ENGLISH

 

 本シリーズで述べてきましたことを踏まえますと、具体的には、どのような生き方が望ましいのでしょうか。

以下に、要点をまとめてみました。

 

1. 仏陀の教えを信奉する者として、生きとし生けるものの幸福に貢献し、全ての生きとし生けるものに、決して苦しみを与えず、安穏な生存が可能となるような、最善の方法を見出すことが、全人類の責務である、という認識を世界に広めるよう行動を起こす。

 

2. 仏教の菩薩としての生き方に共感する者として、他者を自己と同じぐらいに大切にするという理念を自ら実践し、その共感の輪が広がって全人類共通の理念になるよう努力する。

 

3.日常の中で自分が経験する全ての出来事は、過去からの自分自身の行動の積み重ねが反映されたものである事を認識し、その意味に気づいて、行動を改めていくことで、自らの過去からの行動の積み重ねの総体を、依り良いものにしていく努力をする。

 

4.仏教の縁起の理法を深く理解し、自分が経験する事で、他人事というものは一切無い事を自覚して、関わりのある全ての存在の福利に寄与できるような生き方をする。

 

5. 日常の、人との関わりの中で、自分の視点や考えばかりに囚われずに、常に相手の立場に立って考え、相手の考えや気持ちを理解する努力をする。そして、相手の幸せに貢献するためには自分は何ができるかを考えるようにする。

 

6. 私達は様々な関係性の中で生かされていることを深く認識し、その一つ一つに感謝し、恩返しできるような生き方を心がける。

 

7. 仏典は、基本的には仏の教えを学ぶためのものであるが、究極的には自分自身の全てに気づく為のものであることを肝に銘じる。読誦する際には、仏の教えと今の自分の心の状態との距離を意識しながら読誦し、自分の心の傾向性を一つ一つ自覚していって、それらをより良いものにしていく努力をする。そして、そこで気づいたことは周囲の人々に伝える様に心がける。

 

8. 仏典を読んで、自分が気づいたことを周りの人に伝えることで、その自分の気づきが他の人の気づきのきっかけと成ることがある。そして、その人の気づきをその人が更に他の人に話すことによって、それが更に多くの他の人の気づきを誘発することがある。このようにして、気づきの連鎖が無限に広がっていくことが、大乗仏教では期待されている。

 

9.人間やあらゆる生きとし生けるものの安穏な生存を脅かし、苦しめ、悲しみをもたらす諸悪の根源は、人間の持つ貪欲さであり、利己主義であり、憎しみであり、妬みであり、虚栄心であり、独善主義などの人間の愚かさである。それらの人類のあらゆる悪徳を、根源から排除する道を仏教は説いている。従って、この世の全ての不幸や悲しみを無くす為にも、我々全人類が自らの愚かさを自覚し、謙虚に反省して、自らの悪徳を排除する方法を仏教から学ぶ事が出来るのである。我々、仏陀の教えを信奉する者は、そのことを全人類に知らせる使命がある事を自覚する。

 

10. 長年にわたって、人類は、迷信や非科学的な信仰や誤解や思い込みによって、不幸な争いや多大な犠牲を生み出してきた。しかし、仏教の知見は、現代科学が新たな発見をするたびに、その正しさが証明されていっているほど、誰にとっても有用なものである。そういう意味でも、今後の未来の人類にとって、仏教は必要不可欠な指針となりうる事を、我々自身が自覚し、その事実を世に知らしめていく必要がある。

 

 以上が、仏教の教えを信奉する者としての、望ましい生き方のポイントですが、これらの指針と目標を、各自の努力と智慧によって、より具体的な行動として具現化し、その行動の輪が全人類に拡がって行く事が望まれます。

 仏教の智慧を、活かして行くのは、私達一人一人である事を、最後にもう一度強調して、このシリーズの締めくくりとしたいと思います。

 最後まで、ご視聴頂き、ありがとうございました。

 

(このシリーズをYoutubeの音声と字幕で視聴されたい方は下記のリンクからどうぞ。)

https://youtu.be/PhzCSIOuIOw

ENGLISH

 

 前の章の応用編8では、宮沢賢治が、仏陀の教えの真髄を深く理解していると考える理由について、簡単に触れました。

 さらに、応用編3では、仏になるためには、なぜ菩薩の道を修行する必要があるのか、なぜそれがとてつもなく長い期間を必要とするのかについても、簡単に触れました。ここでは、これらのトピックについてさらに掘り下げてみたいと思います。

 まず、苦の本質について検討してみたいと思います。今回は一般的な説明ではなく、より踏み込んだ分析をしてみたいと思います。

 人間は紛れもなく他者を思いやる気持ちを持っています。しかし、その気持ちとは裏腹に、自分という存在を維持するためには、どうしても他者を犠牲にせざるをえません。

 たとえ鶏や豚や牛がかわいそうだと思っても、自己を維持するためには、それらを犠牲にしなければならないのです。菜食主義であっても、米や豆といった作物は本来、それらの子孫のためのものであるにもかかわらず、人間はそれを収奪し、実質的にこれらの存在を犠牲にしています。

 いくら愛や慈悲や同情を口にしたところで、人は慈悲の言葉の舌の根が乾かないうちに、お腹がすいたと言って、躊躇なく他の生き物を犠牲にするのです。それに気づかないのは、単に無神経で、図々しくて、他者への同情心に欠けているだけだと言われれば、反論できる人はいないでしょう。

 もし本当に他者への思いやりがあれば、この事実に直ぐに気づくはずですし、それに気づいた者にとっては、この根本的な矛盾による葛藤は、逃げ場のない、耐え難い苦しみ以外の何ものでもないはずです。

 そしてこの苦しみは、他者に対する思いやりの度合いに比例します。最大限の思いやりを持つ者は、最大の苦しみを経験するのです。

 逆に、慈悲のない者は、全く苦しみを感じず、自分勝手に恥知らずな幸福を享受できるでしょう。

 仏教における、苦の本当の原因は、まさにこの根源的な矛盾にこそあり、この人間としての思いやりの大きさに反比例する耐え難い葛藤に触れずに、苦について語るのは、そのような感受性を持ち合わせていない人々にも、理解できるようにするための、やむを得ない方便に過ぎないと思われます。

 人間にとっての苦の本質は、自己保存の欲求と、他者への思いやりの感情との間に内在する矛盾にあるのであり、このあい反する2つの思いは常に衝突し、実存的な苦悩をもたらし続けるのです。この永遠の対立を深く認識することによってのみ、私たちは逃れることのできない根源的な苦しみを、本当の意味で把握することができるのではないでしょうか。

 仏教における欲望と苦悩の関係は、一般に誤解されているような、心の平穏を求めるだけの気楽な人の贅沢な選択の話では無いのです。むしろ、他者を慈しむが故に生じる、根源的な矛盾と、それに伴う耐え難い苦しみを痛感し、その状態に対処したいと心から願う者たちが感じる苦悩なのです。

