小林が手帳を閉じて再び開くと書いた文字が消えていた。
 
「うわっ、便利ですね」
「子供のおもちゃさ。今夜は外食しような」
「えっ?そんな…」
「知ってる店があるんだろ?ここには」
「…ああっ、そっ、そうでした。案内しますよ」
 
壁の時計が15:00を指すと内線が鳴った。
「はい、黒部です。分かりました。諸星、昼飯だ」
二人が2Fのホールに入ると、既に着席していた館員達が
立ち上がって出迎えた。
 
「お待ちしてました、さあこちらへ」
柴田が隣の席を指し示した。熊本が二人を紹介する。
「えー、今日の主賓が来られましたので会食を始めたいと思います。
お二人は本日着任されました、こちらが黒部副領事、そしてお隣が
諸星領事官補です。それでは私の隣から柴田領事、岡本副領事、
豊田副領事です」
二人は各々あいさつをした。
 
「皆さん、お二人は今回政府の特命官として上海を視察されます、
所属は当総領事館となりますが、通常業務には就きませんので
注意して下さい」
「総領事、それではお二人は主に上海の何処を視察されるのですか?」
岡本が尋ねた。

「主な仕事は上海万博の会場予定地視察、日本側パビリオンの
具体案確認、各国事業スタッフとの現地交流となります。
期間は現状で2ヶ月の予定ですが状況に応じて延長もあります」
「それは我々としても重要なイベントですね」
今度は豊田が熊本を見た。
「その通りです、開催は2年後ですが直前にはこの総領事館が
日本からの観光客受け入れの最前線になります。今から日本側の
プランを現地環境とつき合わせておく必要がありますので、こうして
お二人にお越し頂いてるわけです」
 
「黒部副領事、上海に来られた事は?」
岡本が小林を見た。
「はあ、私用で2度程来ただけです」
「それはご不自由ですね、日曜にでも市内をご案内しましょうか?」
「いえ、この諸星君が上海には詳しいので、一緒に市内を回って
みようと思います」
「ほう、そうですか。諸星さんはこちらには何度か?」
「はっ、はい。旅行が趣味のようになってまして上海には
5、6度来てます」
「そうですか、それでは旅慣れていらっしゃるのですね」
「あっ、いえそれ程ではありません」
神食満は小林を見たが彼の目は笑っていなかった。

会食は1時間程で終了し、2人の副領事は部屋を出て行った。
「どうですか黒部さん、ここの料理も中々のものでしょう」
「そうですね総領事、本場の上海蟹を味わえて生き返りました。
やはり東京の中華とは違いますね」
 
「会食は定期的に行っています、他国の領事の就任パーティー
等もありますから忙しいですよ」
「ああ、また機会がありましたらお願いします。
総領事、今夜は諸星君と市内に行ってきたいのですが」
「早速観光ですか?分かりました、誰か付けましょうか?」
「いえ、彼のお勧めの店があるという事ですので」
「ああ、諸星さんは上海通でしたね」
「いえ、それ程でも」
神食満は首を振った。
 
「外泊になるかもしれませんが」
「そうですか、外泊になる場合は柴田君に連絡して下さい。
本国からは、あなた方の行動を制約しないように言われて
いますので。
地元の警察とのいざこざだけは注意して下さい、連中が
意地になったら一晩泊められる事もあり得ますから」
「分かりました、十分注意します。それではどうもごちそうさまでした」
二人は熊本と柴田に一礼して部屋に引き上げた。
 
 
「総領事、あの二人に市内をうろつかれるのはどうも…」
「仕方ないだろう、万博の事前調査という金看板だ。柴田君、
私は矢内次官と事を構えるつもりは無いよ。君もそうだろう?」
「分かりました、では総領事館は中立という事で」
「そうだね。良い言葉だ、中立というのは」
熊本の視線は市街の中心部に向けられていた。
 
 
部屋に戻った小林達は外出の準備をしていた。
「諸星、準備は良いか?」
「黒部さん、今夜は本当に外泊するんですか?」
「お前、何か誤解してるか?まあ良い、行き道でゆっくり話そうや」
小林がウィンクした。
「あっ、分かりました」

二人はそのまま上海の市街に向かった。
中国の経済成長を象徴する町は、雑然とした中にも
活気に溢れていた。
 
                                       つづく