池田家の小牧・長久手から史・前 |  就労継続支援A型事業所ドリフのブログ

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 気温が低くて曇りがちだった昨日までの天候でしたが、今朝は嘘のように晴れ間が広がる陽気です。

 

 今日は433年前の1584年5月18日、旧暦で天正14年4月9日、この日は小牧・長久手の戦いでの長久手の戦闘が起こった日です。(小牧・長久手の戦いについては、4/12のブログも見るべし)

 つまりこの日は、信長の乳兄弟だった池田恒興・元助親子が亡くなり、輝政ら池田家の数十年に及ぶ苦難が始まったとこのブログを書いてる人は思うので、今回のブログではこのことを書きたいと思います。

 

 まずは、小牧・長久手の戦いから歴史を遡ること48年前の1836年(天文5年)池田恒興は生まれました。このとき、母親の養徳院が当時3歳の信長の乳母である事から、幼少のころから小姓として信長に仕え、織田家の後継者争いの稲生の戦いなど数々の戦いに出陣して手柄を取り、1564年(永禄7年)に元助がその翌年に輝政が生まれ、1570年(元亀元年)の姉川の戦い後に犬山城主となって1万貫を与えられ、1580年(天正8年)の花隈城の戦い後に、摂津(今の兵庫県神戸市あたり)を領しました。

 1582年(天正10年)の甲州征伐では二人の息子を出陣させて、同年に起こった本能寺の変の後、中国攻めから引き返してきた羽柴秀吉と合流し、山崎の戦いで右翼先鋒を務めて光秀を破り、織田家の宿老に列しました。

 織田家の後継を巡る清洲会議では、柴田勝家らに対抗し、秀吉と丹羽長秀と共に信長嫡孫の三法師(後の織田秀信)を擁立して、領地の再分配では摂津国の内大坂・尼崎・兵庫において12万石を領有し、翌年の賤ヶ岳の戦いには参戦していませんが、美濃国内にて13万石を拝領して大垣城に入り、元助には岐阜城に入りました。

 

 そして、1584年(天正12年)、秀吉方として参戦した池田恒興・元助・輝政親子は(その理由は居城の犬山城が秀吉軍に攻められたので、やむなく秀吉につくことになった。本当は信長次男の信雄につくはずだったのか、詳しくは定かではない)娘婿の敗北と小牧山に本陣を敷いたまま動かない信雄・家康連合軍に痺れを切らしたのか、長久手を経由して家康の居城の岡崎城を攻めると言い出した。池田恒興の作戦はこうであろう、兵を三河に出して空虚を襲い各所に放火して脅威すれば徳川は小牧を守ることができなくなるであろうと。4月6日の夜中、総勢約2万の軍勢は小牧山に布陣した家康に気づかれることなくひそかに長久手方面に出発したが、翌日に近隣の農民からの情報で家康はこのことに気づき、家康はすぐさま9300の軍勢を率いて出陣した。総勢約2万に及ぶ軍勢はたちまち削りに削られ、長久手に着いたときは総勢9000に減っていったと言います。4月9日の10時ごろに両軍は激突して、一進一退の攻防が続きましたが、恒興の娘婿が狙撃されたのを期に戦況は家康有利になり、恒興は軍勢の立て直しを図りますが、家康家来の永井直勝の槍を受けて討死にし、元助も同じく家康家来の安藤直次に討ち取られました。輝政は父と兄がすでに退却したと言う報告を受けて輝政は命からがら退却しましたが、そのときはまだ、父と兄の死を知らなかったと言います。

 

 

 さて、続きを書きたいのですが、時間が来ましたので、また今度...(タイトルのネーミングについては突っ込まないでください)