デフリンピック |  就労継続支援A型事業所ドリフのブログ

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 昨年の9月、ブラジルのリオデジャネイロでありとあらゆる障がい者アスリートのためのオリンピック、パラリンピックが開かれました。しかし、パラリンピックよりもその歴史は古く、パラリンピックでは参加できないある障がい者アスリートの為のオリンピックが今月の18日からトルコのサムスンで開かれてるのです。それは、聴覚障がい者アスリートのためのオリンピック、デフリンピックです。

 

 皆さん、デフリンピックて知ってましたか?パラリンピックが近年認知度が広がったようですが、デフリンピックはオリンピックやパラリンピックと違う開催年だからなのか、あまり知らない方が多いと思います。実はこのブログを書いてる人もデフリンピックのことはドリフに入社するまでは知らなくて、「デフリンピックもブログに載せるぞー」という意気込みで調べていて、タイミングよくブログに書く予定でしたが気づいたときにはもうその大会は始まって、しかも大会後半の日付でした。このブログを書いてる人は後悔と無念が頭をよぎりましたが、しかし、「書かなければデフリンピックが多くの人に知られないままになる。それでいいのか!?今は見送って、2年後を待つのか!?いや、それでは遅い!!」という葛藤もあり、せめて今回のデフリンピックが終わる前でも書かなければいけないという決意の元、今週最後のブログをデフリンピックを書きます。(前文長くてすいませんでした)

 

 デフリンピックとは2回も言いますが、聴覚障がい者アスリートのためのスポーツ大会です。その歴史はパラリンピックの前身に当たる国際ストーク・マンデビル競技大会が第2次世界大戦後の1948年なのに対し、デフリンピックは第1次世界大戦後で第2次世界大戦が始まる前の1924年なのです。当時は国際ろう者競技大会という名称で、参加した国は9カ国で、フランスで行われたパリオリンピックのあとに開かれました。オリンピックの後に行われるスタイルは後のパラリンピックと同じですが、オリンピックと同じ年に行われる事は次のオランダのアムステルダムまでで、第3回目の国際ろう者競技大会はドイツのニュルンベルクで1931年に開かれました。第4回目のロンドン大会、第5回目のストックホルム大会の閉会後の数日後に第2次世界大戦が起こってしまい、国際ろう者競技大会もオリンピックと同様に一旦中止されました。

 そして第2次世界大戦後、1948年にロンドンオリンピック、その同時期に同国のストーク・マンデビル病院で初のスポーツ大会(後のパラリンピック)その翌年にオーストリアのゼーフェクトで10年ぶりに国際ろう者競技大会が開かれました。しかも、初の冬の大会です。その後、コペンハーゲン、オスロブリュッセルと続き、日本が初出場したのは1965年のワシントン大会で7名の選手で銀1銅1のメダルを取りました。ちなみに日本選手初の金メダルは、1973年のスウェーデンのマルメ大会金4銀2の成績でした。『国際ろう者競技大会』という名称も1967年には『世界ろう者競技大会』に変わり、『ろう者(Deaf)+オリンピック(Olympics)』の造語の『デフリンピック』という名称は2001年のローマ大会からだそうです。

 

 デフリンピックの公式ロゴマークは聴覚障がい者のデザイナーラルフ・フェルナンデス氏が描いた作品で、『手話』『ろう文化』『結束と継続』

の要素が含まれてます。手の形が『OK』『GOOD』『GREAT』を意味するサインが重ねられており、『結束』や『デフリンピック』の手話も表してます。また、ロゴマークの中央は『目』を表しており、聴覚障がい者が視力中心の生活を営んでる事をあらわしてます。配色の赤、青、緑、黄色はそれぞれアジアや太平洋地域ヨーロッパアフリカ南北アメリカ大陸を現しています。

 余談ですが、尾張徳川家の19代目の当主で、2015.02.06のブログでも触れた徳川義親はろう教育の普及を支援しました。ただ、彼が支援したろう教育は口の動きで言葉を理解する『口話法』(当時、世界的にろう教育は『口話法』が全盛期であった)で、『手話法』の必要性を説くろう教育者から論破されたことで『手話法』を擁護するようになったようです。

 

 現在の日本選手のメダル総数は金3銀9銅11と、閉会まであと2日の時点で日本がデフリンピックに参加してからメダルを取った数が新記録されたことが伺えます。デフリンピック啓発ウェブサイトから見ても分かるとおり、聴覚障がい者のみならず、どの障がい者スポーツも差別との戦いですが、それにめげることなく日々練習を重ねてデフリンピックの舞台で己の精一杯の力を出していると改めて思いました。

 

 さて、デフリンピックの歴史を周知の歴史とも交えて書いてきました。最近報じられてるニュースで、この先不安ばかりが渦巻いてると思いますが、それでも、障がい者が活躍できる社会はきっと、平和だという証なのだと思います。