2003年10月
「デビュタントは、まさに百花繚乱だねえ」
わたしは学生が持参した、アルバムをめくる。オペラ科の授業が終了し、残った学生達とヴィーナ・オーバンパル談義に花が咲く。みんなで稽古場の床に座り、おしゃべりしていると学生時代に戻ったようで、ワクワク心が弾む。
「ダンス教室に通って、オーデションに合格すればオペラ座で踊れる。アタシはココで社交界デビューしたし、前列がアタシね」
「逆三角形とパッチリ二重のチャームポイントで、ユリアだってわかるね」
ソプラノのユリアが、大勢の男女が純白のドレスと燕尾服で踊る、写真の一角を指さす。本日はライトグレーと黄色のチュニックに合わせたレギンスは、大人ぽいドレス姿と比べてしまうから、キュートに映る。
彼女は稽古中の椿姫で、主人公ヴィオレッタ役の一人として、ポジションを得た。
ヨーロッパ人は、元来日本人と体格の差は大きい。特に声楽をやっている生徒さんは、身長の高低差に関わらず、体には程よく脂肪と筋肉がある。一見スレンダーなユリアも同様だ。
「このティアラはレンタルもあってね。でもアタシは買ってもらった」
今度はメゾソプラノのヘラが、ほらコレよ、と自分のアルバムを広げてみせる。グリーンのニットとゆったりパンツスタイルの彼女は、ヴィオレッタの友人役、フローラの一人だ。
「内容や意味合いは異なるけれど、日本の成人式みたいね。二十歳のお祝いで、振袖を着るの。ピンク色の振袖を着ているのがわたしで、オールレンタルよ。知人の呉服屋さんから、借りたものね」
私もアルバムを指さし紹介する。学生時代、鎌倉の成人式へ参列した自分の振袖姿だ。
「チョウ、カワイイ!」
「ありがとう」
女子学生が一斉にのぞき込む。フフッ女子は古今東西、カワイイ、キラキラ物に敏感だ。
「リナに教えて貰った通り、セレモニーとはいえプッチーニの蝶々夫人と比べうと、ずいぶん違う着こなしだ、こちらが正しいのよね」
アルトのエミーリアがすっと顔を上げて、ボブカットの茶髪を両耳にかける。
「それは、演出も関係するのでしょうね。プッチーニは日本について学んだ上、実際日本人に会ってイメージを膨らませたそうだね…えっ、今気が付いた。この黒いタキシード姿はハンスじゃない?ユリアと踊ったの?」
何気なくユリアが踊る写真に視線を移したら、彼女とペアを組む凛凛しいハンスを捉えて、驚いてしまった。かつて天使の歌声を持った子供は、こんなに立派に成長するなんて…まるで母親のような気分だ。
彼女の隣、わたしの左手方向に腰かけるハンスが、にゅっと顔を前に出す。
「リナ、気が付くの遅いよ。そんなんだから、ダンスの練習で旦那さんの足を引っ張るんだよ」
端正な顔立ちは、ニヤリ笑いでも爽やかなのだけど。
「そこは暴露しないでね……」
結構鋭いから要注意、なんてね。
最近、音楽に限らず学生達が興味を持ちそうな、日本文化を紹介している。
日本画や伝統工芸、他にも有名な神社仏閣など、わたしと俊さんの蔵書を選び、ここに置いている。
オペラとは無関係な伝統や宗教、芸術でも。そこからインスパイアーされる場合も多いし、柔軟な発想につながるもの。クリストフ講師の言葉を借りると、
「豊潤な感性を養ってほしい」
なのだそうで。
これは快く蔵書の持ち出しを承諾してくれた、俊さんの信条でもある。
それともう一つ、稽古後に敢えて和やかな時間を取るには理由があって。それは現在取り組むオペラに関係している。
椿姫の配役は、数人ずつキャストを決めているものの。クリストフとリリーは合唱パートに廻った学生を主要キャストへ、逆の場合もあると、わざと学生を焚きつけている。
椿姫の場合、バスやアルトは登場人物に該当しないから、これは仕方がないものの。オペラ歌手を目指すならば、厳しい環境を覚悟しろと示唆している。クリストフはユニークなのだけれど、根本は真面目だ。その凹凸に、時々驚いてしまう。
そんな環境下で、コレペティのわたしに、音楽以外で学生達をフォローできる事を考えた。
そこで、稽古が終了したら息抜きを兼ねて、楽しむ時間を持つように心がけている。
もちろん、さっさと教室を出ていく学生も多いけれどそれは、人それぞれだ。
只今、残ったメンバーとオーバンパルや、成人式など異文化トークで盛り上がっていた。
ガチャ。
ここで、稽古場のドアが内側へ開く。