 そのような、他者を思いやる心を持つ高等生物に特有な、生物としての宿命的葛藤に気づくことは、意識ある存在としての責務である、とも言えます。そして、無神経で、図々しく、偽善的で、無慈悲で、利己的な人たちは別として、全ての慈悲深い人達は、そうした事実に真摯に向き合い、これ以上他者を犠牲にすることなく生きて行くには、どうすればよいかを考える以外に、選択肢は、ないはずなのです。

 では、仏教はどのような生き方を提案しているのでしょうか?仏教的な生き方を始める前の、普通の状態は、前述したように、自己保存の為に他者を犠牲にし続けている状態です。この状態が続く限り、人はこの事実と、他者を慈しむという人間的な感情との根源的な矛盾に、苦しみ続けなければならないのです。

 この苦しみを避けようとして、生きることをやめようとしても、残念ながら自分という妄想が存続する限り、妄想の根本原因である、原初的な無知が生み出す輪廻の世界の形成力によって、人は再びこの世に生まれ変わり、他者を犠牲にする同じ行為を繰り返すことになるのです。

 従って、自分という妄想がある限り、生きることをやめようとしても、解決にはつながらないのです。

 しかし、この自分という妄想は、一朝一夕に形成されたものではなく、原始的な存在としての進化の始まりから、輪廻転生を経て現在に至るまで、自己保存のために繰り返されてきた、無数の利己的行為によって、蓄積強化されてきたものです。したがって、そのような自己保存の為のエネルギーを中和するためには、これまでの無数の利己的行為によって蓄積された、すべての負債と、犠牲となった膨大な数の他者の恩義に対する、返済をしなければならないのです。

 つまり、利己的な行為(カルマ)の蓄積と、利他的な行為(カルマ)の蓄積の、収支バランスをゼロにしなければならないのです。

 その為には、進化の過程で我々の犠牲になった存在の数と同じだけ、またはそれ以上の、利他的行為を積み重ねなければならないのです。つまり、過去からの借りを返すためには、他者の悟りや幸福に貢献するなどの、利他行を積み重ねる必要があると言う事です。これこそが菩薩行であり、この修行を終えた者だけが、仏になることができるとされているのです。

 なにせ、借りを返さなければならない存在の数は膨大なので、その為の利他行も膨大な時間をかけて成し遂げなければならないのです。だからこそ、菩薩行には膨大な時間が掛かると言われているし、釈尊と同じような瞑想をいくらし続けても、誰も仏には成れないわけなのです。既に何度も述べてきました様に、仏に成るためには完全なる中道の境地に定住する必要があります。そして、その後、如来として衆生を悟りの境地に導き続けるには、他者に対する限りない慈悲の心が必要です。それには、自己に対する執着心より、他者への利他心が、遥かにうわまわらなければなりません。そうでなければ、他者に対する利他心より、利己心がうわまわってしまい、利他行を続けられなくなるからです。

 阿羅漢に成る為の修行の様に、自己に対する執着心を取り除くことは、比較的容易ですが、無限の他者に対する限りない利他行を続けることは、比較にならない程困難です。それを可能にするには、菩薩として、利己心を遥かにうわまわる利他行の積み重ねが必要なのでした。だからこそ、阿羅漢に成れる人は沢山いるけれども、仏に成れた人は釈尊以外にはまだ居ないのです。それ程までに、菩薩行は困難で、時間を要するという事です。

 以上、気の遠くなる様な話が続きましたが、これは、あくまで、仏教の理論上のお話であって、現実的には、いつの日か、本当に仏や如来になることが目標であるというよりも、そういう理想像を目指しながら、他者と共に、互いの気づきと悟りと幸せの為に助け合いながら生きて行く、という生き方こそが、人間としての最善の生き方なのだ、ということを大乗仏教は私達に伝えようとしているのかもしれません。

 現実的には、菩薩行の過程で、他者への慈悲の心を育み、それを行動として現すことで、次第に自己と他者とを苦別なく意識できるようになり、他者の喜びや苦しみを、自分のこととして感じられ、やがては自他の苦別を超えた幸福感を得ることが出来るようになるとされています。

 そして、最終目標である仏になるとは、自分という妄想から完全に解脱し、妄想の世界を完全に超越した境地に達することですが、それから再び、如来として妄想の世界に降り立ち、すべての衆生と一体となり、その中で無限で完全な慈悲を実現することこそが、最終ゴールなのかもしれません。

 仏教は、究極的に、そのような完全な慈悲を実現するための道であると言えるのかもしれません。

 では、そのような仏教の最終目標に少しでも近づくために、私たちが日常生活でできる現実的な生き方とはどのようなものなのでしょうか?

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ENGLISH

 

 前回、波の譬えをご紹介致しましたが、この例えは、話を分かり易くする為のものでしたが、仏教的には大きな誤解を招きかねない要素を含んでいました。内容をもう一度振り返って見ましょう。海の中の一つの「波」が、自らを波である、と自覚するようになったとします。自分が一つの波だと自覚する事で、自分以外の数多くの他の波をライバルであると見なすようになり、彼らとの生存競争に明け暮れる事になります。つまり、自分とそれ以外の他者とが対立闘争する自他対立の妄想が生じる訳です。この妄想はあらゆる苦の原因となります。しかし、自分が単なる一つの波ではなく、海全体であることに気づいたときに、それまでの自他対立の妄想は消え去り、海全体との一体感を実感し、あらゆる妄想と、苦から、解き放たれて永遠の安らぎ、つまり悟りの世界に安住する事が出来るというお話でした。ただし、誤解を招く可能性があるのは、最終的に到達した本当の自分は大海そのものであった、という「大海」に、あったのです。理由は、比喩とは言え、実際の大海は実体のあるものであり、認識の対象となるものです。

 ところが、十二因縁の所でもご説明致しましたように、「感覚」「意識」などの現象はすべて固有の存在を欠いており、具体的な実体に基づいているわけではありません。仏教では、全てのものは妄想の産物であり、この妄想というのは何らかの実際に存在するものを誤認する訳ではなく、妄想が、さらなる妄想を生み出すことで永続すると考えられています。仏教では、物事の本質を悟り、根源的な無知をなくすと、その後の全ての妄想は完全に消滅すると考えられています。

 ただし、すべての妄想が消滅した後に残る「認識主観」は、当然ながら既存のいかなる存在とも同一視できないものです。これは仏教の教えの重要な前提です。したがって、完全なる中道の境地に到達した「認識主観」を、認識対象である大海や、世界や、宇宙や、宇宙的生命と同一視することは、仏教の大前提に根本的に反することなのです。

 つまり、認識主観が、どのような認識対象とも自己同一視せずに、超然と出来ている状態こそが、中道の境地と呼ばれるので、なんらかの具体的な存在と、自己同一視した時点で、それはもはや、中道の境地であるとは、言えないからです。だからこそ、完全なる中道の境地に達した仏陀を、他のどの様な具体的存在とも同一視する事は出来ない訳です。

