エリック・クラプトン、普遍的感覚 | 新時代思考記

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令和の時代も考え続けます!

何度目かの登場。ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレーカーズ「BLUESBREAKERS WITH ERIC CLAPTON」(1966年)というCD。名盤だと推す声が多く、確かにこの作品には、何か「普遍的」な良さがあるようにも、私なんかですらも思ってしまう。「普遍的」に優れているものは、年月や時間の経過では決して腐ることはない。繰り返し何度聴いても、或いは放ったらかしにしていても、いつまでも輝き続ける存在である。

 

 

ケータイ料金が安くなるとか。確か菅政権の目玉政策…と言われているのかどうか知らないが、とにかくこのケータイ料金の大幅に値下げする話は、菅首相が官房長官の時代から言われ続けていた政策である。ドコモが20ギガで2980円、ソフトバンクが追随する。発表では、auはもうちょっと高いのだろうか。

要するに、漸くであっても、渋々であっても、ここまでケータイ各社が価格を下げることが出来るということは、今までが如何に「ボロ儲け」だったかということだ。これで適正価格になったのだろうか。ギリギリの思いで何とか生活していた大多数の、ユーザー、国民にとっては嬉しい話ではある。

 

上級国民(要するに、偉い人たちのこと)などにとっては、こんな値下げはあってもなくても、そんなに大したことではなく、生活に取り分け変化もない(そういう金持ちの方が、お金に、やけにケチである印象があるが)。しかし普通の我々一般国民にとっては、譬え数千円であっても、生活に直結するような大きな話なのである。

ケータイ料金に限らず、そういう商品などの大概の価格を取り決めている人たちというのが、殆どの場合、エリートなどの上級国民であることが多い。こういうところで国民と国民の間、上級と中級、或いは下級の者との意識の僅かなズレが必ずや生じてしまい、結局は世の中を悪くしている根本的な原因にもなっている気がする。

「普遍的」な価値観で言うとすると、何も絶対的にお金持ちやエリートの人たちが、世の中を、世界を牛耳る必要は全然ないと思う。法律でも当然、決まっていることではない。しかし現状は、正に大昔からの「支配と奴隷」の仕組みとなっている。お金や権力を持っている人ほど崇められ偉いと思われる、という現状だけは何故か変わらないのである。

例えばの話だが、「上級国民ほど貧乏である」といった話の方が、今の下らない仕組みよりも、実は新鮮だし、面白くていいのではないか。今までの仕組みというのが「普遍的」でもなければ、いつまでも「支配と奴隷」という古い固定観念に縛られる必要もないのである。

 

報道されていないようだが、トランプ氏はアメリカの大統領をやっているが、高額な給料は、全くと言っていいほど、貰っていないのだそうだ。そういうトランプ氏の良い所、長所などを何にも報道しない、不公平なメディアに対し更に憤る気持ちと、トランプ氏に対し改めて尊敬する気持ちが交錯する。嘘や無視、間違いだらけのメディアの報道にはうんざりだ。世の中は、人生は「お金ではない」という普遍的なことを、大統領が身を以て実践している…気がする。

やっぱり…勝って欲しいな。