2003年10月、目覚めると寝室はほのかに明るく、カーテンの隙間から、日の光が差し込んでいた。時計の針は、午前10時を過ぎていた。
「でね、最終的にエッバ先生がアデーレ先生を助っ人に呼んできて、二人の仲裁に入ったの。コレペティは、伴奏だけでなく喧嘩の仲裁も完璧ね、ってリリーは大笑いするし。
わたしはオペラ科の教授が言い放った、大人気ないセリフが可笑しくて、笑いをこらえるのに必死だったの。アハハハ!」
「そりゃそうだ、ハハハ!」
「ワン、ワン」
寝坊したから、ブランチを取っているが。食卓に笑いの渦を巻き起こしているのは、昨日オペラ科の学生が提出した、リサイタルのプログラムをめぐる珍事だ。
「ギード教授はバリトンなのね、彼の言い分では、カッコしいのテノールなんかほっておけ。バスのフーゴ教授は、バスとバリトンの積年の恨みだ、二人は気の済むまでやれ、だってさ」
梨奈はアウガルテンのカップ、ウィーンの薔薇を手に持ち、珈琲で一旦落ち着こう、と言いながら、口をつける。
喧嘩した大人は…いわずもがなあの王子と、上司の教授でテノール歌手だ。
「フッ、オペラの劇中では、テノールにいいとこを持っていかれるから、こんな時は鬱憤ばらしかな?
フッ、アイツのセリフをまねてみよう」
俺も可笑しくて、何度も吹き出してしまう。渦中の人物に悪いが、我が家の食卓は笑いの相乗効果だ。俺の横にお座りするアスリーまで、時々声をあげて何かを訴えている。
「俊さん、モノマネ得意だったかな?」
「そこそこね」
俺は珈琲を啜りながら、思い出し笑いが止まらない梨奈へ頷く。
「じゃ始めるぞ…。
ピンポンパンな事を言ってんじゃねえよ、このアタマデッカチ!だろ?
カッカする時に聞きかじりの日本語を使うから、頓珍漢をピン・ポン・パン、オペラトゥーランドットに登場する3人の大臣と、言い間違えるわけだよ。もうさあ、クリストフの様子が目に浮かぶよ」
「うまい、うまい。でねクリストフの先輩、テノールのハインツ教授は。
誰のおかげで、ここの講師になれたと思ってるんだ、このオンシラズ!。
お互い譲らないから、解決すべきハンスの件はそっちのけなの。
そこへ最年長のアデーレ先生が登場して、いい加減にしなさいっ!
一括して、なんとかその場は収まった。でもね、ハインツ先生の部屋で、学生がいなくてよかった、聞こえていたら信頼を失いそうだもの」
「確かにね。それにせっかく考えた魅力的な企画も、一部変更だしさ、ガッカリだよな。
ハンスのオフロフスキー侯爵役は、想像するだけで、胸が高まるのに残念だなあ。
ところで食べ終えたら、アスリーの散歩へ行こうか」
「うん、どうにかしてあげたいね。でもハンスに関してはハインツ教授の一存かな。
いいお天気だから散歩日和ね。近くの教会で室内楽の演奏会があるから、覗いてみようよ」
「いいね。室内楽は仕事中にショパンのコンチェルト、ピアノ5重奏版を聴いたっきりだ」
昨日、梨奈はこの珍事の後で、メゾソプラノの学生さんに歌唱レッスンを頼まれ、帰宅が遅くなった。俺も遅出シフトだったから、家に戻れば食事をして寝るだけで、夕べはほとんど梨奈と話をする時間がなかった。
で、目覚めてからハンスには申し訳ないが、夫婦の会話を盛り上げてくれた。
12月最初の休日に、オペラ科の学生達によるコンサートを催す。で再考した企画はハインツ教授以外は皆賛成した。彼はハンスの師匠の一人だ。
学生の企画ではオペレッタこうもりから、オルロフスキー侯爵役をファルセットができるハンスに充て、彼もそれを希望していた。
ハンスは、カウンターテノール歌手を目指しているから、クリストフやリリーをはじめ、他の教授も、この機会に出演させるのがよいと、意見は一致した。もちろん、彼らはハンスのファルセットを聴いているから、判断した根拠もそれぞれ持っている。
ところが、ハインツ教授が首を縦に振らない。ハンスは侯爵役以外にソロの出番もある。練習過多になり咽頭や声帯のトラブルも、可能性は否定できない。
現在はトレーニング中だから、極力余計な負荷をかけるな、という意見だ。
もう一人の師匠であるクリストフとしては、どちらかというと繊細なハンスに本番慣れと、自信に繋げたいから、推している。
結局、テノール二人は愛弟子をめぐり、女性を魅了する大事な?甘い声をぶつけ合い、ファイトした。
最終的にアデーレ先生が登場し、収束したそうで。彼女は影の学長と渾名がつくほど、ほぼ全科のコレペティを経験し在職も長い、あっぱれだ。