 しかし、やがて、全ての人が仏に成る可能性を持っている説の根拠として、全ての人が仏そのものの現れであるのに、それに気づいていないだけであるという説が登場するようになります。つまり、本来は仏になる可能性を意味する概念が、仏そのものが宇宙の本体としての実体を持つ存在であると考えられる様になり、人々も含め、全ての存在はその表れであるという考え方まで登場するようになりました。

 生きとし生けるものを仏と同等に尊重することと、全ての存在を (文字通り) 仏の現れとみなすことは根本的に違います。

 生きとし生けるものを、仏と同等に敬うことは極めて重要であり、菩薩にとって不可欠な視点ですが、生きとし生けるものを、文字どおり仏の現れであると考えることは、妄想の世界全体が仏によって創造されたものだと言っているのも同然です。

 そもそも、仏は創造主ではありません。仏は、妄想の世界を超越した存在でありながら、如来として、苦悩する衆生が、目覚め、妄想の世界から抜け出すのを、助け続けている存在です。

 仏教の世界観では、この妄想世界を創造する創造主や、宇宙の大生命など存在しないのです。なぜなら、妄想の世界は、無数に共存する可能性の中から、私たち自身の意識が選択し、確定した世界だからです。

 また、仏を生命そのものになぞらえることは、生命と、仏の本質を混同することにもなります。生命の本質は新陳代謝にあり、それは固体や集団としての「種」の存続のために、他の存在を利用することも含みます。人間の利己主義の源泉は、生命に内在する特質のように思われます。何故なら、生命は自己の生存を維持する為には他者を犠牲にせざるを得ないという宿命を抱えているからです。いくら他者の幸せを願っても、その命を奪ってでも、自分だけ生き残ろうとするのが生命の本質だからです。

 その様な、生命としての宿命的な利己性は、究極的には、自他分離の妄想にその源泉がある訳ですが、人間として、他者の幸せを優先する努力を続ける事で、生命としての、そして、より根源的には自他分離による利己主義の影響力を、少しずつ弱めていくことができるのです。

 そして、最終的には、その様な、自己保存の為の妄想を超越することで、人は全ての存在との一体感に到達し、仏の悟りに至ることができる訳です。

 前述しましたように、仏は、私たちを闘争と苦しみの世界から、争いや悲しみのない世界へと導いてくれる存在です。

 したがって、仏をこの世界を創造する宇宙生命そのものになぞらえることは、消防士を、放火魔になぞらえるようなものなのです。

 日本の天才童話作家で法華経の信奉者でもあった、宮沢賢治は、生命活動の無慈悲な本質を露わにし、それを激烈に提示することで、仏教思想の本質を見事にえがきました。

 その中に『夜鷹の星』という短編があります。主人公の夜鷹は、他者を慈しむ心を持ちながら、生きるためには、他者を殺して食べなければならない。この根本的な矛盾に心を痛めた彼は、やがて他者を食べることをやめ、生物としての存在の仕方を辞める為に、遠い空へと飛んで行って、夜空の星となるという物語です。

 ある意味、宮沢賢治は、仏教の根本精神を真に理解した数少ない仏教徒の一人であった、と思われます。

 既に述べました様に、世界は、一人一人の心が選択しているという仏教の大前提を考えれば、この世のすべてが仏の現れである、という考え方は、全くもって、仏教的な発想ではないと言っても過言ではないでしょう。

 しかも、私たち一人一人が認識できる世界の選択肢は無数にあり、その瞬間その瞬間で、一人一人が自分の精神状態や過去の行動の記憶に基づいて、無数の可能性の中から一つの世界を選択しています。したがって、すべての人間が同じ未来や過去を共有しているわけではありません。

 利己的で敵対的な人が選ぶ世界は、対立と争いの世界となるでしょうし、人類が滅亡する可能性すらあるかもしれません。逆に、一貫して他者の幸福を願い、その為に行動する人々が選ぶ世界は、人々が互いに悟りに向かって協力し合う、平和で調和のとれた世界になるかもしれません。

 法華経の第十六章には、「衆生には、世界の終わりの時が来て、全てが焼き尽くされると見えている時でも、私の見ているこの世界は、安穏で天の神々や人間達に満たされている」といった表現がありますが、それは、たとえ多くの人が、この世の終わりが来て、全てが燃え尽きる、と思ったとしても、仏が見ている世界は平和であり続け、心の清らかな生きとし生けるもので満たされているという意味です。

 これは、仏の居る世界がこの世とは別の世界にあるという意味ではなく、妄想に囚われた人々が見る世界と、仏のような心を持つ人々が見る世界は、重ね合わさった並行世界であることを、示唆しているものと思われます。

 つまり、仏が見るような平和な世界と、大火に焼かれて人類が滅びる様な世界は、それぞれ可能性の一つとして選択可能な世界であり、実際に各自の心がそれを選択して確定するまでは、共存する平行世界であると言う事です。

 それゆえ、どの様な世界であれ、それは仏が作り出した世界では決して無く、我々自身の心が選択した世界である事を忘れてはならないと思います。

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ENGLISH

 

 六波羅蜜は、大乗仏教の菩薩が成就すべき修行のテーマであると言えます。

 六波羅蜜の「波羅蜜」という言葉は、サンスクリット語(古代インドの言葉)のパーラミターに由来し、完成、完全、彼岸への到達を意味します。では、6つの行いや精神状態の完成を意味する「6つのパーラミター」とは(具体的に)何でしょうか。

 

1. 布施波羅蜜とは、与えること・分かち合うこと・自己の所有に執着しないことの完成。

2. 持戒波羅蜜 とは、 自分を律することの完成。

3. 忍辱波羅蜜とは、気にしないこと・超然とすることの完成。

4. 精進波羅蜜とは、 努力の完成。

5. 禅定波羅蜜とは、集中力の完成。

6. 般若波羅蜜とは、智慧の完成、つまり、中道の境地から物事をありのままに見ること。

 

 「完成」や「彼岸に至る」という言葉が、実際には何を意味しているのかは、理解しにくいかもしれませんが、大乗仏教は、釈尊の教えに基づいているので、釈尊の基本的な教えを思い出すと、理解しやすいかもしれません。

 実際、「空」の理論を大成した龍樹の主著は「空論」ではなく、「中論」であり、中道について書いたものです。つまり、龍樹は、釈尊の、中道の教えから導き出された結論を、「空」という言葉を使って、改めて整理しなおしたのでした。

 したがって、「完成」という言葉も、中道の境地に達することと、解釈し直すことができるのです。中道のところで述べましたように、それは自他の二項対立を超えた状態に到達することであり、主観としての自己と、客体としての他者との分離対立、と自己への執着を克服した境地を意味するものです。

