2003年 10月
「……piu’caldi baci avra’!」
本日午後は歌唱レッスン中。
椿姫乾杯の歌より、アルフレード(テノール)の独唱パートだ。学生はテノールのハンス。
ここで一度、伴奏を止める。
「ハンス、ここはもっと軽やかに。気になったのはpiu’のu、このレの音なのだけど。引き気味に軽く歌いあげて、すぐに次のcaを歌いますが。一音上げて装飾から入ります。でも突出せずに発声して、エルの音へ続けて下さい。avraの、最後のaの音も強調しすぎない」
音節と音の付け方は、躓きやすい。
「うん分かってる。次の小節、baci avraの部分も同じ歌い方だ」
「そうです。baci avraは、前のpiu' caldiよりも一音下げた音程で歌いますね。テノールパートはここで一旦終わり、そのあと合唱へ入りますね」
色白で高身長、かつ細身のハンスは、わたしの右斜め前付近で、自分のスコアを見ながら頷いている。
彼はメゾソプラノの音域まで発声できるし、よどみのない声を出す。今後、もっと発声法を体得すれば、カウンターテノールを得意できると、クリストフ王子いえ講師は期待している。
例えば、フィガロ結婚のケルビーノ(小姓)役や、オペレッタこうもりアルフレード男爵役などね。
ハンスに期待をかけている分、クリストフ講師はオペラ稽古では厳しく当たる。前回も相当、激を飛ばしていたのは、愛情の裏返し。
でもナイーブなハンスはこの厳しい指導が続き、ついに落ち込んでしまった。今週はスランプだ。
「ハンス、今のところ補足してもいいですか?」
楽譜を凝視するハンスへ声をかける。デニムと黄色のシャツスタイルは、あのカウンターテノール歌手とイメージが重なるな。その歌手は某ブラントの黄色系シャツを、好んでいるようだからね。
「リナ、聞いてるよ」
ハンスが視線を合わせ返事をしてくれたから、ほっと胸を撫で下ろす。落ち込むあまり、授業にうわの空では、負のスパイラルを抜け出さないからね。それに次回のオペラ稽古で、自ら厳しい状態を作ってしまう。
「では続けますね。
テノールが一旦歌い終えると、合唱が入りますね。テノールと重複する歌詞を歌いますが。合唱なので歌詞は、広がって聴こえます。だから合唱の前に歌う部分は、一層細かいニュアンスの変化を出して表情をつけると、ピアニッシモの大きさの声でも、動きを感じますね」
ここでハンスが、わたしの方へ体の向きを変える。
「俺、進歩してないかな?」
自嘲気味に呟き、苦笑いする。彼はとても繊細なタイプの歌手だ。
「貴方はそう思う?」
技と聞いてみる。本当は向上心も高いし、とにかくオペラに関しては真面目すぎるほど、懸命に取り組んでいる。
「ゼロだとは思わないけど……」
奥歯に物が挟まったような言い方だな……。
わたしはピアノの椅子から立ち上がり、ハンスの左横に並ぶ。彼と視線と合わせるには、こころもち顔を上げる。同じデニムをはいていても、足の長さと腰の位置は相当な差がある。
「ハンスなんだけど、もう少し自信を持たせてくれないか?あの声は、底知れない可能性を秘めている。アイツの場合は、修士課程で歌える程度では駄目だ。俺自身も、限界までとことん掘り下げて、ハンスにオペラを学んで貰いたい。
リナ、分かっているだろ?アイツのブルーの瞳と端正な顔立ちは、音楽の神様からの贈り物だ。それを生かすも殺すも本人次第。
テノールで主役を張るもよし、カウンターテノールでカストラートのような中性的でゾクゾクする魅力を放つもよし。俺とリリーはアイツさえその気になれば、力になるつもりだ」
前回の授業の後でクリストフから頼まれたエピソードなのだけれど、これは私も同感だ。なによりクリストフとリリーは、イタリアの大学と劇場でハンスを学ばせたいと、期待をかけている。
わたしは書き込みだらけの、ハンスのスコアーをのぞき込む。そして、今しがたレッスンしていた箇所を指さす。
「無限の可能性を感じるからこそ、ハードルを上げて学ぶ。これはしんどい事が多いですが、その山を一つ越えると自信になりますね。
自信がつくと次第に大きな山を越えられます。これを繰り返しているうちに、気が付けば数多くのオペラを学んでいると思います。
これで完璧だと止まってしまえば、そこまでの物しかできません。
先週リリーが手本を見せてくれた、花から花へ。わたしは伴奏をしながら、心を揺さぶられるような感動を味わいましたが、影では相当な努力を重ねているでしょう。
貴方も知っているでしょう?