そういえば、家の何処ぞを直してとか、電話を貰ったな…明日、梨奈は先生のレッスンだから、ついでに行こうかな。
それはさておき。
おそらくハンスはテノールパートを独唱し、フィナーレに使うオペレッタコウモリから、シャンパンの歌はメゾソプラノの学生が、オルロフロスキー侯爵役にあたるそうだ。
ブランチも済んだから、アスリーの散歩へ出かける。
10月のウィーンは、寒い。俺は紺色ニットと茶色のジャケット、梨奈はライトグレーのニットに、ワインレッドのジャケットを羽織って外に出る。
緑豊かな住宅街の細道を、ノーリードのアスリーを先頭に、カーレンベルグ方面へ進む。
10分ほど歩くと、地元民に愛される小さな教会に到着する。ここは18世紀に建築された、バロック様式の教会だ。黄色の外壁はシュテファン寺院のような、微細な彫刻が施されている。
二人と一匹、お辞儀をして教会の入口から、中を除く。すでに大勢の人が集まり、室内楽の演奏に耳を傾けている。
「祭壇の前で弦楽四重奏を演奏しているけれど、うーん、曲名が分からないな」
梨奈が首を傾げるから、俺も耳をそばだてる。
「あれポロン、ポロンって、はじくような音がしなかったか?中で聴こうよ。アスリーごめんな。少しだけ待っていてくれ」
「ワン!」
アスリーの黒い頭を交互になで、教会の中に入る。
左右に取り付けられた、ドーム型の窓から差し込む光はステンドグラスを通過し、七色の光が降り注ぐようだ。
かろうじて空いていた、左後列に並んで腰を下ろす。
弦楽四重奏を聴きながら、天井画に目を向ける。受胎告知からイエスの昇天までを、色鮮やかに、そして肉体の曲線美が写実的に描かれているけど、このバロック絵画は、作者不明だったな。隠しておく理由でもあるのだろうか…。
隣に腰かける梨奈も、顔を上げて天井画を見つめている。
「ポロン、ポロロロン……」
つま弾くような音色が、今度は鮮明に聴こえる。
俺と梨奈は、同時に祭壇の前で演奏する室内楽へ目を凝らす。
弦楽四重奏のメンバーはバイオリンが女性で、ビオラとチェロは男性の奏者だ。皆、黒のジャケットとパンツで揃ている。
あれ、もう一人女性の演奏家がいたのか。気が付いたと同時に、梨奈が正面を見据えたまま、俺の右腕をチョンと突く。
「ポロン、ポン、ポン……」
ハープの音色だった。
「ヘンデルのハープ協奏曲、これをハープと弦楽四重奏に編曲し…」
梨奈はポツンとつぶやく。言葉の最後は聞き取れない。
「ハープか…」
俺も一言だけ、返事をする。
厳かで、神聖な雰囲気も影響するのか、この空間全てから、美しい音色が自然に生まれるように感じて、余計な言葉を、放ってはならない気がする。
そのまま演奏に耳を傾けた。
最後の3楽章まで聞いて、教会の外へ出る。冷たい空気が、心地よく体を抜けていく。
「ワン、ワン!」
直ぐにアスリーが近寄ってくる。俺と梨奈は膝をついて、愛娘の黒い体を、左右から抱きしめる。
「アスリーお待たせ。ハープの演奏を聴いたよ」
「貴女にも、聴こえたかな?ポロン、ポンってハープの音…あっ!ヒントが浮かんだ、でもどうだろうか」
梨奈は、突拍子もない事を言う。
「どういう意味?」
梨奈は、アスリーの体に自分のおでこをつけたまま、ぎゅっと目をつぶる。
「ハープの誕生は紀元前。当時は弦の本数も少ないし、形もちがうから。もっとシンプルな音だったろうね。だからハンスの事も原点に戻って、シンプルに考えればいいと思うの。
彼は公の場でファルセットを試してみたいの。例え、椿姫のアルフレード役を降りてもね」
「んじゃ、週明けにハインツ教授とバトルをするのは、梨奈だな」
逞しくなった彼女に、胸がじわっとするから、わざと冗談を言う。
梨奈はアスリーの体から、自分のおでこを離す。
「大丈夫。都合が悪くなったら、日本語を使うの。ストレス発散になるでしょう?」
ニコッと微笑む。これはテノール王子の受け売りなのだが。アイツの母国語はドイツ語だ。当然、日本語に比べると、使用頻度はかなり低い。
「ああ、一昔前の流行語とかいいね。今後、貴方の授業は、伴奏をバックレてやるとかね…合間合間にいれたら、いっそう効果的だと思うよ」
「フフフッ、プリミティブな音色から、よどんでしまったけどね」
お時間を割いてお読み頂き、ありがとうございました良い一日を
それでは、またあした Akito