 真に自他の分離と、対立を超越することができれば、自分や自分の持ち物に執着することなく、本当の意味で、他者とすべてを分かち合う境地に至ることができる、それが布施波羅蜜です。つまり、全てを他者と分かち合う心と行いの完成を意味します。そして、自他の分離を超えて、自分だけに対する執着が無くなれば、自分だけの欲望に振り回されることも無くなります、それが持戒波羅蜜です。つまり、自分を律する心と行いの完成を意味します。そして、自他の分離を超えて、自分だけを尊重する気持ちが無くなれば、どんな状況でも気にせずに超然とした心境で居られます。それが忍辱波羅蜜です。つまり、何があっても気にしない心と行いの完成を意味します。そして、自他の分離を超えて、自分だけの安楽を求め無くなれば、自分だけ怠けようとは思わなくなります。それが精進波羅蜜です。つまり、全ての人々の為にたゆまなく努力する心と行いの完成を意味します。そして、自他分離を超えて、自己への執着とそこから生じる煩悩が無くなれば、精神的な乱れの原因は無くなり、完全な集中が自然に可能になります。それが禅定波羅蜜です。つまり精神集中の完成を意味します。そして、自己と他者の分離対立と自己への執着を超えた完全な中道の境地に達することができれば、物事をありのままに見る智慧が自然に備わります。それが般若波羅蜜です。つまり、中道の境地で物事をありのままに見る智慧の完成を意味します。

 最終的に、自他の二項対立を超えた完全な中道の境地に達することができれば、当然、物事をありのままに見る智慧が身につき、智慧の完成が達成されますし、そのような境地に達する事で、他の五つの完成も同時に達成されるのです。

 したがって、六波羅蜜は一つずつ順番に達成できるものではなく、自己と他者の分離対立を超えた完全な中道の境地に達することができなければ、どの完成も達成できませんし、逆に、完全な中道の境地に達することができれば、6つの完成はすべて同時に達成されるのです。

 また、そのような完全な中道の境地に達するためには、六波羅蜜のいずれか一つでも極める過程で、自他分離の境地を超えて完全な中道の境地に達することができれば、他の五波羅蜜も一挙に達成することができるのです。

 その意味で、六波羅蜜とは完全な中道の境地に至る事が想定されていて、このシリーズで先にご紹介した八正道とも重なります。

 八正道のうち、「正語」「正業」「正命」は「持戒波羅蜜」に相当します。「正念」「正定」は「禅定波羅蜜」に相当します。「正見」「正思惟」は「般若波羅蜜」の智慧の完成に相当します。つまり、中道の境地で物事をありのままに見る事です。そして「正精進」は「精進波羅蜜」に相当し、努力の完成を意味します。これらの4つに、布施波羅蜜(与えること、分かち合うこと、自己の所有に執着しないことの完成)、忍辱波羅蜜(気にしないこと、超然とすることの完成)を加えると、六波羅蜜となります。

 本来、八正道は、阿羅漢になるために不可欠な要素ですが、社会の中で、他者と共に仏に成る道を歩もうとする菩薩にとっては、「与える」「分かち合う」「自己の所有に執着しない」という態度は、社会における他者との関係において極めて重要な要素となります。また、社会におけるあらゆる誹謗・中傷に対しても、「気にしない」「超然とする」という心構えを身につけることが、菩薩にとっては不可欠となります。

 このような理由から、大乗仏教では菩薩行の理想とともに六波羅蜜が重視されたようです。

 紀元前150年頃には、般若経より古い六波羅蜜経という経典があったと言われています。

 般若経は、当初、並列的に説かれていた六波羅蜜のうち、特に般若(智慧)の重要性を強調した経典であると言えます。つまり、般若経典類が編纂された頃には、すでに六波羅蜜の概念がある程度浸透しており、それを前提に特に般若波羅蜜 (智慧の完成)が重視されたものと思われます。

 ところが法華経が現れると、そこでは、法華経を説く者は自然に六波羅蜜を成就すると説かれるようになりました。

 要するに、先にも触れましたように、法華経を通じて、他者と共に悟りの道を歩む者は、他者の幸せと気づきや悟りを、自分の事の様に願う様になるので、自ずと、自己と他者との区分を超えた心境、つまり、中道そのもののような心境になっていくからだと思われます。そして、気づけば自然に六波羅蜜が成就されている、ということなのだろうと思われます。

 しかし、通常、そのような心境になれるのは一瞬だけで、次の瞬間には自己中心の心境に戻る、それが、凡人と、そのような中道の境地を完全に成就した仏との違いなのかもしれません。つまり、仏と普通の菩薩との違いも、仏の悟りは完全で永続するものであるのに対し、菩薩の悟りはまだまだ一時的なものであるということです。しかし、そのような道半ばの菩薩であっても、自己と他者の分離対立と自己への執着を何度も忘れる心境に達することができれば、そして、その機会が多くなれば成るほど、次第に仏の境地に近づいていけることは確かだと思われます。

 そこにこそ菩薩行を続ける意味があるのかもしれません。

ENGLISH

 

 前回の「空」についての議論では、釈尊の弟子達の一部は、釈尊の教えを整理・分類する過程で、この世界のいくつかの基本的な構成要素には、実体がある、と考えるようになったことを、見てきました。

 しかし、そのような実体論は、釈尊の中道と、無我の教えに矛盾する、と見なされ、龍樹とその弟子達は、彼らの実体論を体系的に否定し、前の章で説明しましたように、全ては究極的に「空」であると主張しました。

 しかし、全てのものは究極的には「空」であり、実体は無いことは確かですが、釈尊が十二因縁の理法で明らかにされたように、個々の存在の、妄想のサイクルは、確実に存在し続けています。そして、先にも説明しましたように、この妄想の連続は、「中道」を完全に悟るまで続くのでした。

 「空」を詳述した龍樹の弟子達は、後に中観派と呼ばれる哲学学派を形成し、説一切有部のような実体論者達と、論争を繰り広げたのでした。しかし、こうした論争では実体論への反論が重視されたため、「実体を持つものなど、何一つないことが強調され、悟りをひらけば、すべての現象は、無に帰するのではないか」という虚無的な印象を持つ人さえ出てきました。

 このような懸念に応えて登場したのが、瑜伽行派とも呼ばれる唯識派でした。この瑜伽行派の、創設に関わる主要人物は、高名な弥勒菩薩であると言われています。歴史上の人物としての、弥勒菩薩の存在は、文献では確認されていませんが、「無着」という人物が、瞑想を通じて、天界の兜率天で弥勒菩薩に会い、教えを受け、それを記録したと伝えられています。

 現代の研究者の中には、「無着」が実質的に瑜伽行派の創始者である、と主張する人もいますが、「無着」が弥勒菩薩の教えを記録したものと、彼の著作との間に、文体の相違があることから、兜率天の弥勒菩薩とは別の瑜伽行派の創始者がいたのではないかと推測する研究者もいます。

 いずれにせよ、唯識派としても知られる瑜伽行派は、瞑想の実践に重点を置いていたことで知られています。中観派とは異なり、彼らは「空」の考え方を強調するだけではなく、たとえ究極的には実在しないものであっても、日々の体験に裏打ちされる現象が、(実際に)どのように現れるのかを、積極的に説明しようとしたのです。

