らと上総介のもとにやって来て、帰蝶を手伝ったり、湯漬けを上総介に手渡したり、牛がぽかんとする中で、気配は一挙にあわただしくなる。
上総介は篭手で口許を拭いながら、空にした茶碗を女中に突き返すと言った。
「濃、そいつの支度もしてやれ」
「で、でも、旦那様」
帰蝶がたじろいでいる。
「なんだっ! 早くしろっ!」
「この御仁の体格に合う召し物はありませぬ」
「なら、縄か綱でも巻きつけてやれ。刃先ぐらいは防げる」
そういうことで、牛は女中四人に囲まれて、額に縄を、体に綱を巻きつけられた。
牛の支度が終わると、床几から腰を上げた上総介は、らんらんとほとばしる目で笑った。
「牛、ついて参れ。出陣じゃ!」http://www.watchsindustrial.com
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「あれから十年以上も経っているのか」
立ち往生していたはずの上総介が、風雨を突き破って岐阜へと帰陣してきた。
「お前の言われた通りに軍を動かしたのは、桶狭間以来だ」
岐阜城の最上階から、ちぎれた雲のたなびく様子を眺めながら、上総介は背後に膝を付いている牛太郎にそう言った。
「悲しみは癒えたのか」
牛太郎と上総介以外には誰の姿もない。
「悲しみっていうと?」
「駒のことだ」
「時間だけが、家の者たちを楽にさせていってくれています」
「そうか」
稲葉山の頂上にすべり入る中空の風は、嵐がひとしきり薙ぎ払ったおかげか濁りなく澄み切っていた。草葉の香りも鼻先へとひとすじに伸びてきて、夏の便りを報せながら、すうっと抜けていった。
「今年も実るかな」
濃尾平野を眺望する上総介は、恐ろしく穏やかであった。雌雄を決する勝負を目前に控えている気負いがまったくなかった。どうしたことだろうと思いながら、牛太郎は上総介の背中を眺める。
「存分に戦ってきたものよ。なあ、牛」
「まだ、やり残していることもあります」
フン、と、上総介は鼻で笑った。
「言うようになったじゃねえか」
「嫌な思いをたくさんしましたから」
上総介は黙った。
「でも、信長様が言ったことは忘れていません。なんの犠牲もなく天下への道を進めるなんて思っていない。殺される者たちよりも殺していく自分たちのほうが抱える苦しみは大きいって」
上総介は初めて牛太郎に横顔を見せてきた。尻上がりに澄み上がった瞼から寄せてくるその黒い眼光は、牛太郎を確かめるような冷たさもあったが、視線を向けてきたままの沈黙は、引き連れ続けてきた臣下のこれまでの哀愁を前にして、自己の無力さを噛み締めるかのような虚無感に覆われていた。
雨上がりを喜ぶかのごとく、稲葉山の空のどこかで鳶が鳴いている。
「お前の進む道は修羅の道か?」
「いいえ。簗田牛太郎の道です」
上総介は稀に見るはつらつとした笑みを浮かべた。
「あっぱれな男よ、簗田出羽守」
決戦前夜
武田大膳が医王寺山から動いたという報告が、各所に放っていた物見により伝えられてき、牛太郎のもとにも、打ちつける雨に身を隠しながら、篠木於松が戻ってきた。
老人は陣屋の戸口に両膝をつけてひっそりと座り込み、しずくを垂れ落とすままに、陣笠の影で例の不気味な笑みを浮かべた。
「宿老たちの反対意見に武田の殿様は耳を貸さず、重臣たちは昨夜、一同に集まって、水を酒に見立てて、別れの盃を交わしておりましたわ」
「武田はそこまで絶望しているのか」
と、玄蕃が意外そうに声を上げた。
「絶望ではないかもしれませんぞ、玄蕃様」
新七郎が言う。
「命を賭してまで戦うという決意かもしれませぬ」
「於松」
と、太郎が呼びかけた。
「武田はこちらの様子を把握しているのか」
「へえ。我らが城郭を築き、柵をこしらえていることも存じておれば、設楽ヶ原がぬかるみにまみれているこ