声を聴き比べてみると、それぞれ魅力が異なり、声の特徴も分かりやすいです。歌詞の意味もぐっとくる素敵な曲。
最近ドキッとしたのは、バリトンくらいの低い声域を持つテノール歌手が歌う、この曲でした。