 瑜伽行派によれば、各個人は、8つの意識から構成されているとされます。まず、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の5つの感覚情報を生み出す、「5つの感覚意識」があります。そして、これらの感覚情報を、言語を通して、知覚として合成する、第6の意識があり、(当に)「意識」として知られます。

 感覚意識は、外部からの情報を知覚するのではなく、内部の阿頼耶(アラヤ)識から送られてくる感覚情報を、外部に投影するのです。たとえば、目の意識は、さまざまな視覚的知覚を、内的に映し出し、それを外部の物体や風景として、認識するのです。同様に、耳の意識は、様々な音を内側に投影し、外部の音として認識するのです。他の感覚意識である鼻、舌、身体、も同様の働きをします。

 これら6つの意識の先には、「阿頼耶識」があり、よくコンピューターのハードディスクに例えられますが、ここに、過去からの全てのデータが保存されています。しかし、受動的なデータバンクとは異なり、「阿頼耶識」(記憶識)に保存された情報は、絶えず湧き上がり、先に述べた6つの意識を生み出すのです。さらに「阿頼耶識」に基づくこれら6つの意識の根底には、「阿頼耶識」を自己意識の根拠であると妄想することで、自己への執着の根拠ともなっている、第7番目の末那識が存在します。

 「阿頼耶識」から生じる、末那識は、自己という概念を強化し、この自己を維持することを目的とした行動に駆り立てるのです。あらゆる利己的な思考や行動の源とも言えるものです。

 そういう意味では、釈尊の中道と無我の教えを認識し、利他的な菩薩道を貫くことは、末那識の利己的な影響を、克服する方法である、と言えるのかもしれません。

 このように、人間は五感の意識、それらを統合する意識、末那識、「阿頼耶識」の8つの意識から生じると言われています。

 さて、このメカニズムをもう少し詳しく掘り下げてみましょう。

 「阿頼耶識」には、過去に自分がおこなった全ての行為の記憶が貯蔵されています。利己的な考えや行動、利他的な考えや行動、その中間の考えや行動も全て記憶されているのです。

 人が生まれ変わって、新しい人生が始まるとき、阿頼耶識は、蓄積された過去のデータに基づいて、新しい人生の「環境設定」を行います。

 仏教における「業(カルマ)」という概念は、「阿頼耶識」に蓄積された、過去の思考や行動の記憶の事を意味しています。但し、これらの記憶は、新しい人生のための環境設定をするためのものでしかありません。したがって、過去に数々の悪行に手を染めたとしても、次の世で必ず悪人に生まれ変わる訳では決してないのです。ただ、過去の自分勝手な行動の結果が、不利な環境設定という形で現れ、いじめられるなどの経験をすることはありえます。しかし、そのような状況下でも、過去の行いを反省し、後悔の念を持ち、復讐などせずに、反省と善行を続けていれば (これを仏教では「懴悔」と言います)、その結果、来世の環境設定は非常にポジティブなものになり、親切で利他的な人々に囲まれることになるでしょう。

 要するに、「阿頼耶識」に蓄積された記憶に基づいて、新しい人生の環境設定が確立されます。そして、その環境設定の中での新しい自分の思考と行動が、刻々と「阿頼耶識」に記録され、それに基づいて、その後の人生の環境設定がまた形成されるのです。

 従って、恵まれた環境に生まれても、感謝の気持ちを表さず、利己的な行動をとりつづければ、将来は苦難に満ちたものになるでしょう。逆に、最悪の環境に生まれたとしても、常に感謝と反省の気持ちを表し、利他的な行動をとることが、状況の改善につながるのです。

 このように、自分の現在の境遇や環境は、すべて自分の過去の行いによって決まるのであり、絶対的な自己責任の領域なのです。しかし、何事も個人の責任ではありますが、だからといって、本人だけに責任を押し付けて、放っておいても良い、ことにはならないのです。たとえ過去の行いが原因で悲惨な境遇に陥ったとしても、その様な困っている人を助けることは必要不可欠なのです。

 もともと強い人間などいないのですから、各陣の問題を、乗り越えるためには、相互扶助が必要であり、そこにこそ利他的行為の原点があるのです。

 その意味で、ちかごろよく耳にする「自己責任」という言葉は、困っている人を助けないことの正当化として、悪用されがちです。しかし、そのような使い方は、その人の利己的な性格を反映しており、自分自身が本当に困った状況に陥ったときに、初めてその態度の残酷さを思い知ることになるでしょう。

 したがって、しばしば運命論と誤解されがちですが、仏教における業(カルマ)の概念は、定められた運命を意味するものでは決して無く、むしろ、大まかな環境設定に影響を与えるだけで、その中での行動の自由は完全に保証されていることを、忘れてはならないと思います。

ENGLISH

 

 では、「空」とは一体どういうことなのか、もう少し詳しく見てみましょう。先ほどの例では、椅子や人間など様々な要素が複雑に絡み合っていました。これらの組み合わせが概念を形成することは理解できますが、それでも根本的な要素そのものは存在すると考える人もいるかもしれません。

 それを「水」の例で考えてみましょう。実体論の視点を持つ人は、水という性質や本質を持った何かが存在すると考えます。しかし、「水」はH2Oと呼ばれる水素原子2個と酸素原子1個からなる分子で構成されていることは良く知られています。つまり、「水」という不変の実体があるわけではなく、2個の水素原子と1個の酸素原子の関係性が、位置度から99℃までの温度という条件に依存した現れに過ぎないのです。私たち人間は、このような状態を 「水」と呼んでいます。つまり、本来、「水」とは、特定の温度条件下における水素原子と酸素原子との特定の関係性(原因)によって発現する一つの形態に過ぎず、その関係性によって発現する形態以外に「水」という実体があるわけではないのです。

 その証拠に、温度が0℃以下になれば、たちまち「氷の粒子」になり、100℃以上になれば水蒸気になって見えなくなります。したがって、水素原子と酸素原子の特定の関係性(原因)の結果として「水」が現れるのは、位置度から99℃までの特定の条件下に限られる訳で、条件が変われば、同じ原因であっても、その現れ方は変わるのです。

 このように、この世界に存在するすべてのものは、原因と条件の関係性に基づいて、その姿を現しているだけであり、それとは別に、特定の固定的な実体や本質など無いが故に、「空」である、とされる訳です。

 では、水素原子や酸素原子はそれ自体の実体があるように思えますが、それらも結局は、陽子、中性子、電子といったそ粒子の組み合わせなのです。そして、更に、それらのそ粒子も、クォークの組み合わせであるとされています。(ではクォークこそが、究極の元素なのかと思われますが)クォークとは、いくつかの振動体の関係性を通してその性質を現すと言われているもので、しかも、これらの振動体はもはや物理的な物体ではなく、エネルギーの集合体のようなものであり、それら(エネルギーの集合体)の相互関係を通じてさまざまな性質が現れるとされているものです。この「関係性こそが、存在の仕方を決めている」という事実は、まさに現代物理学の最先端の知見と、古来から仏教が説く「空」というものの見方が、完全に一致している事を示しています。

