チャットをやってると、大人になりきれない大人が多いような気がする。これはどういうことなのか。考えてみたい。大人になりきれない大人とは自分で物ごとを考え、自分で行動できない人だったりするし、自分のことを評価できない、承認欲求が関係する人にいく、自己承認欲求が満たされない。自己肯定感が低い。などの特徴が見られる。通常、人生の中で、誰かに、その存在を認めらたことは、一人か二人はいると思う。私の人生の中でも長期に渡り、そういう人もいれば短期でもそういう人はいた。推測するに、そういう人に出会う、もしくは遭遇をしてない可能性がある。自己肯定感というのは自分でもトレーニングしていけば高められるものだ。(案外このことは知られてないようだ)
承認欲求をだれか関係する人にもっていくと、とてつもないことになる。それは永遠と続くような作業だ。誰かに認められたいという感覚だろう。その前に自分のことを自分で認めなければ、誰が認めてくれるというのであろう。例えば、料理をしたとする、その料理がよくできたか美味しいかは自分ではよくわかることだとは思う。一方でよくできた料理を誰かに認めてもらうとは、なかなか、そう簡単にはいかないだろう。料理には勝った、負けたがないからだ。絶対的な正解がない。
自分で作った料理は自分で食べれば味はわかる。
私の場合は出来が悪いと、いまいちだなとか、すぐにわかる、今度はよくできたなとか。
そうやていくうちに、料理の腕は上達するものだと思う。
それと人間性はまた別だとすると、料理がうまくできたとしても、自己肯定感が低いひとは、誰かに承認欲求をもとめるだろう。しかし自分を肯定する作業に入れば、誰かに何かを求めることが少なくなる可能性もある。例えば、本当に仕事ができる人は、仕事ができますとはいわないだろう。本当に料理ができる人は、料理ができますとはいわないかもしれない。
私が話をきいて時に愕然するのは、これこれに関しては私のほうが良くできてしってるからというフレーズだ。これを聴いて、なんだか、あんまりいい感じがしないのは私だけだろうか。
つまりこういう視点だ、私は誰かより優れている。
この時点で相手と心理的に対等に話すということは難しくなる。
誰かより優れてるとも劣ってもないという感覚が、重要になる。
最近、自分の中に怒りの芽を感じる、それを誰かにいってぶつけることはない。しかし、私の日常生活でどうにもならないことがでてくると、落胆したり怒りがでてきたりする、私はそういうことがあっても顔にはでない。世の中とうか自分の生活の中でも、どうにもならないことは多少は出てくる。全てがうまくいくということではないし、順調なときもそうでないときもある。これは自己憤怒なのだろうか。自分の中の感情の動きをみてみたいと、ふと思ったりする。それには瞑想などがベストだ。様々な外界の刺激があると、それに振り回せれ、自分自身を見失う。これは、恐ろしいことだ。そう感じたとしたら、そのような外界の刺激をシャットダウンしたほうが楽になる。自分自身を知るということは関係する人がいて知ることもある、また自分を理解し
知るということは、それなりのスキルがいることなのだ。
