Studio Displayのナノテクスチャガラスを使い始めて、思いがけず強く感動したことがある。
暗い画面に、自分の顔が映らない。
文字どおり、画面が漆黒なのである。
購入前には、文字が少し滲むのではないか、映像の鮮明さが落ちるのではないか、といったことを気にしていた。しかし、実際に使ってみると、そんな細かな比較よりも、「自分の顔を見せられない」ということの快適さのほうが、はるかに印象的だった。
では、なぜ人は、集中しているときに自分の顔を見たくないのだろうか。
映画や文章や仕事に集中しているとき、意識は目の前の対象へ向かっている。映画を見ているなら物語の中へ入り、文章を書いているなら言葉の流れを追い、仕事をしているなら課題そのものに注意を向けている。
そのときの私は、「見る側」である。
ところが、画面が暗くなり、そこに自分の顔が映った瞬間、注意の向きが反転する。
見る側だったはずの私は、突然、見られる側になる。
映画の暗い場面を見ていたはずなのに、画面には、少し疲れた自分の顔が浮かんでいる。物語の世界にいたはずが、急に現実へ引き戻される。
しかも、自分の顔を見ると、人はただ顔を認識するだけでは済まない。
疲れているな。
老けたな。
姿勢が悪いな。
なぜこんな表情をしているのだろう。
頼んでもいないのに、自己点検が始まる。
鏡であれば、最初から自分を見るつもりで見ている。しかし、ディスプレイの反射は、見ようと思っていないときに現れる自己像である。そこには、少しだけ不意打ちの性質がある。
集中とは、ある意味では、自分の存在を忘れることである。
文章を書いているとき、映画を見ているとき、何かを考えているとき、人は対象の中へ入り込んでいる。その間、自分がどんな顔をしているか、自分が他人からどう見えるかといったことは、意識の外へ退いている。
ところが、反射した顔は、その忘れていた自己を強制的に呼び戻す。
「あなたは今、これを見ている人です」
と、画面から指摘されるようなものだ。
だから、自分の顔が映ることは、単なる視覚的なノイズではないのかもしれない。
没入していた主体が、突然、観察される対象へ変えられる。
その切り替えが、集中を壊すのである。
ナノテクスチャの画面が快適なのは、単に光の反射が少ないからではない。
画面が、こちらを見返してこない。
暗い場面になっても、そこには自分の顔ではなく、ただ黒がある。現実の自分を差し挟まずに、対象を見続けることができる。
その黒は、何も映さない黒である。
だからこそ、奥行きがある。
画面が黒いというだけで、これほど静かな感覚になるとは思わなかった。
ナノテクスチャの漆黒に感動した理由は、画質の問題だけではない。
そこに自分が映っていなかったからである。