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キリスト教やイスラム教のように他者への貢献が宗教上の貢献に繋がる欧米・中東等と比べると、

日本ではボランティアというものはあまり理解されにくい。

 

「何でわざわざ自ら進んでタダ働きをする訳?」

「いい事してる気になりたいの?偽善?」

 

殆どの人の反応はこんなところだろう。

 

ただ一方で実際に関わっている人の話を聞いてみると

「楽しい」「わくわくしながらやっている」

という言葉が出てきたり

「やらなければ、と自然に身体が動いて」

という感じだったりする。

 

このギャップは何なのか。

自分の想いや周囲でやっている人から聞いた言葉をまとめて

自分なりの理解を書いてみたいと思う。

 

 

印象としてボランティアをやっている人には大きく2種類いる。

 

 ①お金の代わりに別の何かを得ている

 ②やらなければという衝動でやっている

 

おそらく多いのは①で、自分もこれにあたる。

 

「何か」とは何か。

 

例えば「知識」。国際協力に関わることで本やテレビでは知ることのできないような現地の事情を詳しく知ることができる。

 

そして「やりがい」。普段仕事や家庭でどんなに頑張ってもなかなか良い方向に進んでいるという実感を持ちにくいし感謝される機会も少ないが明白な課題に取り組む過程では前向きな進捗が実感しやすく、周囲に貢献できているという実感も持ちやすい。

 

更には「別の世界観に触れる」ということも重要な要素だ。日常生活だけでもなかなか大変な場合もあるが、1人の人間が日常的に触れられる世界などというものはかなり狭いもので、会う人も限られる。物事は近くにあり過ぎると見えにくくなる場合も多く、日常生活から時々外れるというのは心を保つのに非常に大切なことだ。

 

勿論これらはボランティアとして働かなくても満たすことができる場合もあるが、消費者として出せる金額に限界があったり、必ずしも参加することが歓迎してもらえない場も多い中で、自分の持てる力をまず先に差し出すということは、元々アウェイである場に入りやすい1つの手段である。

 

 

そして②は、例え話の方がわかりやすい。

街を歩いていた時に、目の前の人が誤って荷物をばらまいてしまい散乱してしまったとする。自分の目の前にその一部が転がっていたら、拾って渡してあげるくらいのことは多くの人がするだろう。

これだって見返りのない仕事でありボランティアと言えるが、それはタダ働きだ・偽善だという人はあまりいないだろう。

この程度が違うだけの話である。

 

目の前で倒れた人がいたら救急車を呼ぶくらいのことはしてやりたい、外国から来て日本語に困っている人がいたらジェスチャーでも何でもして解決してあげたい、学校に行けずに困っている子供がいたらわかる範囲で教えてやりたい、食べられずに困っている人がいるならできる範囲で食べ物を分けてやりたい。。。。。。

 

その時の対象者が家族か、顔見知りか、日本人か、ということにどこまで拘るだろうか。

おそらく人それぞれだが、これを拘りが少ない人程、ボランティアへのハードルも低いだろうと思う。

 

 

少し前に戻って「①お金の代わりに別の何か」の話の中では「知識」、「やりがい」、「別の世界に触れる」の3つを書いたが、最後に自分にとって最も重要な4つ目を付け足すと、こういった経緯で集まってきて前向きな心とパワーを持って取り組んでいる人々に囲まれるという「環境」が

挙げられる。

人の心は環境によって一瞬で180度変わってしまうものだから、折角なら良い環境にいたいもの。そして環境の中で最も影響力があるのは人。だからいい人のいる環境にいることが大事なのだと、自分は強く思っている。