 抽象的な話が続きましたので、今度は、「空」の概念を日常生活に当てはめてみましょう。

 Aという人物を考えてみましょう。

 AはBという女性と交際しており、AはBのボーイフレンドであり、BはAのガールフレンドだとします。やがて、二人の関係性が悪化するにつれ、BはAと別れることを決めました。ただ、そのようなBの決断にもかかわらず、Aは執拗にBを追いかけます。Bにとって、かつては「最愛のボーイフレンド」だった A は、今やBから見れば恐ろしい「ストーカー」であり、ほとんど「犯罪者」です。それでも、A は、家庭では年老いた両親の面倒を見る「孝行息子」で、会社の社長からは「優秀な社員」で「従順な部下」だと思われていますが、部下からは「最悪の上司」であると思われていて、親しい同僚からは「仲間」だと思われていますが、仲の悪いライバルからは「最大の敵」であると思われています。

 では、どれが本当のAなのでしょうか?実は、全部がAなのです。つまり、他者との関係性によって、同じAが、「犯罪者」「最も親孝行な息子」「優秀な従業員」「従順な部下」「最悪の上司」「仲間」「最大の敵」になるのです。

 A自身は本来「空」であり、他者との関係によってその意味づけが変わるのです。

 意味を変えたければ、関係性を変えればいいのであり、逆に、関係性を変えれば意味も変わるのです。

 もし、Aが本質的に「悪人」だとしたら、彼は、誰にとっても「悪人」であり、永遠にそうであるはずです。彼が最も素晴らしい人間であるはずもありません。しかし現実には、彼は人によって全く異なる側面を見せ、それに応じて、意味も変わるのです。

 つまり、物事や人には、固定的な本質や性質はなく、すべては関係性や条件によって成り立っており、その関係性に意味を持たせるのは、全て私たち次第、なのです。

 この「空」の視点を、より現実的に考えるには、実際の人間関係に当て嵌めて見れば良いと思います。

 日々の生活の中で、私たちは様々な人間関係に遭遇します。良い人間関係もあれば、悪い人間関係もあり、敵対的な人間関係もあれば、友好的な人間関係もあります。しかし、本質的には、全ての人や出来事は「空」であり、本来は特定の意味を持っている訳ではありません。誰が良い人なのか、あるいは悪い人なのか。敵か味方か。悪い出来事か良い出来事かは

 彼らや、それら出来事との関係性に基づいて、どのように見えるかに過ぎません。本来、私達は、これらの関係性にどんな意味を持たせるかは、全くの自由なのです。

 例えば、誰かが私達の悪口を言ったり、私達の邪魔をしようとしたりすると、多くの人はその人に 「敵」というレッテルを貼ると思います。ただ、ひとたびそのようなレッテルを貼ってしまうと、相手の行動全てがネガティブな敵対行為に思えて来ます。私達は相手を憎み始めますが、いくら憎んでも相手には全く影響しません。それゆえに、憎しみは増幅するばかりです。このように、誰かを恣意的に「敵」と決めつけることで、私達自身が大きな苦しみを味わうことになるのです。正に独り相撲です。

 しかし、「敵」という、レッテルを貼る代わりに、「あの人のお陰で、自分の欠点を認識し、より慎重に行動できるようになった。ある意味、恩人なのだ。批判されれば、それは私達の成長に役立つし、悪口を言われれば、他人からどう見られているかを理解するのに役立ち、さらに成長することができる。」と考えることもできます。

 このように、他人の行動に対する意味付け次第で、それをどのようにでも解釈することができるのです。不快なことがあれば、そのような不快な意味づけをしなければ良いだけのことです。

 ただし、これは純粋に理論上でのお話です。人間は必ずしも理性的な存在ではありません。「空」という、レンズを通して、物事を見れば、そうなるというお話ですが、現実には、いきなりそんな風に視点を完全に変えることは難しい場合が殆どだと思います。

 人間関係はさまざまな原因や条件の上に成り立っているので、先ずは何故ネガティブな方向に進んでしまったのかを理解することが大切かもしれません。その為には、相手との忌憚のないコミュニケーションが欠かせないと思われます。そうして少しずつお互いの見方が変わっていけば、関係が改善されていくかもしれません。

 いずれにせよ、人間は本来、完全に善人でも悪人でもなく、さまざまな条件や人間関係によって、模範的であったり、欠点があったりするものです。誰もが、ある時点では親切に振る舞うこともあれば、悪意を持って振る舞うこともあり、立派になることもあれば、軽蔑されることもあるのだと思います。

 一瞬一瞬の選択と判断ですべてが変わることもあります。かつては誰からも賞賛されていた人が、ある日犯罪者になるかもしれないし、その逆もあります。悪名高い、犯罪者が、子犬を救うために命を犠牲にするかもしれないし、かつてのアショカ王のように、人々を恐怖に陥れた暴君が、後に仏教の世界的普及に大きく貢献したりするのです。基本的に、人や物事は「無常」「無我」「空」であり、不変の信頼や思い込みなど当てにならないものです。

 つまり「この人は立派だ」とか「あの人は無価値だ」というような言葉は、1日程度しか通用せず、明日はどうなるかは誰にも分かりません。

 否定的にとらえれば、誰も当てにならないとも言えますが、肯定的にとらえれば、誰でも常に変われる可能性がある、ということを意味しているのだと思います。

 上記の長くて複雑なお話をまとめますと、前項でも述べました様に、「空」という視点は、あらゆる固定的な信念、思い込み、執着から、自分を解放するものの見方である、と言えるのではないでしょうか。

 

ENGLISH

 

 これまで、初期仏教以来の釈尊の教えを中心に述べてきましたが、大乗仏教の隆盛にともない、特に般若経典類の中で「空」という言葉が頻繁に使われるようになりました。

 「空」とは、基本的にこの世のすべてのものは、原因と条件との関係性においてのみ存在するという意味です。それ自体で独立した本質や実体を持つものはなく、全ては人々の心の中に存在するさまざまな関係性が、概念化され、分類され、名称がつけられたものでしかない、とする考え方です。

 したがって、これらの概念に固定的な意味を付与することが、それらに固有の本質や不変の同一性があることを意味するわけでは決して無いとされます。

 例えば、椅子を例にとってみましょう。よく観察してみると、そこには「スポンジ」「 布」「鉄 」「プラスチック」の組み合わせがあるだけです。私達はこれらの素材の組み合わせに「椅子」という名称を便宜的につけていますが、椅子という概念は私たちの頭の中にしか存在しません。

