デヴィッド・ボウイ、スポーツ選手なら潔く | 新時代思考記

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令和の時代も考え続けます!

デヴィッド・ボウイ「STAGE」(2005年)というライヴ盤2枚組。このアルバムを聴くと、一層オトナなボウイを感じる。この方が歌うと、何でも艶っぽい大人な感じになる。どんな曲調の歌であっても不思議とそうなのだ。人生経験豊かで、性に関しての苦しみもあったからだろうか。よくは知らないが、今のLGBTの先駆けであったようだ。確か、「B」のバイセクシャルだったかな。

 

 

ウエイト・リフティング、つまりは重量挙げの選手に纏わる奇妙な話。もともとは男子選手で競技をしていた選手なのだが「T」のトランスジェンダーをカミングアウトしたということで、今後については女子選手に混じり重量挙げの競技をすることになったらしい。しかもその最初が東京オリンピックであるらしい。

 

正直、何だかな~と私なんかはつい思ってしまうような話だ。オリンピックにおける多くの競技の中での熾烈な戦いというのは、常日頃からの身体能力や筋力の鍛錬の結果、成果を競う訳なのである。だから心が女子であったとしても(この事実も、真実かどうかが疑わしい)、体格は男子であるならば、筋力値も男子選手と同じ数値を示すので、結局は男子選手と断定出来ることにならないか。だって、そもそも身体が男なんだから。

 

だから、この方は卑怯な手を使うことはよして、潔く男子選手の方に混じるべきだ、という風に私ははっきりと思う。そもそも、体格が男子の人が、筋力の弱い女子の中に入り込んで競うことで、その結果一番になったとしても心から嬉しいものなのだろうか。心底からは嬉しくない、勝って当然といえば当然、と感じるのが普通だと思う。こんな悪しき事例、スポーツマンシップにも全然則っていないし、何より狡い。正々堂々の他の女子選手が可愛そうである。トランスジェンダーが問題なのではなく、その性格こそが問題なのでは。そのような考え自体のレベルはメダルは疎か、予選すら通ってはならないのではないか。

 

それから、オリンピックのこういう重要な規定を決める人たち、考えの根本が腐っとる、と思う。