こんなところ二度と見るものかと思い、お気に入りから消したものの、来ている。

大体僕は、ここが好き、ここが嫌い、というようなことがなく、ただ単に、好きか、嫌いか、という人間だ。

さらに、不幸な性格で、ここはいいところ、ここは悪いところ、ということができない。

なので元来僕はネットが嫌いなのだ。

特に最近は『1億総作家』といわれているぐらい、だれでも自分のブログを持てる。そうして僕も書いている。

少し前は、パンピーでもテレビに出られるということで、『1億総タレント』だったらしい。

ちなみに、ベトナムは『1億総ツンデレ』だ。考えたのは僕。実際には人口はそんなに多くないし、当然半分は男なので、『4000万総ツンデレ』といったところなのだろうか。


「ネットは多くの人の意見が~」とか「リアルでは会うことのできない~」と言う人もいるだろうが、僕は嫌いだ。

大体がエゴとエゴのシー・ソー・キュートで、人の頭を半分に割ってそれを見ているような気がしてしまうからだ。

それに友達でも何でもない人間の「○○しま~す☆」だとかいうものを見てもどうしようもない。最近ではネット上のことで“トモダチ”という輩も少なくないらしい。よっぽど「トモダチ」が欲しいのだろうか。


僕がもし頭を半分に割られてそれを人に見られたら恥ずかしくて街を歩けないし、数少ない僕の友達もみんな去っていくだろうし、これからもう二度と友達ができないだろう、こんなことをする奴は低俗な奴しかいない、と思い、つまりだから僕は今こんなことをしている。


それに、何も変えられないし変わらない。





少し前に読んだ『麻雀放浪記』の(激闘編)で、


「××産業の、○○でございます――」

××産業の手前、自分の臭いを消そうと努めている。いつの間にか自分の名前よりも肩書きの方が大きくなっている。いつのまにかだ。そうして私は、臭いといわれて、屈辱を感じている。


とあった。


ああ俺の感じていた違和感はこれだったのかと思った。

この時代ですでにそうなのだから、今はもっとそうだろう。


職業がなんだとか、どこの大学かだとか、どこに住んでいるかだとか、なに人だとか、挙句にどんな車に乗っているかだとか、どんなブランドのものを持っているだとかなんやかやだ。


ああ俺もこんな風に生きたいなと思うが、どうせなれないだろう。

そうしてだからこそドサ健に憧れるのだろう。



「俺はもう上野(のがみ)の健じゃねえ。場所なんかどこだってかまわねえよ」



(森サブ――!)

(おっさん――!)

(哲よゥ――!)



ドサ健かっこいー!