リリーは魔笛の公演では、夜の女王役です。彼女が歌うアリアは、毎晩スタンディングオベーションが鳴りやまないそうですよ」
わたしはハンスの横顔を見上げる。すると彼はスコアを見つめながら、口を開く。
「俺が持つ声の可能性を広げたいし、カウンターテノールを、もっと歌えるようになりたい。あのドイツ人歌手みたいにさ」
ハンスはすっと頬を上げて、柔らかい笑顔を作る。ああ、クリストフとリリーが見込んだ通りだ。繊細な彼の性格は、将来必ずプラスに作用する。
「その目標に進みましょう。じゃあ、最初から最後まで通しますね」
「了解」
わたしは彼の左肩を軽く触れて、ピアノの椅子へ向かう。細身の体だと思っていたが、案外がっしりした筋肉がついているようで、逞しい体に安心した。
「では、1小節前から伴奏入れますので、入って下さい。今回は、ソプラノと合唱部分はわたしが歌います」
「オッケー」
乾杯の歌はパリの社交界が舞台だ。主人公ヴィオレッタの邸宅に招かれた、彼女のパトロンや友人が集まり、華やかな宴が催される場面。ここでヴィオレッタとアルフレードが出会い恋に落ちるという、第一幕から豪華絢爛で、息つく間もない展開が始まる。
わたしはハンスと顔を合わせ、乾杯の歌の伴奏を始める。
やがて歌い始めたハンスの声をききながら、ところどころを修正を加え先を進める。
この曲自体は3分程度と短い。
間も無くハンスが歌い終えて、修正箇所などを確認しても、授業終了まで5分余ってしまった。
わたしは、彼のキュートな経歴を思い出す。楽譜立ての横に置く、重ねたスコアの間から、一冊の楽譜を引っ張り出す。
「声の調子が良ければ、日本歌曲を歌いませんか?ハミングでもいいですよ」
「あっ、いいの?」
彼はパッと目を見開く。
「ええ、どうぞ」
素早くわたしの右横に移動する。ハンスは楽譜を受け取ると、これをパラパラめくる。
「リナ、これがいい。俺、日本語で歌えるし、昔さ意味も教えて貰ったんだ」
彼は楽譜立てに、開いたスコアを立てかける。
「そうですか、さすが名門……」
「名門かな?それより、きれいな旋律だから前奏から弾いてよ。リナのピアノを聴きたいしね」
ハンスはニコッと笑みを浮かべ、軽く深呼吸する。
「お褒め頂き、光栄です。じゃあさっそく始めます」
わたしは前奏を弾き始める。
「…フフフ フフフフフー……」
彼は右手の旋律をハミングする。テノールの歌声は、とても柔らかい。
「なないろの たにをこえて……」
前奏が終わると、彼は裏声で歌い始めた。かつて彼が所属した、あの天使の歌声に近いだろう。ああ、クリストフとリリーも聞きたいに違いない……。
「夏前までは、声楽科に在籍していたでしょう。
彼が一年時のころ、自主練している声を耳にして、ピンときたわ。だから速攻でエッバ教授を尋ねたの。彼女もこの先、ハンスを誰に師事させるのがベストなのか、その時から進路を考えていたわ」
「リナ、くれぐれもハンスをお願いね。オペラ科の教授も信頼しているけれど。
国外の劇場で多くの経験を積んだ、有能な若手ホープ、あの二人を中心に師事させたいの。リリーはソプラノだから、相手役の稽古にも充分だわ」
リリーとエッバ先生が、わたしに教えてくれた。
「リナ、ありがとうございました」
歌い終わり、終業の握手を交わす。
「はい、お疲れ様でした」
ハンスは清々しい笑顔をみせ、教室を後にした。
「天使の歌声は、俊さんに聞かせてあげたかったな……無垢な声だったよ」
誰もいないから、タオルで目元をおさえた。
時間を割いてお読み頂き、ありがとうございました。続きはまた明日Akito
良い一日を
引用楽譜
春秋出版
アリア名曲集第2巻 ソプラノ
椿姫 乾杯の歌 一部引用
音楽の友社
独唱名曲80選
花の街 一部引用