 その証拠に「椅子」という概念を持っていない人がそれを見て「テーブル」として使うかもしれません。

 したがって、様々な素材が構成する関係性は基本的に「空」であり、それにどのような意味を持たせようとも、それは主観的なものでしかありません。「スポンジ」「布」「鉄」「プラスチック」の組み合わせを「椅子」と考えるか、「テーブル」と考えるか、場合によっては「乗ったり、遊んだりするおもちゃ」と考えるかは、結局のところ個人の解釈次第なのです。

 しかし、社会の大多数が共有する意味や概念を受け入れるほうが、実際の生活では都合が良いことが多いわけですが、ある概念が多くの人々によって共有されているからといって、それが現実における不変の本質を表しているとは限らないわけです。

 しかし、私たちは子供の頃から、言語を通じてこれらの共有された意味や概念を教え込まれてきました。そのため、私たちはしばしば、これらの概念自体が、それらに対応する対象の「本質」や「不変の同一性」を表していると誤解してしまうのです。いわば、「固定概念 」を刷り込まれているわけです。その結果、私たちはしばしば無数の 「固定概念 」に囚われてしまいますが、本質的に暫定的でしかない概念に囚われるのは実は馬鹿げたことなのです。

 この 「空」の視点は、物事には固有不変の本質がないことを強調し、そもそも、ものには固定的実体があるという見方を否定し、あらゆる思い込みから人々を解放する事が意図されているのです。

 この視点は、釈尊の入滅後、3世紀~4世紀頃に、初期の大乗経典である般若経典において特に強調されるようになり、さらに、南インドの学者である龍樹によって、紀元2世紀頃に精緻化されました。

 しかし、この視点は釈尊の教えから一方的に逸脱した訳では全くありません。それどころか、釈尊は 「中道」と「無常」と「無我」を説かれました。そして「無常」は、この世のあらゆるものは常に変化しており、恒久的な同一性を保持するものはないと教えます。「無我」は、無常を補完するもので、恒久的な同一性を保持するものはないため、固有の、「我」、などというものは、存在しないとするものです。

 身近な例で説明すると、1913年から存在する野球チーム「ニューヨーク・ヤンキース」の例を考えてみましょう。そもそも、何が「ニューヨーク・ヤンキース」を構成しているのかを詳しく調べてみると、固定した存在や不変の本質などないことがわかります。ベーブ・ルースの時代のチームと現在のチームは、選手、監督、コーチともに大きく異なっています。不変の同一性を持つ「ニューヨーク・ヤンキース」など存在しないのです。いつまでも続く可能性があるのは、唯一その「名前」だけです。つまり、ニューヨーク・ヤンキース」とは、最初から特定の野球選手達の集まりに恣意的につけられた名前に過ぎなかったのかもしれません。

 従って、永続するのは単に「名前」や「概念」に過ぎず、それは人々の心の中にのみ存在し、実際の選手は絶えず変化しているという意味で、無常であり、無我であると言えます。

 同様に、松井秀喜のような選手個人も、(彼の肉体は)約60兆個の細胞から構成されており、約2年半で完全に入れ替わります。遺伝情報であるDNAこそが肉体の設計図であり、(彼の同一性を)維持していると思う人もいるかもしれませんが、実際には環境の変化によってDNAの現れ方は大きく変化するとも言われています。したがって、少なくとも肉体的には、松井秀喜に不変の本質など無いのかもしれません。人格的な面でも、起業家として成功するかもしれませんし、逆にホームレスになるかもしれませんので、彼の本質は不変であるとは言えません。もし松井秀喜に不変の本質があるとしたら、彼は良くも悪くも変わることはできないでしょう。固定された本質や同一性などないからこそ、人間は変われるのです。

 このように、「無常」と「無我」の概念は、当初、自分自身や関連する現象に対する固定概念や執着をなくすという実践的な目的で説かれました。しかし、釈尊が亡くなってから2世紀~3世紀後、釈尊の教えを綿密に分析・分類した弟子たちのグループの中で、新たな視点が生まれました。基本的には「無我」の立場を維持しながらも、人間が認識する対象のいくつかには何らかの実体や本質が内在しているという考え方が、後に多くのアビダルマ文献を残した、「説一切有部」、と呼ばれる学派を中心に表面化し始めたのです。

 その後、このような視点に対する批判が起こりました。これらの批判者達は、実体論的な世界観は、仏陀の無我の教えと矛盾する、と反論したのです。そして、このような実体論的な考え方は、阿羅漢を究極の目標と考える人々の間で発展したため、批判は実体論的な考え方だけでなく、阿羅漢を目指す修行方法そのものや、多くの苦悩する衆生を放っておいて、自分だけ阿羅漢となり、涅槃に入ろうとする、無慈悲な態度にも向けられました。

 このような動きは、般若経典類の編纂につながりました。般若経典類は「空」をテーマとし、実体論的な世界観は、仏陀の「無我」の教えに反するとして、否定しました。また、これらの批判者たちは、個人の悟りである阿羅漢に到達することだけに専念するのは、利己的なアプローチであると批判し、その様な修行方法に代わるものとして、すべての衆生が共に、菩薩行を行じて、共に仏に至る道を歩む修行を提唱しました。この運動は後に大乗仏教として発展する事になったのです。

 そして、紀元2世紀頃、「龍樹」が現れ、般若経典類に説かれている「空」の観点をさらに精緻化しました。彼は実体論的な見解を批判し、「空」の概念を、固有の固定した実体や同一性を持つものはない、と強調するものとして再定義し、それによって釈尊の「無常」や「無我」、そして何よりも「中道」に対する姿勢を再確認したのです。

ENGLISH

 

如来と呼ばれる光そのものに例えられる境地

 

 基礎編8でご説明致しましたように「自分の視点に囚われず、他のどのような特定の視点にも囚われる事の無い、完全な中道の境地に達することができれば、光そのもののように、あらゆる相対的な視点を超えた、時間も空間もない境地に達することができるのかもしれません」。仏典に描かれている仏の悟りの世界の様子は、ものの形や概念すらも超越した世界であり、正に、時間も空間も超越した光そのものが見えるであろう世界と酷似しています。

 釈尊の悟りの境地が時間も空間もない光そのもののような状態であるならば、一万年前の光が一瞬にして私たちに届くように、釈尊の悟りもまた、一万年前であろうと一万年後の未来であろうと一瞬にして私たちに届き、私たちが望めば、いつでも触れる事ができるものであると考えられます。釈尊が説かれた中道の境地は、あらゆる相対的な視点を超越しており、それゆえ時間も空間も存在しないが、(だからこそ、光と同様に)時間を超越して、あらゆる相対化された存在とは瞬時に交流できる境地でもあると考える事も出来るのです。

 このように、法蔵菩薩のような、真の菩薩行によって仏陀や如来となった者が到達する境地は、まさに光そのものの状態に例えられると思われます。興味深いことに、古代インドの言葉で阿弥陀仏とは「無限の光を持つ者」「無限の寿命を持つ者」を意味し、無知の闇を照らし、空間と時間の制約に縛られない光の仏を意味します。