「まだ残っていたのね」
リリー講師の柔らかいソプラノの声音は、薔薇の蕾がふわっと開くよう。
赤いVネックのニットと白のパンツで決めて、颯爽と歩く彼女は、さながらバリバリのキャリアウーマンだ。そのままわたしの隣に腰かけ、学生達の中に溶け込み写真を眺め始める、
「おおーっ、みんな別人のように華やかだなあ。オーバンパルはいいもんだな」
シシーとわたしのちょうど真ん中、背後から中腰で写真を覗くのは、もちろんテノール王子、いいえクリストフ講師だ。
小声で「教授へ報告して、全てゴーサイン」と囁く。
報告とは、椿姫の公演に関してだ。年二回、オペラを劇場を借りて公演しているから、二人はこの打ち合わせを済ませてきた。オペラ科の教授達も、当然この稽古の指導は加わっている。
すると、シシーがわたしの右肩をトンと突く。
「振袖も着てみたいし。みんなが踊る姿をみていたら、わたしも踊りたくなっちゃった。最近はオペラの劇中でも夜の女王だったから、踊る機会はないもの」
女子学生と話をしていたリリーが、羨ましがる。
「あっ、いいね楽しそう。わたしも基本くらいは踊れるよ」
名誉挽回、多少は踊れる姿を披露しようとその気になる。パートナーとホールドを組んで、ナチュラルターンとアウトサイドチェンジはマスターしたのだ、フフフフフッ。
ダンスは女性の美しさを引き出す、そんな魅力も体感しつつある。実際美しくなったかは、疑問だけどね。
「ねえねえ!じゃあ、リナの伴奏で踊ろうよ。先生二人含めて5ペア組めるし、人数もぴったりだよ」
ユリアが提案するけれど。
「あっ、あのう…わたしはまた伴奏なの?…」
こういう時、自己主張の苦手なわたしは、コレペティの一面、影の存在へ早変わりしてしまう。
「いいね、踊ろう!」
「リリー、私は伴奏じゃなくて、誰かと…」
組んで踊りたいのだけど…と胸の内で呟く。いいえ願望は、虚しく散ったのね。
ゴトゴトゴト
皆、一斉に立ち上がり、ペアを組み始めているし。学生達は慣れたもので、ステップしながら軽やかに弧を描き踊っているから。わたしは後ろ髪をひかれつつ、ピアノの椅子に腰を下ろす。
「リナ、たまにはシュンのタキシード姿は忘れて。俺と踊らない?」
クリストフが、柔軟体操をするリリーをチラ見しながら、シュトラウスのワルツ集をめくるわたしの耳もとでささやく。
茶色の長髪が、甘いマスクをさらっと横から覆う。
「今日はリリーコーディネートで、白シャツと黒のパンツなのでしょう?
一緒に暮らし始めたのだから、大事にしなくては駄目よ。あっ我ながら、なんてセンスの良いアドバイスなんだろう。
そしてね、あの曲ははずせないから、後ろの棚から楽譜を取って下さいな、これでわたしとのペアは十分。何でも屋もコレペティは、素早い準備をモットーにしているから、大至急動いて下さいな」
わたしなりにユーモアを交えて返事をすると、彼はクスッと笑みを浮かべる。
「はいはい、分かったよ。
二人の出会いから始まり、この国へ来たもう一つの訳をシュンから聞いて。
俺も背中を押してもらったしさ。借りを作っちゃったなあ」
数歩前に出て、棚からオペレッタの楽譜をひょいと抜き取る。そして該当ページを開き、楽譜立てに置いてくれる。
俊さんとVolksoperで魔笛を鑑賞した夜、4人で食事をした。
その時に俊さんが、私達がこの国にくるまで、乗り越えたエピソードをさらっと話した。クリストフは、それが嬉しかったのか。
「シュンとリナの出会いはオペラ並みにドラマチックだけど、俺は必然に思えるな。
俺はこの国で生まれて、リリーはイギリス。出会いはイタリア留学時、オペラ漬けの毎日だ。
苦楽を共にしたし、最終的にシシーは母国へ戻らず、こちらを選んでくれた。
あれから何年も経って、いい加減白黒つけないとさ。それこそ、他国の劇場オーディションをきっかけに、別れるかもしれない」
シシーが席を立っている間に、素直な気持ちを明かしてくれた。リリーは1つ歳上で、クリストフを程よく身守る、余裕がある。
その後、クリストフの行動の速さは、俊さんも驚いていたけれど。
「リリーの広い家に転がりこんだ挙句、住んでいた部屋の処理まで手伝わせたものの、なんとかめでたしめでたし」
胸をなでおろした。魔笛の公演も千秋楽が済んで、グッドタイミングだった。
