たとえば、通販番組。
「いや~、最近お腹が膨れてきたんですよ~(棒読み)」
「はい、そんなときにはこちら。ウォーキングマシーンです(棒読み)」
「あ~、これはいいですねぇ(棒読み)」
「これを使うとなんと、家の中でも運動が出来るんですよ(棒読み)」
「私もこれを使い始めたんですが、すっごく効きますね(千葉県佐倉市佐倉さん)」
「この歳になると家の外に出るのも億劫でねぇ、でもこの商品だと有酸素運動が出来て、とても効果的なんですよ(新潟県燕市燕さん)」
「大好評のこちらの商品。なんと、今なら19800円!しかもこれに、万能包丁もつけちゃうんです!(棒読み)」
「えぇっ、19800円?(棒読み)」
「お申し込みは今すぐ!0120-OOO-×××(本音)」
たとえばこういうCMを見たときの私の反応は、
・・・わざとらしい・・・
という単語一語だったり、
・・・誰が買うの?・・・
だったり、
・・・こんなおまけついてもなあ・・・
だったりするわけですが、
じゃあこのCMが解決策To俺を実行したとすると、
☆ものすごく迫真の演技
☆おまけの充実
とかが挙げられて、
それで私が買うかというとやはり買わないのです。
その根底にあるのは「通販に対する不信」
であって、
もっといえば
「やったことが無いものに対する不信」
なのです。
つまり、ある現象について私が感じる感情の大多数は根底にあるものから生まれているんですが、普段の反応ベースだとむしろ表層的になりがちであることが言えます。
今回秋葉原で通り魔事件がありましたね。
これを聞いたときの私の反応は、
怒り、でした。
それまで一緒に話してた人が軽く引いたらしい笑
それくらい表情にも出ていたとのこと。
じゃあ何に対する怒りか。
これがまた、難しいのです。
あるいはその後、犯人の両親が謝罪したというニュースを見たときには、
やるせなさ
でした。
なんだろう。
事件そのものは許されるものではなくて、
犯人個人に対する怒りは感じるのです。
ただ、その後の報道を見るにつけてその怒りはむしろ薄まっていって、
残るのは原因究明と称したマスコミの魔女狩り的報道に関する呆れとか
両親を哀れに思う気持ちとか。
怒りが薄まる=その罪を許す
というわけではないのですが、
なぜあのとき感じた激情が、時間が経つと薄まるのか。
人は、忘れることが出来るから生きていける。
本当にそうなのだろうか。
自分は果たして、「忘れ」ているのだろうか。
あるいは、「知らない」のだろうか。
答えはたぶん両方正しくて、
私は「無知」だし、「忘却」している。
そうはなりたくないのだとすれば、
私はいったい何になりたいのだろうか。
あるいは今回、
犯人の気持ちはある程度理解は出来るかもしれません。
両親の気持ちも、理解できるかもしれません。
マスコミの姿勢だって理解できるし、
警察の捜査も理解できるし、
視聴者の反応も理解できるかもしれない。
「理解できる」ことが果たして、
何かの解決につながるのか。
関わる人々の動きは、この社会システムで決められた事象で、
その役割を果たしているだけなのだろうか。
果たして解決ってなんなんだろうか。
ってなことをつらつらと考えていました。
で、とりあえずの結論としては、
こういうことを全て「理解した」だけでは、何も進まないんだろうなぁ。
ということ。
「理解」の果てにあるものは何なのか。
それをつきつめていくことが、今の自分には求められているのだと思います。
誰が求めるのか。それは、自分自身。