DS(ディープステートではなくドミトリー・ショスタコーヴィチ)の交響曲の中で独特の異彩を放っていると、私は思っている。
5番、7番、10番などのような正統派と言える形式を持っておらず、2番や3番のようにイデオロギーを謳っているわけでもなく、もちろん13や14のように声楽に振ってもいない。
構成は三楽章。中間楽章が極端に短い。全ての楽章がひっそり終わる。
いっそ変な楽章間バランスという意味では6番を引き合いに出そうかと思ったが、さすがにそれは違うか。
この曲をCDで初めて聴いた二十歳前後の頃から、ほんと変わった音楽だなと思ってきた。
一言で言えば、まるでいつか見た悪夢のようで。
楽想や雰囲気がコロコロ変わる。目まぐるしく移り変わる。
途轍もない咆哮があったかと思えば、急にワルツを踊る。おや、あちらから葬列がやって来た。
サーカスの見世物小屋のような音楽が次から次へ。
まるで人生の最後に見るという走馬灯だ。
そうかと思えばラストに最大最恐の叫びがあって、最後はチェレスタが昇天に誘(いざな)ってくれるという終わり方。
これ、ほんと目覚めが悪い夢そのものなんだよな。
最初に聴いたときから、そのイメージが離れない。
もちろん、嫌な訳では無い。これはこれで大好き。大好きだけど、ほかのDSの交響曲とはちょっと違う。
曲の長さもあって、なかなか気軽に聴けるものではない。
まして、オーケストラのプログラムにしばしば載るようなものでもなく、結局ここまで30年以上、ナマの実演に縁がなかった。
このたび、実演未経験の曲についてちょっと前向きにリサーチした結果、このN響の演奏会にたどり着いたというわけだ。
N響の演奏自体は仙台で一度聴いたことがあったかな?
NHKホールは初めてだ。紅白歌合戦の会場じゃないですか。年末の第九のホールじゃないですか。
田舎者なのでそれだけで内心興奮する。
NHK交響楽団第2065回定期公演
指揮 アンドリス・ポーガ
席は、まさかの見切れ席だった。笑える。
2回の下手側端っこなので、下手の木琴や銅鑼が見えないというね。やっちまったぜ。まあ、これも勉強だ。
でもね、おかげでチェレスタの手元が実によく見えたんだ!どうだ!
演奏については偉そうにどうこう言えた人間ではないので、もう満足としか言えない。
やはり生で「眼で」聴くのはよいものだ。
先日のサントリーホールのマラ6もそうだったが、眼で追うといろんな声部や伴奏、パートの役割がありありと見えてくる。
そして特筆すべきは、第1楽章の例のプレスト!
弦の殺人的?高速フーガの畳み込みからのシンバル一発からの、そして最後は打楽器群の凶悪なる怒涛の行進。いや、行進ではなく暴走。音の壁、音の鉄槌。
いやーー、、鳥肌立った。すげーー。
改めて、この曲が作曲当時のソ連において公式には受け入れられ難いものであっただろうことを実感する。
なにしろ、自由すぎるのだ。
かたやロマンチックな歌と踊り、その傍らで葬列の行進、そして暴走する群衆、その傍らでサーカスの見世物小屋。
もう、なんでもありすぎて、いわゆる全体主義的な統制や忠実な個人崇拝などとは対極のカオス世界。
アヴァンギャルドという当てはめがよいのかどうか知らないが、前衛に過ぎる。
ところでところで、この交響曲第4番、しばしばマーラー的と言われるのだが、私にはわかるようでよくわからない。
葬送行進曲やレントラーがマーラーを思わせるから?
カッコウの呼び声?
バッチワークのような場面転換や楽器の起用?
いやたぶんそんな表層的なことではないのだろうが、私の視野が狭いせいであるにしても、具体的にマーラーとの類似点を説明してくれる論に出会ったことがない(どっかにあるんだろうね)。
確かに今回聴いていて、あ、ここマーラーっぽいな、ていう例えばコントラバスの動きに気づいたりしたけれども、そういうことじゃないんだよね。
聴けば聴くほど、マーラーの残像から離れていっていまう感覚。言うなれば、心底ショスタコーヴィチ的な交響曲。私はそう思うのだからそれで良いのだ。
寿命尽きるまでに一度は(生で)聴きたい曲リストから、ショスタコーヴィチの第4番をやっと削除できました。
でも見切れが残念だったのでまたどっかで経験したいな。