「クリストフ、最初からLippen schweigenを弾きます、いいよね。
椿姫の稽古で雰囲気作りはできているし、だからすぐにペアを組んでいるもの」
メリー・ウィドウ・ワルツが、この空間に漂う甘い雰囲気にばっちりね。本当、こういう文化はお洒落なお国柄だと思う。
「リナにまかせるよ。んじゃあ、よろしくな」
「はいはい」
クリストフは後ろでに手を振りながら、ハンス、ユリアペアと談笑する、恋人リリーの元へ歩み寄る。
そしてクリストフとシシーがホールドを組むと同時に、学生達も同じポジションを作る。
それぞれのペアは、踊りやすい位置に広がるから、まさに舞踏会。
男子学生はデニムや綿のパンツに、トレーナーもしくわ、シャツだけれど。皆身長が高いから、女子学生とホールドを組むとサマになる。
「では数曲弾きます、楽しんで踊ってね」
一同がわたしへ顔を向け、頷く。それを見ると、わたしはやっぱり、スタンウェイがパートナーで十分なのだと納得してしまう。
鍵盤に手を置き、軽く深呼吸をする。そしてメリー・ウィドウワルツを奏で始める。
酔いしれるような甘い旋律に乗せて、それぞれ優雅にターンやチェンジをしているから、伴奏しながら、うっかりすると見惚れてしまう。
短い曲は、間もなく最終小節に近づく。
「素敵な雰囲気だから、このままもう一度繰り返しますね」
わたしは、おそらくメリー・ウィドウのラストが浮かび、踊っているであろうメンバーへ告げる。もう見ていれば分かるよ…。
この辺りはオペラ歌手も、テレビ番組やリサイタルなどで披露すると、ロマンチックな演出が多いから、大抵は目にしたことがある。
ほらね、もう一度前奏の途中から弾きなおしたら、みんなホールドを組んだまま、左右に軽くステップを踏むだけで、動きが小さくなっているもの。
これは歌手だけでなく、この作品が好きな人であれば、だれでも一度は踊ってみたいと憧れる、甘美なシーンね。こんな時、伴奏だけで影の薄いコレペティは、縁の下の力持ち以外の何物でもないけれどね。
「Lippen schweigen…」
ああクリストフが彼女をリードしながら、歌いはじめた。お互いの体をホールドしたまま、音の流れに合わせ、軽く左右に揺れている、素敵だなあ。
そう、本来ここは恋人同士の美しい二重唱で、テノールのダニロと、ソプラノのハンナが歌う。
「All'die Schritte sagen bitte……」
フフフッ、男子はフルパートが揃っているけれど、うん、いいね。
それぞれ音程を合わせてハミングするように、口ずさんでいる。バリトンやバスの希少な渋いダニロに、うっとりする女子の気持も、分かるなあ。
家で久しぶりに、バリトンボイスの俊さんに歌ってもらおうかな、日本語の歌詞は意味がダイレクトに伝わって嫌がるから、ワンクッション置いた、ドイツ語のままがいいよね。
そのまま、ハンナのパートへ進む。今度は男性とバトンタッチで、リリーをはじめ、ソプラノとアルト、メゾソプラノの女性が歌い始める。
あっハンスが、歌いながは踊るユリアを、上手にリードしているな。そういえば、あの二人は付き合っているのかな?伴奏オタクは人間模様を、垣間見るのも得意…。
さて、ラストの二重唱はそれぞれ自由に踊りながら、好きな声の大きさで歌いあげる。
「……にぎりしめた手と手には……」
フフフ、そのように踊りながら、最後の二重唱は日本語で歌ってくれる。いつからか、このクラスで定番になってしまったのよね。でも、嬉しいな。
「……あいが ささやく……」
ああ、懐かしい日本語の二重唱は終わってしまったけれど、最後まで美しく弾いて、終曲しよう。
わたしは、軽く体を左右に揺らす皆を眺めながら、ピアノの残響に耳を傾ける。フフフッ、皆さま最高の笑顔ですよ。
「じゃあ、このまま音の流れに乗って」
次の曲は雰囲気が変わるから、一度言葉を切る。そして。
「美しき青きドナウ はじめます」
わたしはウイーンの森に差し込む木漏れ日が、音楽へ変わっただけであるような、光に満ち溢れるワルツの前奏を弾き始めた。
お忙しい中、最後までお読み頂きありがとうございました続きはまたあした
良い一日をお過ごしくださいAkito
参考引用楽譜
音楽之友社
最新・オペラ名アリア集 オペラ重唱曲集
メリー・ウィドウワルツ より一部引用