 また、『華厳経』に登場する「毘盧舎那」とは、元はヴァイローチャナと言う「遍く照らす 」というインドの言葉で、大日経に登場する摩訶毘盧遮那も、元は同じ言葉です。この 言葉は、法華経の結経であるとされる『仏説観普賢菩薩行法経』にも登場し、釈尊を 「毘盧遮那 」と表現しています。それぞれの経典のニュアンスの違いには注意が必要ですが、いずれも 「無知の闇を照らす 」という根本的な意味に由来していると思われます。

 阿弥陀如来も毘盧舎那ぶつも「遍く照らす」という特徴を共有しており、やはり如来は光そのものに例えられていると言えるようです。

 光に似た存在である如来にどう近づくかによって、信仰態度の違いが出てくるのではないでしょうか。

 では、大乗仏教ではどのような信仰態度が発展してきたのかを概観してみましょう。

 

浄土経典に基づくアプローチ

 

 浄土教の経典では、阿弥陀仏の誓願を信じ、阿弥陀仏とその浄土を念じ続けることが勧められています。

 さらに、その究極の形として、13世紀の日本では、親鸞の「絶対他力」という信仰態度が説かれ、自分の無力さを徹底的に認め、阿弥陀仏の無限の慈悲に身も心も委ね、最終的には「自分」という妄想を忘れた境地に到達しようとする、正にこれこそが、浄土教の経典が本来意図した、究極の姿なのかも知れないという信仰態度を、親鸞は提案している様に思われます。

 親鸞の説く阿弥陀仏の慈悲に完全に身を委ねる「絶対他力」の道は、誰にでも簡単にできる道だと従来から言われてきましたが、本当に自我を完全に捨てて、阿弥陀仏に自分の全てを委ねることは、理想的な目標ではありますが、決して誰にでも出来る簡単なことではないと思われます。

 

法華経に基づくアプローチ

 

 法華経では、有名な16章に示されている「久遠実成仏」に対する信仰の態度は、師弟のようです。法華経によれば、人は強く求める心さえあれば、悟りの世界と一体となった如来である「久遠実成仏」から、法華経を通じて、いつでも教えを受けることができ、他の衆生と共に菩薩行を行じられるよう、常に悟りの世界から智慧と気づきを授かることができるとされています。

 そういう意味では、法華経を通して、菩薩行の師である如来から、教えを受けながら菩薩道を歩む方法は、一歩一歩しか進めない、非常に時間の掛かる道のりなのかもしれませんが、(その分)誰にでもできる、簡単で着実な菩薩行の実践方法であると言えるのかもしれません。

 

密教の経典に基づくアプローチ

 

 7世紀頃に編纂された密教の経典『大日経』では、大日如来と一体化することが究極の目標とされています。しかし、密教はその名の通り、特別な修行を積んだ者だけに許される修行が多く、一般人には非常にハードルの高い修行であるとされています。

 

禅仏教のアプローチ

 

 経典に基づく宗派や修行形態とは別に、達磨大師によってインドから中国に伝えられた禅は、中国と日本で独自に発展してきました。そして、現在では仏教の代表的な修行形態として世界的にもよく知られています。

 禅では、釈尊が瞑想によって悟りを開いたように、瞑想を続けることによって釈尊と同じような悟りを開くことが期待されています。

 しかし、歴史上、釈尊 以外に本当に仏陀になった人はいないという事実は、釈尊と同じように瞑想を続けても、仏陀になることは容易ではないことを示唆しているように思われます。

 釈尊 以来、数え切れないほどの修行者が釈尊と同じように瞑想を続けてきたはずですが、誰一人として仏陀になった人はいません。その理由は何でしょうか。

 やはり伝統的にも言われている様に、仏になるには瞑想だけでなく、菩薩として利他的な行いを積み重ねることが不可欠なのかもしれません。この点については、のちの章で詳しく検討したいとおもいます。

 このように、経典の成立年代やその目的から、当然ながら違う信仰態度が育まれたものと思われます。

ENGLISH

 

 これまで見て来ましたように、阿羅漢の道も菩薩の道も、相当な覚悟と信念が必要で、誰にでも歩める道とは言い難いものでした。

 ちょうどその頃、時代が進むにつれ、仏教のみならず世界的な宗教的潮流の中で、人々を救おうという大いなる意図を持つ存在に、全てを委ねる信仰が盛んになりました。

 この信仰にはさまざまな形があり、一様には語れませんが、基本的な態度は、自分の無力さを徹底的に自覚し、自分で何とかできるという傲慢さを一切捨て、ただひたすら超越的な存在の意志に身を委ね、その超越者の意志が自分の中で働くように委ねることです。そうすることで、最後には、「自分」という妄想とそれに対する執着を忘れた状態に到達することが期待されているようです。

 学術的な証明はまだされていませんが、西暦紀元前後のこうした宗教的な流れが、キリスト教の誕生に影響を与え、インドのバクティ・ヨーガの源流となり、仏教にも影響を与えて、浄土教の経典の編纂につながった可能性は十分にあると思われます。

 実際、浄土教典は紀元前後に編纂されたと考えられています。浄土教典は、後に阿弥陀仏となる法蔵菩薩の誓願がその前提となっています。

 法蔵菩薩は48の誓願を立てましたが、その中でも第18番目の誓願は伝統的に特に重要視されてきました。

 それは、要約すると、「私が仏になる時、この宇宙の誰であっても、私の誓いを信じ、私の世界に生まれ変わることを望み、私の仏名として『阿弥陀如来』の名を唱え続けたとしても、それでも、もし私の世界に生まれることができなければ、私も仏としての究極の境地に入ることはない」というものです。

 

仏陀と阿羅漢の違いは何か。

 

 基本的には、すべての衆生が成仏するまでは自分自身も成仏しないということが菩薩としての究極の境地ですが、前の章でご説明した、阿羅漢と仏陀の違いは、ここにあるのかもしれません。つまり、仏陀は最後の最後まで完全な涅槃には入らないということが示唆されているのです。

 

如来とは何か

 

仏陀と如来

 

 前の章の菩薩の所でもご説明致しましたように、自己も他者も同じ妄想の中で苦しんでいるのであれば、自分だけ優先する理由はなく、自己と他者の両方がこの妄想から解脱するために努力するのは当然のことであると言えます。

 つまり、自分だけを優先するという考え方は、自分という概念に囚われている証拠なのかもしれません。真の菩薩とは、前述の法蔵菩薩のように、すべての生きとし生けるものが成仏するまでは自分も成仏しないと誓う者のことです。

 このような菩薩としての生き方を最後まで続け、自己の視点にも他者の視点にも囚われることなく、完全なちゅうどうの境地に達することが仏陀の境地であり、如来とも呼ばれる境地なのです。

 更に、如来とは「真実の世界に到達し、そこから戻る者」を意味し、真実の世界に到達した仏陀が、そのままこの世から消え去ることなく、すべての衆生を悟りに導くために、この世の衆生を悟りの世界へと導き続ける、そういう仏が如来と呼ばれるのです。