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如来と呼ばれる光そのものに例えられる境地

 

 基礎編8でご説明致しましたように「自分の視点に囚われず、他のどのような特定の視点にも囚われる事の無い、完全な中道の境地に達することができれば、光そのもののように、あらゆる相対的な視点を超えた、時間も空間もない境地に達することができるのかもしれません」。仏典に描かれている仏の悟りの世界の様子は、ものの形や概念すらも超越した世界であり、正に、時間も空間も超越した光そのものが見えるであろう世界と酷似しています。

 釈尊の悟りの境地が時間も空間もない光そのもののような状態であるならば、一万年前の光が一瞬にして私たちに届くように、釈尊の悟りもまた、一万年前であろうと一万年後の未来であろうと一瞬にして私たちに届き、私たちが望めば、いつでも触れる事ができるものであると考えられます。釈尊が説かれた中道の境地は、あらゆる相対的な視点を超越しており、それゆえ時間も空間も存在しないが、(だからこそ、光と同様に)時間を超越して、あらゆる相対化された存在とは瞬時に交流できる境地でもあると考える事も出来るのです。

 このように、法蔵菩薩のような、真の菩薩行によって仏陀や如来となった者が到達する境地は、まさに光そのものの状態に例えられると思われます。興味深いことに、古代インドの言葉で阿弥陀仏とは「無限の光を持つ者」「無限の寿命を持つ者」を意味し、無知の闇を照らし、空間と時間の制約に縛られない光の仏を意味します。

 また、『華厳経』に登場する「毘盧舎那」とは、元はヴァイローチャナと言う「遍く照らす 」というインドの言葉で、大日経に登場する摩訶毘盧遮那も、元は同じ言葉です。この 言葉は、法華経の結経であるとされる『仏説観普賢菩薩行法経』にも登場し、釈尊を 「毘盧遮那 」と表現しています。それぞれの経典のニュアンスの違いには注意が必要ですが、いずれも 「無知の闇を照らす 」という根本的な意味に由来していると思われます。

 阿弥陀如来も毘盧舎那ぶつも「遍く照らす」という特徴を共有しており、やはり如来は光そのものに例えられていると言えるようです。

 光に似た存在である如来にどう近づくかによって、信仰態度の違いが出てくるのではないでしょうか。

 では、大乗仏教ではどのような信仰態度が発展してきたのかを概観してみましょう。

 

浄土経典に基づくアプローチ

 

 浄土教の経典では、阿弥陀仏の誓願を信じ、阿弥陀仏とその浄土を念じ続けることが勧められています。

 さらに、その究極の形として、13世紀の日本では、親鸞の「絶対他力」という信仰態度が説かれ、自分の無力さを徹底的に認め、阿弥陀仏の無限の慈悲に身も心も委ね、最終的には「自分」という妄想を忘れた境地に到達しようとする、正にこれこそが、浄土教の経典が本来意図した、究極の姿なのかも知れないという信仰態度を、親鸞は提案している様に思われます。

 親鸞の説く阿弥陀仏の慈悲に完全に身を委ねる「絶対他力」の道は、誰にでも簡単にできる道だと従来から言われてきましたが、本当に自我を完全に捨てて、阿弥陀仏に自分の全てを委ねることは、理想的な目標ではありますが、決して誰にでも出来る簡単なことではないと思われます。

 

法華経に基づくアプローチ

 

 法華経では、有名な16章に示されている「久遠実成仏」に対する信仰の態度は、師弟のようです。法華経によれば、人は強く求める心さえあれば、悟りの世界と一体となった如来である「久遠実成仏」から、法華経を通じて、いつでも教えを受けることができ、他の衆生と共に菩薩行を行じられるよう、常に悟りの世界から智慧と気づきを授かることができるとされています。

 そういう意味では、法華経を通して、菩薩行の師である如来から、教えを受けながら菩薩道を歩む方法は、一歩一歩しか進めない、非常に時間の掛かる道のりなのかもしれませんが、(その分)誰にでもできる、簡単で着実な菩薩行の実践方法であると言えるのかもしれません。

 

密教の経典に基づくアプローチ

 

 7世紀頃に編纂された密教の経典『大日経』では、大日如来と一体化することが究極の目標とされています。しかし、密教はその名の通り、特別な修行を積んだ者だけに許される修行が多く、一般人には非常にハードルの高い修行であるとされています。

 

禅仏教のアプローチ

 

 経典に基づく宗派や修行形態とは別に、達磨大師によってインドから中国に伝えられた禅は、中国と日本で独自に発展してきました。そして、現在では仏教の代表的な修行形態として世界的にもよく知られています。

 禅では、釈尊が瞑想によって悟りを開いたように、瞑想を続けることによって釈尊と同じような悟りを開くことが期待されています。

 しかし、歴史上、釈尊 以外に本当に仏陀になった人はいないという事実は、釈尊と同じように瞑想を続けても、仏陀になることは容易ではないことを示唆しているように思われます。

 釈尊 以来、数え切れないほどの修行者が釈尊と同じように瞑想を続けてきたはずですが、誰一人として仏陀になった人はいません。その理由は何でしょうか。

 やはり伝統的にも言われている様に、仏になるには瞑想だけでなく、菩薩として利他的な行いを積み重ねることが不可欠なのかもしれません。この点については、のちの章で詳しく検討したいとおもいます。

 このように、経典の成立年代やその目的から、当然ながら違う信仰態度が育まれたものと思われます。