
恩師が語った“ウィークポイント”
1978年、古賀正紘は福岡県大川市に生まれている。サッカーボールを蹴るようになったのは、9才の頃。当時は、点取り屋としてゴールすることだけが、彼の興味だった。
普段はおとなしい性格の持ち主だったが、ボールを蹴り出すと少年は豹変。うまくいかなければ怒った表情を浮かべ、負ければ泣きじゃくる、喜怒哀楽の振れ幅が激しかった。我を失ったようにゴールを目指す、好戦的な一面を見せた。
しかし、ゴールゲッターとしては大成しなかった。
「FWを続けるには、正紘はセンスが足りなかったけん」
そう証言したのは、東福岡高校を全国屈指のサッカー名門校にした志波芳則監督である。FW古賀をセンターバックにコンバートした人物で、当時の東福岡は、常に全国で一、二を争った。
「あいつは器用さがなくてね。攻撃はそこそこといったところで、伸びしろは感じられなかった。
でも、性格的には真面目なのに闘争心が強く、向こう気の強いFWを跳ね返す迫力を持っていました。ヘディングの強さもそうですけど、とにかく人に対する強さがあった。
だから、『DFなら日の丸つけさせてやるけん』と正紘に約束したのを覚えています」
志波監督は、手島和希、金古聖司、千代反田充、近藤徹志など数多くのCBをJリーグに送り出している。
「正紘は我慢強い子でしたね。練習で音を上げたことはなかった。
そもそも、大川の自宅から(博多にある)高校までは往復3時間以上掛かるんですが、朝練も欠かすことはなかったですよ。優しい子で、チームメイトに対する思いやりがあった。
生活指導の部分では楽な生徒やったね。もう亡くなってしまったんですが、お母さんがとても良くできた方でね。家庭の教育が良かったんでしょう」
古賀の在校時代と、学校の風景は見違えるように変わった。
当時、砂埃舞う土のグラウンドはラグビー部と共用で、しかも注意を払っていないと隣のグラウンドで練習する野球部のボールが飛んできた。水はけが悪いため、練習着はいつも泥だらけ。部室はむせ返るほどに狭く、下級生はグラウンドで着替えていたと言う。
現在は人工芝の専用グラウンドで、練習着が泥にまみれることはない。部室は今や3階建てのビルがグラウンドの脇に立ち、便の良さは格段に上がった。
「高校生の頃は、FWをやりたかったですよ」
古賀は悔しさと懐かしさを同居させた顔で昔を振り返っている。太い眉毛、突き出た鼻、大きな眼と、顔の作りは濃い。こけた頬と顎髭がマッチョな印象を引き立てるが、笑うと目尻が下がり、人の良さが伝わってくる。
「コンバートは最初、受け入れられなくて。葛藤を抱えながらやっていました。
サッカーの楽しみは点を取ること、と考えていたから。はっきり言って、CBなんてやりたくなかった。でも、先輩に日本代表FWになった山下(芳輝)さんや小島(宏美)さんがいて、“敵わない“というのもありました。
DFをしていたらU-17の世界選手権のメンバーに選ばれ、周りから評価をしてもらうようになり、夢中でやった感じです」
結果、高校卒業時にはJリーグ12チームからオファーが届き、最も誘いに熱心だった名古屋グランパスエイト入団を彼は決意した。
「名古屋入団はその頃に監督だったベンゲルからの手紙が決め手になったと言われています。
美談で分かりやすいから、世間に広まったみたい。でも実は、僕の家族は英語を読めなくて。手紙はもらったんですけど、何ひとつ書いてあることは分からなかったんです(笑)。
それに入団したとき、ベンゲルはもうチームにいなかったし……手紙は実家で大切に保管してありますけど」
97年、Jリーグに入った古賀は1年目にして堂々のプロデビューを果たしている。185cmの巨躯が空に浮かび、相手の攻撃を跳ね返す様子は関係者を興奮させ、当時、日本代表の不動のリベロだった井原正巳を凌ぐ才能と騒がれた。ある元日本代表DFは、「ディフェンスリーダーとしてオールラウンドな能力を持っている。日韓W杯で主役となるべき選手のひとり」と賛辞を極めた。
98年11月、アルゼンチンU-21代表との試合では宮本恒靖、戸田和幸、高原直泰、中村俊輔、稲本潤一、市川大祐、小野伸二ら後に日本代表としてW杯で活躍するメンバーと同じピッチに立ち、1-0の完封勝利に貢献。12月にバンコクで開催されたアジア大会では、フラット3の一角としてスタメン出場し、当時の日本代表監督であるフィリップ・トルシエも、インターセプトと空中戦の強さを高く評価した。
99年には名古屋で天皇杯優勝を経験し、J屈指のDFトーレスとCBコンビを組んだことで著しい成長を遂げ、シドニー五輪アジア予選を戦っている。
しかし世紀を跨ぐのを境に、新鋭DFの足取りは鈍重になった。
2000年のシドニー五輪で最終メンバーから外れた古賀は、2002年日韓W杯を戦ったトルシエジャパンでも代表候補選手に一度招集されたにとどまった。2006年ドイツW杯まで4年間指揮したジーコ監督は数多くの選手を試したにもかかわらず、名古屋で絶対的レギュラーだった古賀に与えられた機会はゼロ。その後、代表を率いたイビチャ・オシム監督の「招集リスト」には入ったものの、結果的にメンバーから外れた。
「ひとつ後悔があるとすれば、もっとステップを鍛えておけば良かった」
志波監督は、教え子のウィークポイントを明かす。
「あいつはO脚なこともあって、腰高になりやすいんです。それでクロスステップがばたつくことがあってね。スピードのある相手には出し抜かれてしまう。相手に前を向いてボールを持たれたとき、どうしてもはじめの一歩が遅れて後手に回る。そこが正紘の弱点なんです」
それは古賀の欠点に違いない。しかし、日本代表に上り詰めた選手であれ、克服していない短所のひとつはあるはずだ。
「もしかしたら、あいつの持っている優しさが邪魔したのかもしれんね」と恩師は口腔で呟くように続けた。
「正紘は真面目だからこそ、Jリーグで10年以上活躍する選手になれたんやろ。ばってん、“冒険しきらねぇな”というもどかしさもあるよ。自分から思い切って殻を剥がして変身する、という子やなかった。あれやなかろうか、“毒”みたいなもんはなかったと。博多では“お利口さん”と言われるけんね。けど、それは悪かことではないばい。正紘の性格やけん」
人工芝での紅白戦を終えた選手たちが、スコアを伝えに志波監督の下に駆け寄ってきた。彼らのユニフォームは泥で汚れていなかったが、全身汗まみれだった。けたたましい蝉(せみ)の声がどこかから聞こえてきた。
☆続く☆