ボブ・ディラン、空気読む | 新時代思考記

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令和の時代も考え続けます!

ボブ・ディランのこの盤。

ディランのベスト盤の中で、私は一番!と思うアルバム。

 

 

「空気読む」「空気読めない」という言葉がとても流行った時期が有った。

「空気読めない」は、「KY」とも言われる。

大分前のことかもしれない。

 

「空気読めない者」は、そのことで批判対象というか非難対象というか、そういう事態に晒された。

確かに、空気を読まなさ過ぎ、というのも些か問題ではあるのだが、でも、今の私が思うことだが、空気読んでばかりの者も、同じくされるべきではないか。

 

周りの顔色ばかり窺って行動する者。

自分がない人。

 

「空気読めない者」、或いは「空気読まない者」、とはどちらかというとだが、「自分を持っている人」のことだと密かに思っている。

そういう「自分を持っている人」が心底では“怖い”という理由で、「自分がない者」は、周りを気にしつつも、「自分を持っている者」を攻撃対象とする。

実は、「自分がない者」の方が「自分を持っている者」よりも、人数で言えば圧倒的に多いのだと思う。

だから集団攻撃やいじめ問題というものに発展するとも考えられる。

 

今、新型コロナウイルスに関しての差別問題が世界中で起きている最中だが、これらのことというのは結構、今述べさせて頂いたことと同じような事柄ではないか。

今の一連の「コロナ騒動」と、「空気読める・読めない」の話とが同類だと考えると、少しだけ分かり易い。

(ただし「自分を持っている」、「自分がない」人達の考えや思想的な違いなどとは全然関係がない、と言える。)

 

新型コロナウイルスに罹っている者の少数を、多数である健常者が差別する、という構図だ。

それが譬え新型コロナウイルスの症状が完治した状態であっても、何故か起きていることであるらしい。

 

海外では、少数者のアジア人が、多数者の海外の各国民から露骨な差別を受けている。

 

結局、数の問題なのだろうか?

少数者を多数者が非難する。

民主主義というシステムの弊害なのだろうか。

一方、パラリンピックの取り組みなどから分かるように、障害者やマイノリティなどが、昨今、社会に受け入れられつつある。

(私は、表向きだけで真には受け入れられていないのではないか、と見ているのだが…。)

とにかく、感染症差別などをしている場合ではない。

 

周りの顔色や動向ばかり窺う、「空気を読む」ということは本当のところはどうなのだろうか。

周りを気にせず、しかしいつも自分のしっかりとした意志で以って行動している、つまりは「空気読まない」人の方が極端な場合を除き、本当は賢い人だと言えるのではないか。

そういったような疑問や真実が、新型コロナウイルスの騒動を見ていると、沸々と湧いてくる。