結局僕の拠点は東京なのだな。
と、ある種の諦めを含んだ心持で、しかしどこかに「拠点」という言葉を使う自分に愚かしさを感じながらも前向きにいるこの数ヶ月。

現状と共に気力が向かう先もシフトしてきていて(あくまで状況が先)「いつなにがあってもいいように」と身辺整理した事や物や人たちを元に戻して以前のベクトルにのせてはいるけど、何事も幾何学的にはいかないのだ。と思ったこと。


身辺整理の一環として、0,5畳×2mのトランクルームを代田橋に借りて、店の荷物も個人の荷物も全部そこに文字通りぶち込んで、月々4200円也を払うだけにして出発したモンゴル。
帰国後もその宙ぶらりん感をいそいそと楽しんでいたのだけど、ついにその荷物を、店と元のアナグラにそっくり戻して、なんとなく積み上げられた300冊以上ある蔵書のタイトルを改めて見て、現在の僕をある程度までは形作っていることに愕然とした。(僕個人の荷物の1/3が本であることも含め)
それはなんだか、自分の脳の未知の部分を因数分解されて物的証拠としてさらされている悲しさであり、そこにもやはりある種の諦めがあるからである。
「これだけの本を読んでおいてなにを今さら」という自身に向ける脅迫観念なのである。


ところが去年から本を読むペースがガタリと落ちたのは事実であり、そこいらへんからは、実際的な因数(factor)が自分を形作り始めていて、と同時に現実がフィクションとしても捉えられるようにもなってきた。

いろんなことを割愛するけど、
僕は本の中にも現実の自分のストーリーにも、だいたい同じ事を求めていて、どちらかが(あるいは別の何かが)その求めに応じてくれれば、他の存在はないがしろになるのではないかと思った。
10年以上にわたって不可侵の地位を誇っていた本という存在が、今後どうなっていくのか。

「状況にリンクしているのか?」というのがいちばんの関心事。