ショパン「POLONAISE MAURIZIO POLLINI」(1998年)という作品。ピアノの音が澄んでいて、部屋の空気が浄化されたかのよう。ポロ、ポロ、ポロン。時期的に、まるで、最近ニュース番組などで頻度よく聞くことになっている、ロシア語のようである。私は、ロシア語が出来ないので、何言っているのか全然分からないが、ロシア語はピアノの音のような言語だと思った。流れるような旋律に、戦慄する。
ショパンのCDを聴きながら思っている。
音楽というジャンルなんかは、「メロディ」という核に当たる部分だから、モロにそうなのだが……、音楽は勿論のこと、広くは芸術、そして文学や文章というのは、全体的な「流れ」によって、全てが決まってくるような気がしている。
いわゆる文脈や文体っていうやつだろうか。
この文章は何を言わんとしているのか、という内容や言葉そのものよりも(それも凄く大事だが)、どのように言葉が流れるように、そして分かるように話が展開されているか。矛盾の出来るだけ少ない論理性があるのかどうか。
そっちの方が、内容より実は重要のような気がする。
言葉や語句や言い回しなどが、難解なのか安易なのか、というのは二の次の問題の気がする。
そもそもの文脈や文体がしっかりしていないと、言葉や語句が譬え立派であっても話がなかなか通じないのだ。
当然、流れるように書くには、人の言葉を借りてばかりではいけない。自分の頭で考えた、「自分の言葉」で語らないと、お話にすらならない気がしている。
一方、大きく言って、人生という長い物語も広くは「芸術」そのもののようだから、これも全体が綺麗に流れるかどうかなのではないか。
この世に生まれてから、死ぬまでの人生期間の流れである。「人生設計」なんてものは邪道だ。そういうことでは全然ない。
大きな矛盾や誤り、多大な悪事さえなければ、普通、人生は滞りなく素直で清らかに流れる。矛盾や悪事ばかりではスムースには流れず、どこかぎこちなく苦しく、一貫するように幸福には生きれない。
しかし、そのように綺麗に人生が流れないとするならば、大なり小なり、何か原因がある気がする。一度、過ぎたことを振り返ってみて、その時の最中でもいいし、後になってからでもよい。反省や訂正を施せばよいのだ。次第に良い方向が定まってくる。
勿論、取り返しのつかない事柄でなければ、の話である。
大抵のことであれば、普通は何でも訂正出来るものなのだ。
しかし、善悪自体が感覚的に一切分からない人であれば、後になって訂正出来ないことも十分有り得る。例えば、殺人など凶悪犯罪は以ての外なのだ。
だから、幼少期からの善悪の感覚は、非常に大事な部分になる。
ショパンのような音楽を創作するように、自分も文章を上手に書けないものか。今のところ、なかなか上手くいっていない。
やはり、才能の問題なのだろうか?
奇想天外な発想も大事になろうが、それよりも、日頃の思考というものが、大きく文章には影響する気がしてならない。私は、日頃の努力がモノを言うものとして信じているのである。
良質のメロディのように、流れるように説明がしたい。
そんな風に、風がフーッと吹き流れるように今、思った。
一体全体、何を言ってるんだろう?